第26話

 成り行きで始まったゲームだった。が、当の本人は真剣な顔つきだ。このゲームの肝は、握手という限られた手の握りで相手を判別するということだった。僕、和夫さん、相沢さん、そして夏摘くんという布陣で挑むこのゲーム。まず夏摘くんが選ばれることはないだろう、最初はそう思った。

「うーん」と顔をしかめてかなえが唸る。

 和夫さんの手を握るその姿は明らかに悩んでいた。男性陣はいっさいの声も上げない、手に力も加えないとキツイお達しがあった。僕だけに限られた制限かも知れないが、それほど悩むことじゃないだろうと高もくくっていたので、いまどうやって、僕が広斗であるかを伝えられるか真剣に考えていた。

 和夫さんは青ざめ、チラチラと洋子さんの表情を何度も窺っていた。早く手を放したい、そんな雰囲気すら伝わってくる、が、かなえはまだ手を放そうとしない。触感を確かめるように強弱をつけて、しっかりと手を握っていた。何か、もやもやする、そんなしっかり手を握らなくても良いじゃないか、これはゲームだし、悔しいが外してもいい。次に夏摘くんが控えている。かなえは直ぐにわかったのか安堵の表情をみせた。

 そうだよ、不安なら夏摘くんを選んだらいい。夏摘くんにならほっぺにチューという罰ゲームも許せる。大人げなくムスッと頬を膨らませたりしない。夏摘くんの次は相沢さんが控えていた。相沢さんの手はさすが元柔道部という感じで、がっしりとした分厚い手だった。これは僕のような貧弱な手とは違い、すぐに違うことに気付きそうだった。かなえは恐る恐る手を差し出す。相沢さんはガッチリとかなえの手を取って握りしめた、ビックリしたのか一瞬身体を震わせた。どうやら直ぐに僕じゃないと分かったのか、落ち着きをとり戻し、自信に満ちた表情をみせた。

 最後は僕だ、頭の片隅で不安が過る、目が見えなくなってしまったかなえは、僕のことをどうやって確認するのだろうか。声を頼りに? それとも手だけで僕だと判別できるのだろうか、和夫さんの時に見せた迷い顔に僕は落ち着かなくなる。僕だってはたして手を握っただけで、かなえだと分かる自信が持てない。この意地の悪いゲームはもしかしたら僕のために必要なことだったのかもしれない、目が見えて当たり前な僕にかなえの心情を、慮る機会を、与えられたのかも。

 かなえが目の前に立ち手を差し出す。ショートカットの髪が小さく揺れる。前髪を留めたヘアクリップはいつかのコンビニに来たときに付けていたものだった。来るときにはサングラスをかけていたが、いまは室内で顔見知りしかいなかったので紫外線カットのレンズがついた眼鏡を掛けていた。

 懐かしさが胸に込み上げてくる、こうしていると店員とお客さんの立場で接しているような錯覚をおぼえる。始まりはそうだった、かなえはこんな風に、冴えないこじんまりとした風貌で僕の前で買い物をしていた。やや伏見がちな視線で、「お箸をつけてください」と小さな声で囁いた声が、耳の奥で鳴る。何十、何百と聞いてきたかなえの声が脳内で再生される。好きな言葉をしゃべらせられるくらいに高いクオリティの再現度だった。

 静かにかなえの手を握る、『僕たち、握手は慣れてないよね』と心で語りかけた。

「あっ」かなえが小さな声をあげた。

「そりゃ卑怯だぞ、広斗」相沢さんが非難の声をあげた。

「え?」僕はわけも分からず握った手を見下ろした先に、滲んだ視界が広がっていた。

 握りあった手に、僕はぽたぽたと涙の雫が落としていた。よくもこんなに大きな粒の涙が流れるもんだな、と心の中で苦笑いした。なんで泣いているのかも分からない。かなえの目が見えないことを悲観してなのか、かなえに巡り会えたことへの感激なのか、自分でも分からない。分からないが、心が枯れるほどに、僕はむせび泣いた。


「どうして泣いちゃったわけ?」かなえは腕にしがみ付いて離れない人形のように、ぴったりと僕の横について歩いていた。

 満天の星空と少し欠けた月、静寂とをマントで包み込んだような、奥行きの見えない深い夜だった。誕生日会が終わり、かなえを家まで送る道の途中で、僕の失態についてかなえが追求してきた。

「なんか裕佳ちゃんみたいな聞き方だ。意地悪なききかた」僕は拗ねる。泣きたくて泣いたわけでもない、理由が自分でも分からないことになんて言葉を返せばいい。

「そんなつもりじゃないけど、ちょっとびっくりした」

「僕も。あのときコンビニで買い物をしてたかなえを思い出したんだ。いまみたいに眼鏡かけて地味な感じでレジの前に立ってたろ。なんか懐かしくなって」

「まだ思い出に浸るような関係でもないでしょ」

「そうだけど、ただなんとなくね」僕は言葉を濁した。思い出を掘り起こすときはたいてい、あのときは良かった、と感傷にひたるものだから、あまりいい気はしないはずだ。

「もっとこれからのことを考えて欲しいなぁ」

「かなえのプレゼント、嬉しかった。栞なんてセンスがいい」

「レシートとか応募はがきとか挟んでるようじゃ、小説家らしくないもんね」

「その着眼点が、かなえの良いところだよ。初めて僕が小説家になりたいって打ち明けた時も、一つ一つのセンテンスが長いって指摘してくれた」

「その甲斐あって、一次選考を通過した」

「二次は落ちちゃったけどな」僕はつい先日発表された二次選考の結果を、図書館で一人、確認した。

「でも立ち止まらずに書き続けてるでしょ」

「かなえのおかげだよ」一次を通過したときは確かな手ごたえを感じていたにもかかわらず、二次選考のときには、不思議なほどに心は落ち着いていた。かなえが教えてくれたように、どんな結果であろうとも、書くことを諦めなければいつか夢が叶うような気がしたからだ。かなえと出会うまで十年間その芽が一向に出てこなかった最大の要因は、なんだったのだろう。いまは確かに手応えがあるのはまぎれもなくかなえが居てくれているからだ、と僕は自己解析した。

「だって、広斗には小説家になってもらわないと困る」かなえは空を仰ぐように、大きく息を吸い込んだ。「広斗のプレゼント、嬉しかった。二人のために、ってなんか価値観を共有できている気がして、すごく嬉しい」

「色々迷ったけどね、ただ単に僕がそばにいない間、かなえがどんなことに触れているのか知りたいだけだよ」

「束縛されてるみたいだね、わたし」

「そうだとしたら、嫌かな」

「嫌じゃないよ。ヤキモチも束縛も広斗なら全部許せる。それくらいに好き」

「面と向かって言われると、恥ずかしいね」

「その恥ずかしい顔が見れなくて残念」かなえはいたずらっぽく笑った。

 冬の星座が瞬く夜空に包まれて言いようのない充足感が僕を支配する。つま先から駆けあがってくるような痺れは寒さのせいではない鳥肌を立たせた。二十五年前の今日、彼女がこの世に生を受けたことを感謝した。人は僕を安易だなと笑うかもしれない。僕だってそう思う、だけどこれは理屈じゃない。僕は彼女じゃなきゃダメだと自覚していた。まだ知り合って日が浅いから、彼女の、目を覆いたくなるようなひどい一面を見ずに済んでいるだけかも知れない。それを補って余りあるほどに、僕は彼女に依存していたりもする。こんな恋愛は初めてだし、最後でもいい。

 だから、「かなえ、幸せになろうね」と恥ずかしげもなく、かなえに言ってみせた。

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