第24話
「マジっすか、めっちゃカッケーじゃないですか」松下君が仕事の手を止めた。いや正確には止めてしまったと言うべきだろう。
「カッコよくはないよ。僕の夢が叶わなきゃ、結婚は出来ない。いつ果たされるかも分からない」僕は納品されたパンを棚に並べながら答えた。自分の生活のためのバイト中にもかかわらず、将来の夢をバイト中に語るのは、少し痛い奴なのかもしれない。
「久慈さんもとうとう夢を追いかけるロッカーになったってわけじゃないすか。俄然バイトもやる気がみなぎってきてるし、やっぱカッケーっす。夢を語るってナルシストっていうか自分におぼれてる奴が多くて聞いてて萎えるんすけど、久慈さんだけは違います。意識の高さがスカイツリーくらいに高いっす」
「スカイツリーより高いものはいくつもあるけどね」僕は苦笑する。
「ないっすよ、ないない。人が積み上げてきた高さって中で考えたら、相当高い方っすよ」
「人の積み上げてきた高さ?」
「久慈さんはそのてっぺんに立つための決意をみせたわけじゃないっすか。誰よりも高いてっぺんに立ってやるぞ、って。そしたら並大抵の努力じゃたどり着けない、これから必死こいて書いていくんすよね、小説を」
「必死こいて書いてるよ、小説を」
誰も来ない深夜のコンビニは冬の静けさに似ている。ひんやりとひっそりとした空気感がたまらなく寂しい。かなえの目が見えなくなって、バイト中のLINEのやり取りもなくなった。来たかと思えば裕佳ちゃんからの代筆で、おやすみなさいの一言だけだった。ここで五年間働いていて、かなえとの思い出が芽生えたのがまだ寒さの残る二月ごろからだった。深夜のコンビニで午後の紅茶とポテチを買い、割りばしを貰って帰っていく地味で大人しそうな女の子だった。特に意識もしてなくて、仲良くなるつもりもなくて、話しかけなくてもお互いに意志疎通ができていて、踏み込むことをお互いに避けていたのに、何がきっかけになったのかなんて今ではどうでもよくなって、僕はかなえを、一生ささえて生きていくつもりになっていた。
バイトだって意外と適当だった。店長に叱られないくらいに信頼はされていて、人望もあった。松下君みたいな暑苦しい後輩も慕ってくれた。逆に僕は誰にも心を開けずに夢を打ち明けることもなかった。恥ずかしかったし、自惚れることもできなかった。才能があると自分自身を信じてやることもできなかった。誰かにもう辞めればいいじゃんと言われることを待ってたのかもしれない。辞めるきっかけを待ちわびていたのかもしれない。誰かに決断をゆだねて、決意を後押ししてほしかった。新人賞の落選の結果をみたところで、もう諦めなさいと言ってくれる優しい言葉は、どこにも書いてなかった。惰性と習慣が僕に染みついていて、誰かと恋愛を成就するだなんて考えもしなかった。好きな人と夢を語り合える喜びが、新人賞の選考を通過する喜びを、分かち合えることがこんなにも幸福だなんて、初めて知った。
「なに泣いてんすか」ビックリしたように松下君が僕の顔を覗きこんできた。男の顔を覗きこむような愚行を、彼にさせたことは申し訳ない。
「ちょっと感傷にひたって」ユニフォームの袖で僕は目を拭う。「いつだか松下君が言ってたよね、『真剣に目指してる奴って、もっと情熱があって人生に一切手を抜かない』ってさ。あの意味が、いまなら良くわかるんだよね。自分のために理屈をこねて慰めてて、失敗したって気にしてないフリしてて、いつか叶えばいいんだって適当な気持ちだった。それがいまじゃ、情熱がみなぎっていて自分に嘘つけないくらいに暑苦しくなってる。本気で取り組まなきゃ夢なんか叶わないぞって、しっ責してくるんだよ。コンビニのバイトくらいで手を抜いてたらこの先に未来なんてないだろう、ってさ」
「ダンコたる決意ってやつですね」
「僕、小説家になりたいんです」
「あ、ふざけてますね」
家に帰ると僕はパソコンを開いた。出かける時間になるまで書きかけの小説に文字を打ち込んでいく。手が止まることは特にない、迷ったとしても書き続けると決めた。たとえつまらない文章でも、一本の小説としてまとまればその部分の評価はがらりと変わるかもしれないからだ。僕に欠けていたものは、恐れないことと、真剣さだった。僕の書いた小説は誰かに読んで貰うには登場人物に魂みたいなものが宿っていなかったように感じる。生き生きとした、表情豊かな、感受性に富んだ、そんな人物がちゃんと描けていなかった。
たとえストーリーがしっかりしていても、読んでる人には登場する人たちに感情移入できずに最後まで楽しませることなんてできていなかった。話が楽しければそれでいいとも思っていた。読んでくれる人に対して、敬意を払ってない、僕が面白いとおもえればそれが正解だと、傲慢さがあった。
今、いちばんに伝えたいこと、それは、「生きている」ということ。僕たち人間が普段通りに暮らしている中で、ちいさなドラマが起こり、目に見えないトラブルに巻き込まれ、悔いて悩んで、それでも生きていこうと決意して日々が過ぎていく。たとえ作り話だとしても僕はかなえから学んだたくさんのことを、小説にしたいと思った。不器用に夢を追いかけて、叶うかわからなくても諦めずに追い続けたい、背中を押してくれる人がいる限り、僕はそれを呼んでくれる人たちと共有したかった。
気が付くとあっという間に、時刻は午前十時を回っていた。これから僕は電車に乗ってショッピングモールへとプレゼントを買いに行かなくてはならない。僕とかなえの誕生日が一週間後にせまっていた。どんなプレゼントをあげたら喜ぶのか、悩んだ。悩んだ末に、共有という選択を、僕は決断した。かなえならきっと、喜んでくれる。形にこだわらない彼女なら、こんな想いもきっと受け取ってくれるんじゃないかと、期待していた。
外は晴れていた。街路樹も寒そうなわりに、枝を大きく広げて春に向けて蕾を付ける準備をしている。それこそ春の受賞発表される新人賞のようで、この時期の小説賞はアマチュアにとって試練の時だともいえる。
どんなに早くても半年、長いものでは一年近く審査が続く。小説新人賞は一朝一夕で結果が出るものじゃないからこそ、本気で取り組まなきゃならない。かなえとの夢を叶えるには、早くても半年、もしかするとずっと叶わない可能性だって、あるんだ。気が抜けないことも分かってる、だからかなえにも、せいいっぱい生きてもらわなきゃ困る。
冬の風が吹きぬける通りを抜けて、電車に乗った。すると意外な人物に出会った。
「やあ、君はかなえちゃんの彼氏くんだったよね」と声を掛けられた。かなえの同僚の洋子さんの旦那さん、田嶋和夫さんだった。「久しぶりだね、かなえちゃんは元気にしてる?」
「お久しぶりです。かなえは元気ですよ、いまも前向きに頑張ってます。それよりも、よく僕だって気付きましたね。声を掛けられるまで和夫さんだって気付かなかったのに」
「相手の顔を覚えるのも、仕事の内だからね」と和夫さんは言い、ネクタイのズレを直した。パリッとしたスーツに、清潔に保たれた頭髪、顎のラインがしっかりと浮き出た端正な顔立ちが、男の僕から見てもカッコよかった。
「これからお仕事ですか」と訊ねると、そうだよ。と答えた。それから僕たちの間に少し重たい空気が流れた。
「誕生日会を我が家でやるそうだけど、本当に良かったのかい? 君たち二人でやるか、もしくはかなえちゃんのご家族一緒に祝わなく良かったのかい?」
「祝ってくれる人が多い方が、僕たちは嬉しいよねって、そう決めたんです」
「まぁ前本番だとおもってお祝いするよ。いつか二人が結婚する時のために、な」
「また奥さんの手料理が食べられると思うとお腹が空いてきちゃいます。あんな奥さんがいて羨ましいです」
「大切なのはそこじゃないんだとおもうんだよ、一緒にいて安らげるかどうか、その一点だと俺は考える」
「洋子さんにはそれがあったから、結婚を決めたんですか」
「ああ。付き合ってたときから気は強かったし意見もズバズバ言ってきた。連絡は自分の都合でしていいから、変な気を遣ったら別れる。って言われたこともあったなぁ」
「それって、安らげるんですか」僕は青ざめる。よく言えば相手を尊重してるようにも思えるが、悪く言えば無関心なようにも思える。
「そんなある日、俺が高熱で寝込んでたときがあってさ、ひとり暮らし始めたばっかりで何もできなかった。実家も遠いし、相沢を呼んで風邪を移すのも悪いと思って誰にも連絡取らなかったんだ。もちろん洋子にも。そしたら家のチャイムが鳴って、勧誘かなにかだと思って放っておいたんだ。それでもしつこく鳴らすもんだから直接文句言ってやろうと玄関まで這いつくばって出ていったら」
「洋子さんが立っていた?」
顔を赤らめて和夫さんは小さく頷いた。「呆れるよ、『具合悪いなら悪いって連絡しなさいよ。何のために私と付き合ってんのよ』って怒られた」
「そんなこと言うんですか、洋子さん」
「優しすぎて怖いんだよ」と和夫さんは苦笑した。「つまりさ、『あぁ、この人とだったら、人生を添い遂げてもいい』とおもえたんだよ。容姿も教養も特にいらない、自分の心を豊かにしてくれる人であるなら、俺はそれだけでいい」
「羨ましいですね、そんな関係。僕たちもそんな風になれるように頑張ります」
「君たちなら、きっとなれるよ」
じゃあな、と和夫さんは隣駅で乗り換えのために電車を降りた。颯爽と駅のホームに降り立ったスーツ姿の彼は、やはりカッコよかった。自信に満ち溢れていて、やりがいを見出していて、革靴の向く先に、迷いのない輝かしい未来が待ち受けているようにも見えた。
「こんな風に、他人から見られるってことが認められるってことなんだろうな」遠ざかる駅のホームを眺めながら、僕はまた小さなやる気を手に入れた。
ショッピングモールに着くと僕は目当てのお店まで一直線に向かった。エスカレーターを上り吹き抜けの通路をぐるっと半周すると、目的のお店があった。眩しいくらいの照明がたかれていて夜型の僕には目が眩みそうだった。いらっしゃいませ、と連呼される店内を突き抜け、奥のデジタルカメラのコーナーで僕は足を止めた。
「いらっしゃいませ、お探し物でしょうか」眼鏡をかけた黒髪の男性店員が寄ってきた。同じ接客業だからわかるちょうどいい具合の声掛けだった。近づきすぎず離れすぎずの距離感。
「プレゼントを探しに来たんです」
「お贈りするお方は、お写真がお好きですか」眼鏡店員はおかしな敬語を使い始めた。聞いているこっちの調子が狂いそうだった。もっとスマートに聞いてくれると助かる。
「いや、分かりません」
「ご確認されたらどうでしょうか」
「本気で言ってますか?」僕はぎょっとした。プレゼントは開ける瞬間が一番楽しいのに、中身を知っていては嬉しくもなんともない。
「はい。本気で好きなら一眼レフを選ぶ人が多いです。それほどこだわりがなければ手のひらサイズのコンパクトサイズでもいいと思います。画質にこだわるのであれば断然この一眼レフカメラです」
「人の目に映る景色と、このカメラで撮った景色と、どっちがより鮮明に見えるものなんですか」僕はカメラの性能に関しては素人だ。なにが良くてなにが悪いのか見当もつかない。ただ、より人の目で見ている風景と同じ条件になるカメラが、必要だった。
「それは人の目に決まってますよ。人間は見た像を脳が補正してより美しく見せてくれてる、っていう話もありますからね。人によっては赤みが強かったり、青みが強かったりって色の見え方も違いますからね。十人十色っていいますでしょ」
「じゃあ、ここには人間と同じように見える風景を撮れるカメラは存在しないんですね」
「人の目に敵うカメラなんて永遠に完成しませんよ」なにを言っているんだと冷めた目つきで眼鏡店員は僕をみた。冷やかしなら帰れと言いたげだ。
「僕の彼女は目が見えなくなったんです。こんな話をされてもあなたは困るでしょうが、離れていても彼女がどんな風景の中に居て、何を感じていたのかを、カメラを使って共有したいんだ。彼女の目の代わりに、カメラで色んなものを撮影してほしい。僕がそれを見て何が映ってるかを事細かく言葉で説明してあげたいんです」僕は悔しさを噛みしめた。理不尽な出来事を目の当たりにしたときのように、ぶつけようのない怒りが込み上げてくる。壁を殴りつけたくなる衝動を、叫びだしたくなる衝動を、何とかこらえる。
「ご予算はいかほどでしょうか? 目が不自由であるなら、操作も簡単な仕様のものがよろしいですね。お探しいたしますので、お少しだけお待ちください」彼の目から冷ややかさが失せ、真面目な顔つきにいつしか変わっていた。
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