第3話

 図書館が開館すると同時に、利用者は雪崩をうつように目当ての書棚に駆けていく、はずもなく、幼い子連れの母親と余暇を楽しむ年配者が数名、のんびりと自動ドアをくぐり抜けただけだった。これは深夜のコンビニとそん色ないな、とわたしは小さなため息をついた。


 わたしはカウンター業務から外れ、ご意見ポストの中身を確認していた。利用者からの貴重なご意見をうけたまわる、大切な仕事だ。といっても中に入ってるものの多くは本が汚いだとか煙草臭いなどの指摘クレームが主だった。そんなこと言われてもなぁ、と一枚一枚紙をめくり、改善の余地のない意見にわたしは毎度悩まされていた。そんな厳しい指摘だらけの中にもわたしの心を和ませてくれる投書がいくつかあった。


「あ、吠えるクジラさんからだ」わたしの手にその一人、図書館司書をやっていてよかったと感じさせてくれる方からの意見書が今日も入っていた。ときに新書の要望だったりするが、今日は違うらしい。




 図書館の小説、いつも楽しく拝読させていただいています。この図書館の小説の充実ぶりたるや他の図書館にはないセンスが垣間見えるような気がしてなりません。貴女の選んだ小説は主にミステリーが多く、その作品たちを読了したあとに残るのはエスプレッソコーヒーのような濃い苦みと香ばしい香りの余韻、そしてカップの底に残るシミ、とでも言いましょうか。コーヒーを飲み干せるくらい自分は大人になったんだ、と貴女の選んだ小説たちは私を成長させてくれました。と綴られていた。




「なに見ているの?」洋子さんがやってきた。いまはまだカウンターに本を借りにくる人は訪れず、こっちの仕事を手伝いに来てくれた。「またホエールさん?」


「そうですクジラさんです」わたしは笑いそうになるのをこらえた。


 初めて投書を貰ったとき、「吠えるクジラってホエールと掛けているのかしら」と洋子さんは首を傾げた。しかし名前とは真逆で穏やかな雰囲気で吠えるどころかこの図書館を、褒めてくれていた。今回もわたしの選書した小説を独特の言い回しで表現していた。


「へー、またかなえちゃんのことを褒めてくれてるね」


「でもわたしは貴女って感じじゃないし、小説をわたしが選書してることをどうしてクジラさんは知ってるんですかね」


「クジラって高い知能を有しているほ乳類だから、きっとそれくらいお見通しだよ」


「いい人そうなんですけど、わたしにはちょっと残念に思う部分があって」とわたしは肩を落とす。「一つ一つのセンテンスが長くて読んでると息切れしちゃって。書いた人は早口なのか、それとも肺活量がすごいのか」


「ホエールさんだから、肺活量には自信があるのかもね」と洋子さんは含み笑ってカウンターへと戻っていった。残されたわたしは筆跡鑑定人のような心境で用紙を見つめた。いったいどんな人なのだろう、それは淡い青春の一ページのような、貸出カードに同じ名前の人を何度も見つけてしまうような胸の昂ぶり、にまではいたらなかった。




 スチール製の本棚には大小分け隔てなく本が並んでいる。単行本、ビジネス書、参考文献に文庫本まで、ありとあらゆる書物が、ホテルのチェックインを待つかのようにお行儀よく並べられていた。ここにある書物を館内の棚に戻すため、わたしは状態の確認をする。ときおりページが破けていたり、ラベルが剥がれていたりなどするので、細かなチェックがわたしたち図書館司書に課せられた仕事だった。


「古川さん、応援おねがいします」と受付カウンターから洋子さんの声が届いた。品のある声は良く通っていて仕事中でも焦りや不安をふくんだ揺らいだ声を、わたしは今まで一度も耳にしたことがない。


 時計をチラリとみやる、午前十一時を少し過ぎた頃だった。混み合う時間にしてはまだ早いはず、だとすれば、とわたしは逡巡する。エプロンを正し、紐を結いなおす。顔をパンパンとかるく叩く。ヨシ、と気合を入れる。


「お待たせいたしました」わたしは右手を大きく上げて、「お次にお並びのお客様、どうぞ」と声を張り上げ、洋子さんの左隣の受付を開放した。洋子さんの受付にはすでに五人ほどのお客様が本を片手に、順序良く並んでいた。


 洋子さんがいま受付を行っているおばあさんは料理本やら手芸本など趣味に近いものを数冊借りていた。洋子さんの作業の手を止めるようにおばあさんが一冊一冊の借りる経緯を丁寧に説明している。


 またか。わたしは心が凹みそうになる。その次に並んだお客様も、チラリとわたしを見ては素知らぬ顔をして列から動こうとしなかった。その次の人もそのまた次の人も、わたしの受付に並ぼうという気配は感じられなかった。


 振り上げた右手が力なく揺れる。タクシーを求めるお客さんさながら、わたしは右手を上げたまま固まっていた。もはやわたしを拾ってくれる人は居ないのかと諦めかけたとき、最後尾の男性が怪訝そうな表情で自分の前に並ぶ人たちを見つめていた。わたしはその彼めがけて、手を差し出した。「こちらへどうぞ!」

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