第14話

「僕が一緒でも大丈夫なのかな」夕暮れの歩道を、僕はかなえちゃんと歩いていた。夕日に照らされアスファルトにのびた影は、暑さと陽炎でいびつなろうそくのようにも見える。彼女のうなじに汗が浮び、綺麗な雫となり、瑞々しい肌をつたって、垂れていく。

「大丈夫だって、わたしがちゃんとお願いしたから」

 連日の暑さにもかかわらず、かなえちゃんの声には涼しさが感じられた。雪解け水に触れているような気分になる。僕の精神構造が変わってしまったのか、二人でいるだけで苦難も克服できるような、そんな都合のいい錯覚がいま起きている。

 かなえちゃんと付き合いはじめてから、バイトも、小説も、両親のことも切実な問題と感じることなく、一歩ひいて俯瞰的ふかんてきな視点で見つめられるようになっていた。

 先日、父親の見舞いに行ってきた。父の大好きなつぶあんのまんじゅうをたずさえ、おそるおそる病室に入った。

 最後に会話したのが、確か半年ほど前の電話だった気がする。

「母さん、久しぶり」四人部屋の一画で父の横たわるベッドの横に、対となる置物のように、母は座っていた。夫婦なのだから対は当たり前か。ベッドで寝ている父にも声を掛ける。「父さんも、久しぶり」

「よぉ、久しぶりだな」と快活そうな声を、父は発した。とても病に侵されているような印象はなかった。命をむしばむ病気に侵されながらも、気持ちの面ではまだまだ勝っているようだった。

「調子はどう」手に持った紙袋を父に手渡す。

「おっ、気が利くようになったな。調子は見ての通りだ。何事も順調だ」

「いまさら気が利くようになっても、ねぇ」と母が父からまんじゅうの入った袋を奪い取った。「お父さん、いまは甘いもの食べられないのよ」

「母さん、せっかくなんだから一口くらい良いじゃないか」

「ダメなものはダメです。広斗、あんたももう少しお父さんのこと考えなさいよ」

 母のお叱りを受け、僕と父は目配せをした。平常運転というか、この時ばかりは家族が集まったという安心感がそこにはあった。

「母さんは厳しい」と父は目で語っている。小学校の教師であった母ならでは、といった感じで先生の言いつけは守るべきものだと、身体に染みついているに違いない。

 そんな母が、僕がフリーターなどという将来が見通せない場所にどっぷりと浸かっているのを黙って見過ごしているのは、言うまでもなく父がその不満を丸め込んでくれていたからだった。


「最近はどうだ」父が床ずれを気にしてか、身体を傾けた。

「どうだって、なにが」

「日本の景気だよ」

「コンビニは日本経済の中心的役割は果たしてないよ」

「じゃあ経営のほうは大丈夫なのか」

「僕はただのアルバイトだよ」

「五年も働いてるのにか? フランチャイズというのは経営者未経験の人が多いとも聞いたぞ」

「だから家の近くにあったコンビニは、三年で潰れたんじゃないかな。僕の時給もやっと百円上がったくらいだよ」

「そういうものか」と父はまた窓の方に身体を向けた。「まぁ、逃げるなよ」

 その言葉が何を指しての言葉だったのか、そのときには分からなかった。「逃げるなよ」だったのか、もしくは、「投げるなよ」だったのか。コンビニのバイトから逃げるなよという意味だったのかもしれないし、夢を投げ捨てるなよ、という意味だったのか僕は測り兼ねていた。


 かなえちゃんの背中を追いながら、いままでの自分の行動をかえりみた。夢は諦めるどころか、拍車がかかったように筆はのっていた。モチベーションは上がり続け、五月末の締め切りだった新人賞にも一作応募できた。手応えはある。恋人ができただけ、というのも虫のいい話で、結局は気持ちの持ちようなんだと思い知らされた。

「洋子さんの息子君は、今日で幾つになったんだっけ」僕は今日の主役である男の子の情報を、かなえちゃんから聞き出す。

夏摘なつみくん? 今日で四つだよ。めっちゃ可愛いんだ」とかなえちゃんは僕を振り返った。子供好きな女の子だということに、僕はどことなく安心した。僕の個人的な見解で、女性の喫煙者と子供嫌いな人は、正直なところ苦手だった。

「めっちゃ可愛いって、この間、ペットショップに行った時も言ってたね」

「だって、可愛いものは可愛いもん。違う?」頬をほころばせかなえちゃんは前に向き直った。ぴょんぴょんと跳ねるように歩く姿は、ペットショップの仔犬を想起させた。

「そうやってはしゃいでるかなえちゃんも、可愛いよ」と僕はかなえちゃんの背中ごしに言った。機敏だった彼女の動きが、次第に緩慢になりゆっくりとした歩みへと変わった。

「そんなこと、ないよ」自信がない、弱弱しい否定だった。

 どんな顔をしているのか、想像しやすかった。きっと照れているに違いない。振り向いたとしても夕日に照らされた顔は、赤みを帯びているようには見えないはずだ。僕自身、それを堂々と受けとめられる余裕はない。普段からかなえちゃんに対する好意を形容する言葉を、直接本人に言うことがあまりないからだ。心ではいつも思っていることなのに、二人でいるときにはNGワードのようにロックがかかり、口をついて出ることはなかった。

 言葉に出せないためか、文章に変換してやり取りを交わすのが、僕たちの定番だった。

「映画館でうとうとしていたかなえちゃんは、可愛かった」とか。

「小説のネタになりそうなものがあるときの、広斗くんの真剣な眼差しが素敵だった」とか。

 お互いにその場で思っていたであろう言葉なのに、家に帰ってからLINEで伝えるという遠回しなことを今まで続けてきた。たぶん、お互いに反応を見るのが怖くて言い出せなかった。お互いに、相手を喜ばせるためにそういったことを言うわけじゃない。自分が相手に感じた想いを届けるための伝達であって、見返りを期待しない一方通行な手段であった。下駄箱に入れられたラブレターのように甘酸っぱくて、もどかしい。

「そんなことが、僕にはあるんだ」一歩前へ踏み出し、かなえちゃんの手を掴んだ。「早く行こう」

 誤解を恐れず言うなら、声に出さなければならないほどに、君への想いが大きくなってしまったと言える。肥大化した感情は、手の施しようもないくらいに僕をむしばんでいる。


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