第23話

「ほれ、さっさと支度して、おねーちゃん」と裕佳が目の見えないわたしをまくし立てる。

「外の天気はどうなのよ」わたしは質問する。

「窓開けて確認するとかしなさいよ。もう子供じゃないんだからさ」

「はーい」わたしは渋々、窓のある方へと向かった。手探りで記憶をたぐり寄せるように、部屋の風景を頭に思い描いた。

 目が見えなくなってから一週間が経ち、毎朝、起きると視覚が戻っているんじゃないかと期待しながら朝を迎え、そして絶望する。そんな日々を繰り返していた。仕事も休みをもらって復帰のめども立っていない。目が見えない今のわたしにとって、図書館司書の仕事というのは荷が重いのかもしれない。頭の中でシミュレーションを繰り返してみても、失敗ばかりで成功の手がかりすらつかめない。パソコンのモニター画面が見れないのだから受付業務は不可、貸し出された本を棚に戻すのも、選別作業ができないから不可。なににおいても視覚障害というのは一番重要な情報を取得できない大きな障壁なんだと、精神的な深い傷をわたしは負った。

 ただ、仕事ができなくとも生活はできていた。人生が終わったわけじゃない、わたしの人生にはいままでにいくつかの苦難があったじゃないか。幼くして父を亡くしたこと、既婚者と付き合ってしまったこと、そして目が見えなくなったこと、どれが一番辛かったかと思い返すと、やっぱり父が亡くなったことだ。

 まだろくに字も書けない幼かった自分にとって、学びを教えてくれるのは親だった。教育が始まる前に、自分の名前くらいは書けるようにと芯先の丸まった鉛筆を持たせてくれた父の姿をおぼえている。どんな顔だったのか正確には覚えていなかったけど、わたしと一緒に映っている写真を見るたびに記憶を補正して、『あぁ、こんな顔してたんだ』と上書きされた思い出を、また引き出しにしまっていた。最初の頃は、お父さんどうしてわたし達を遺して逝ってしまったの、と誰にも届かない言葉を心でつぶやいていた。いつしか、わたし達は元気だよ、とか、わたしきっと幸せになるからね、と仏壇で話しかけていたよね。

「ちょっと、おねーちゃん、なんでおとーさんに手を合わせてるわけ」裕佳は、子供の思いがけない行動を見かけたかのように、驚いた声をあげた。

「いや、なんとなくね。こうしてた方が落ち着くなぁ、って」そういったわたしも、いつの間に父の仏壇に手を合わせていたのだろうと心の中で首を傾げた。

「これからはちゃんとお利口さんにしますから、見守っててね。って、おとーさんにお願いしなさいね」

「あんたお姉さんにでもなったような口のきき方だね」

「だってあたしがおねーちゃんの日中のお世話してるんだから、これはもうあたしがお姉さんみたいなものでしょ」

「あんたみたいなお姉ちゃんがいたらとっくに家を出てたよ」

「ホント素直でかわいくないんだから」と裕佳はわたしにコートを投げつけてきた。頭からすっぽりとコートが覆いかぶさり、手探りでわたしは袖の位置を確認した。

「やることも雑だし、そんなんじゃ彼氏見つからないよ」コートを渡してきたからには外は冷えているのかも、とわたしは袖を通した。

「彼氏なんて別にいらないよ。何のために付き合うの」

「もしかして、あんたレズ?」裕佳の趣味なのか、ボーイズラブを題材にした漫画を持っていることは知ってはいたが、まさか妹は同性愛に憧れているんだろうか。

「あのさ、あたしはレズではないけどそういう偏見は良くないとおもうよ。人間誰だって自由に恋愛は許されてるんだし」

「既婚者はダメだよ」

「そりゃそうだね」裕佳は笑った。

「好きな人はいないの?」

「好きな人と一緒に居たら、離れたくなくなるもんでしょ。離れられなくなるくらいならさ、しばらくは家族と一緒でもいいかなって。お姉ちゃんもいい年だし結婚も視野に入って来るじゃない。あたしまで恋人ができたら、お母さんが一人になっちゃいそうで可哀そうじゃん」

「そんな心配いらないでしょ、お母さんに限って」

「あーゆー親に限って精神的にもろいんだってば」と言い、裕佳はわたしも知りえなかった母の秘密を暴露しはじめた。

「あの既婚男の時だってさ、おねーちゃんの異変にいち早く気付いたの、お母さんだからね」

「どういう事?」わたしはコートのファスナーを閉じて訊ねた。あのとき、わたしは誰にも相談できずに自分で解決を試みた。その結果、あの男に職場で待ち伏せをされるという最悪な結果を引き起こしたのは、今でも悔やまれる失態だった。

「浮かない顔したおねーちゃんを見るに見かねて、あたしにこっそり相談してきたんだよね。かなえを見張っててちょうだい、って。絶対に何か隠してるだろうし、それが原因でこっちに迷惑を掛けたくないとも思ってるって、おかーさんは見抜いてたよ」

「で、裕佳はわたしを見張ってたの?」

「ちょーめんどくさかったよ。仕事が終わる間際に図書館行ってさ、物陰から出てくるの待ってたんだから。家の方向に歩いて行くの見届けて、お母さんにライン入れてた。それを何日かやってるときに、あいつが現れたんだよね。図書館に入るでもなくて、外からあたしと同じように中の様子を見てる奴がいて、怪しいから写真撮っておいたもん」

「人違いじゃなくてよかったね」とおどけてみせたわたしだが、あの日の恐怖がリアルなまでに蘇ってきた。

「それが毎週同じ日に現れるもんだから、その日にお母さんは仕事を早退して見張るようになってたんだよ」どんだけ心配かけたと思ってんだ、と妹がわたしを叱責した。そうだったんだという気持ちがわたしを包んだ。あの日どうして母があんな場所にいたのか、やっと分かった。二人がわたしの発した些細な変化に気付いてくれたおかげで、わたしは窮地から出することができたんだ。それもお父さんが見守っていてくれたおかげなのかな。

「きっとお父さんが見守っていてくれて、あたしたちに、『かなえのピンチだ!』って教えてくれたのかもよ。今回のことだって、こうなることを見越してお父さんが広斗さんに巡り会わせてくれたのかも」

「わたしと広斗を?」

「小説家の奥さんになりたいんでしょ」

「わたしは広斗の奥さんになれれば十分です」

「おねーちゃんには欲がないのかねぇ」裕佳は呆れたような声を出した。わたしには見えないけど、その表情が目に浮かんで、つい笑ってしまった。

「笑う余裕が出てきたところでそろそろ行きますか」

「もう準備は出来てるわよ」すでに着込んでいたコートのおかげで、十一月最終日の冬の寒さにもわたしは屈することはない。これから来月にやって来るわたし達の誕生日のプレゼントを買いにくくのだから、身体はおろか、心までもがウキウキと踊り出しそうだった。

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