第22話
曇りだというのに、外はいい加減なくらい明るかった。太陽は見えなくてもそこには存在するという威圧感があった。その反面、病院までのタクシーの車内は異様なほど暗かった。昨日の食事会がまるで幻だったかのように、裕佳ちゃんは冗談をいっさい口にはしなかった。彼女の性格をもってしても、かなえの身に降りかかった事の重大さに無力感に覆われているのかもしれない。
「はい、平和医大に着いたよ」とタクシードライバーが告げた。親切に救急外来の入り口まで僕たち四人を運んでくれた。「お大事に」と言い残してタクシーは早朝の街へと走っていった。
電話した古川ですが、と五十代とおもわれる受付の女性に、僕は声を掛けた。反応は平凡で静かなものだった。肩透かしを食らった気分で僕たちは、ただ大人しく呼ばれるのを待った。それまでのあいだに検温と血圧、簡単な問診を受けた。看護師さんが何も言わずに車椅子を運んできてくれたことに、白衣の天使と呼ばれる心遣いを見たような気がした。
「僕が書きましょうか」とお母さんに訊ねてみた。身長や体重もそれとなく聞いたことがある、変に気を遣う場面でもない。
「ううん、私が書くわよ」と首を振り、お母さんは断った。今朝、電話をしてから少しの気まずさを感じていた。昨夜までなにも変わりがなかった娘が、一晩彼の家に泊まっただけで目が見えなくなっていたのならば、なにか良からぬことをされたと誤解を受けても仕方ないような気がした。面と向かって言われたわけじゃないが、そんな雰囲気が伝わってくる。誤解を解くにも、いまはかなえになにが起きたのかを知るのが先決だ。
「そうですか、お願いします」と僕は問診票をお母さんに手渡した。
「大変なことに、なっちゃったね」ボソッと裕佳ちゃんが呟いた。その言葉が、ひとりひとりの胸に深く沈み、抜けない杭が突き刺さったかのように、皆の表情が険しく硬くなった。
ごめんねと泣きじゃくっていたかなえは、何に対して謝罪をしたかったのだろう。自分が辛い立場なのに、どうして僕なんかに、と今でも考えがまとまらない。横に座るかなえに視線をやると、気付いたわけでもないだろうが同じように僕の方へと顔を向けた。
「どうしたの」僕は聞いた。
「え、なにが」と、かなえは戸惑った。目が見えていないことで普段では成り立つ会話もいまでは不自由なほどにかみ合わなくなる。
「こっち振り向いたから、なにかなって」
「不思議だよね。目が見えなくなって頼りになるのは音と匂いと感触くらいで、いまこっちに向いてるのは気になる音がしたから」
「何の音?」と僕はかなえと同じ方向へ顔を向けた。見えるのは薄暗い病院の廊下で、人の気配はまだなく静まり返っていた。「なにもなさそうだけど」
「広斗、くん、のため息が聞こえたの」ぎこちないかなえの呼び方に、僕は苦笑した。
「広斗でいいよ。そんなため息なんてついてたかな」口をふさぐように手のひらを広げた。ハァーとゆっくり吐き出す息の音は、自分の耳には聞こえない。
「口臭でも気にしてんの」辛らつに裕佳ちゃんが僕に対して言った。
「裕佳ごめんね」
「なに急に、なんでお姉ちゃんが謝るわけ」今度は戸惑った表情で裕佳ちゃんは言った。
「あんまり広斗にキツく当らないであげて。誰も悪くないから」
「別にあたしは誰かを責めようなんてしてないし」裕佳ちゃんは否定しつつも、その声には不満が滲んでいるように、僕は感じた。誰かのせいにしていなきゃやってらんない、そんな分かりやすい感情が、言葉の裏側には潜んでいるような気がする。
「裕佳、ここは病院だよ。もう少し大人しくできないのかねぇ二十歳にもなって」お母さんが呆れたように問診票を書きながら僕らのやり取りに愚痴をこぼした。
二十歳にもなって、とそれは裕佳ちゃんに説教だったのかもしれなかったが、僕は二十八歳にもなって、何も成しえていない自分を遠回しに非難されているような気分になった。こんなことに娘を巻き込んでくれなさんな、初対面から一夜明けて、冷静に考えれば娘の恋人として誠実には見られないタイプだろう。僕がコンビニのバイトで生計を立てているということを、社会という道から一本か二本くらい外れた裏道を歩いてる人間としてしか、認識していないだろう。親ともなればそれは正しい認識だ。
僕はいたたまれなくなり、椅子を立った。「何か飲み物買ってくるよ」と言い残し薄暗い廊下に向かって歩き出した。あたしも行く、と意外なことに裕佳ちゃんがついてきた。
気まずい空気が背後霊のように背中に張り付き足取りを重くした。裕佳ちゃんの歩くペースはいったいどのくらいだろう、横に出てくるわけでもなく背後に歩く気配だけを感じて、微妙な距離感を保った。
「昨日の夜は特に変わりなかったんだよね?」待合ロビーから十分に離れたところで、裕佳ちゃんが声を掛けてきた。
「たぶん、普段通りだったとおもう」歩くペースを落として、やや横を向きながら答えた。
「きっと、昨日どこにいたってお姉ちゃんはあんな風になってたとおもうんだ。それがたまたまお兄さん家に泊まったときに起きただけでさ、神様だか何だか知らないけど、お兄さんを選んだんだよね。最初聞いたときは内心イラっとしたんだ、たぶんお母さんもね。お姉ちゃんはいつもこっちに心配かけて、目の届く範囲ならまだしも、あたしたちのいないところでトラブルになって、今回はこんな大変なことになってるのに、どうしてお兄さんなの? あたしたち家族じゃダメなの? あたしが小さい頃にお父さんが死んじゃって、お母さんはそれからずっと一人で、あたしたちを育ててくれた。お母さんには、お父さんから一つだけ託された願いがあったんだって。なにがあっても娘たちを守ってくれ、って。その想いに応えられなくて、きっと今も歯がゆく思ってるんだよ、あの人は。だからお兄さんに当たりが強かったとしても、それは許してあげてね」
僕は何も答えられず、裕佳ちゃんも答えを求める様子はなかった。僕の横を通り過ぎて、「おねーちゃんはなに飲むんだろう」と僕に聞いてきた。
「コーヒーだよって言って、お茶でも飲ませようか」僕は努めて明るく振る舞ってみせた。
「うわっ、それってサイコーじゃん」と裕佳ちゃんはいたずらな笑みを浮かべた。
「ちょっとやだぁ、これお茶じゃん」持っていた缶を落としそうになったかなえを見て、裕佳ちゃんが腹を抱えて笑った。
「まんまと騙された」満面の笑みで裕佳ちゃんは言った。お母さんは、もはやあきれ顔だ。「断っておくけど、発案者はおにーさんだからね。あたしじゃないからね」
「いや、あれは冗談だって、本気にするとは思わなかった」
「いいじゃん、思い詰めていたってしょうがないし、前向きに行こうよ。まだ先生の話しだって聞いてないんだし」
「裕佳はいつだってお気楽なんだから、その性格が羨ましいよ」かなえちゃんはお茶を飲み直し、安息していた。目が見えないことが変に緊張感を生まず、家にいるような錯覚を覚えたのかもしれない。
「まだ原因はハッキリとは分かりませんね。まずはMRI検査を行いましょう」と医師に言われ数時間が経ち、「原因は分かりませんでした。脳に異常は見受けられませんでしたが、視力を失った要因を見つけだすには至りませんでした。今後、古川さんの視力が回復するかも、私には分りかねます。しばらくは通院して様子を見ることにしましょう」と医師は言った。
「手術すれば治りますか?」とお母さんが医師に訊ねた、いまは心ここにあらずといった様子で焦点が合っていないようにも見える。
「原因が掴めないので、手を施すことも叶いません」と医師は否定した。「こういった症状は脳の病気に関連することが多い中で、脳に異常がないことを、まず喜ぶべきです」とも言った。確かにそうかもしれない。かなえが生きている限り、すべての道が閉ざされた訳じゃない。
病院を出る頃には正午を過ぎていた。薄い綿を均等に敷きつめたような雲が空を覆いつくしていた。雨を乞おうが、聞き入れられそうもない薄い雲は、ただ静かにゆっくりと東へと流れていた。
雨に打たれて泣いてしまいたい気分だ。ずぶ濡れになるまで、ジーンズの繊維の奥まで水がしみ込むまで、雨に打たれて泣いていたかった。神様の気まぐれというにはあまりに残酷で身勝手だ。気持ちの整理もつかないまま、僕たちは日常へと追い返されてしまった。
「タクシー拾ってきますね」ずっと病院の入り口に立っているわけにもいかない、僕は繋いでいたかなえの手を、裕佳ちゃんに預け、公道へタクシーを拾いに向かった。
ちょうどそこへ、一台のタクシーが通りかかった。後部ドアが開き車内を覗きこんだ。
「お、あんたさっきの」と男性ドライバーが快活な声をあげた。
「これって、けさ乗ってきたタクシー?」車内でかなえが鼻を上に向け聞いてきた。
「うん、偶然にも」
「これも何かの縁ですかねー」と四十歳を少し超えたくらいであろう男は、にやけながらバックミラー越しにかなえを見た。
「そういう星の元に生まれたんだと思いますよ」かなえは少し明るくなった。彼女が運命に心惹かれることを、僕は良く知ってる。
「星の元に生まれたって、ちょっと大げさじゃない」後部座席の真ん中に座る裕佳ちゃんが呆れていた。「仮にもおねーちゃん目が見えなくなってんだよ? あんたがそれを言っちゃ、おしまいってもんでしょ」
「いやー、縁起でもないこと言っちゃいましたかね」
「運ちゃんは悪くないよ。おねーちゃんがちょっとおかしいだけ。悲劇のヒロインぶってくれた方がこっちも接しやすいんだけど、なんか前向きになってるから肩透かしくらった気分なんだよね」
「お母さん、ついでに裕佳の頭も調べてもらえばよかったよね。これだけひねくれてるんだもん、人とちがった構造になってるに違いないよ」とかなえは笑った。
「さっきのお医者さんもきっと、『残念ですが手遅れです』って匙を投げるに決まってるよ」お母さんもかなえにつられて笑った。
「二人とも、ひどい言いようだね。運ちゃん、この家族をどう思う」
突然に話をふられたドライバーは、急ハンドルも、急加速も急ブレーキもすることなく静かに、「明るくて、良い家族じゃないですか」と答えた。
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