第4話

 いったいこれはなんの列だろう、そんな疑念がわいた。隣の受付が開いたにもかかわらず、僕よりも前に並んだ人たちはいちように、いや、頑なに隣の受付に並ぶことを拒んでいるようすだった。


 いま自分が並んでいる受付の女性も困り顔で、となりの受付の若い女性は不服そうに頬を膨らませていた。ふと、その不服な彼女と目がかち合い、「こちらへどうぞ!」と促されてしまった。


 スーパーのレジが混みあって、隣のレジが開放されれば我先にと動くような年配者たちが、頑なにこの列に並ぶにはなにか深い理由があるのだろう。僕は心の中で、『お先に失礼』と会釈した。


「いつもご利用ありがとうございます」明るくハキハキとした声で彼女は迎い入れてくれた、深々と頭を下げたその額には前髪を押さえるために水玉模様のヘアクリップが止められている。さほど高くない身長は僕より頭一つ分低い。シワのない洗いたてのようなエプロンに『古川』と書いてある名札がついていた。『ふるかわか、それともこがわ?』


「となり凄いですね。なんか福引でもしてるのかとおもった」僕は手に持った二冊の本を彼女に手渡した。彼女はキョトンとしたかと思えば、すぐに笑顔にもどり、センスいいですねと笑った。


「え? なんのことですか」僕は複雑な心境になる。褒められるようなことが少なかった僕にとって唐突なお褒めの言葉というのは、ドッキリに近い。


「行列を見て福引だ、っておもえるセンスが、なんだか素敵で。すみません」彼女は悪びれるようすもなく再び頭を下げた。艶のある黒髪がしなやかに揺れ、黒髪に付けたヘアクリップが、夜空に浮かぶ一番星のように輝いて見えた。


「いや、謝らなくてもいいですよ。でもあれですね」僕はカウンターに身を寄せ小声でとなりの方へと目配せさせた。「隣のお姉さんすごく美人で、並びたくなる気持ちわかります」


「今からでも並びなおしますか?」彼女は手のひらを僕の左後方へと向けた。振り返るとまたひとり、いつのまにか人数が増えていた。


「冗談ですよ。僕は本を借りたいだけですから」と断って財布から図書館カードを取り出す。


「でも、こうしてコミュニケーションをとるのも、わたしたち司書の務めでもあるんです。気持ちよく本を借りていく人を見るのは、幸せです」慣れた手つきでカードのバーコードを読み取り、丁寧に僕へと差し出す。ふとカードを持った手に僕の視線が吸い寄せられた。それはつい先日、深夜のコンビニのバイトで見た地味な彼女が指に巻いていた絆創膏だった。


「有効期限が過ぎていますね。更新されていきますか?」端末でなにやら僕の情報を確認し、彼女は訊ねてきた。


「え、あ、はい」僕は思考が追い付かず、なにを聞かれていたのか分からず上の空で返事をした。


「では、免許証など身分確認できるものをお持ちでしょうか」キーボードのチャカチャカと打ち込みながら端末をながめて彼女は続けた。


 彼女はあの深夜のポテチの女性なのだろうか。眼鏡をはずし、前髪を額でぴたりと水玉ヘアクリップで留め、明るい表情をみせていた。目の前の女性とコンビニでの女性とが、どうしても結びつかず、僕はジッと彼女の顔をみつめていた。


「どうしました?」無言のまま立ち尽くす僕を見かねたのか、彼女は怪訝そうな表情で訊ねてきた。「今は身分の確認できるものをお持ちではないですか?」


「いや、持ってます」薄ぼんやりとした記憶を辿ってもコンビニの彼女は、お箸付けてください、とありがとうございます、の二言しか聞いたことがない。声紋鑑定人でもない自分にはとてもじゃないが目の前の人とコンビニの彼女が同一人物か判断できない。僕はとりあえず財布からマイナンバーカードを取りだし渡した。


「お預かりします」彼女は両手でカードを大切そうに受け取った。確かに同じ右手の人差し指に、猫の絆創膏だ。カードを左手に持ちかえ、右手でキーボードを操作する、手慣れたようすだったが、一瞬彼女の指が止まったように見えた。なにかを逡巡するようなそんな感じだ。しばらくして右手はまた踊るようにキーボードの上を飛び回った。


「ありがとうございました。更新のお手続きは終わりました」彼女は本のバーコードを読み取り貸し出し作業へと移った、「先週入ったばっかりの新書ですよこれ、知ってる作家さんですか」と唐突に質問してきた。


「いや、この人のデビュー作です。小説の新人賞を獲った作品です」と僕は悔しながらに説明をした。


「詳しいんですね」と彼女はにこやかな笑顔をみせた。


 このまま帰ると僕は真実を確かめる機会を永遠に失う、そんな気がした。幸いにも僕の後ろにはいまだ人が並んでいない、となりの受付はまだ二人目の利用客が対応を始めたばかりだった。ここで不満がでるなら図書館側の対応にではなく、利用客側のモラルにでるだろうが、並んでる人の表情を見ていても誰もがアイドルのサインを待つような、嬉々とした顔つきになっていた。手に持ってるのは色紙ではなく本なのだが。


「昨日は休館日だったから、借りたくても借りれなくて」


「でも昨日開館してても借りれませんでしたよ。わたしが借りて読んでましたから」悪びれるというよりも、その告白はどこか嬉しそうでもあった。


「だから」と僕は区切り、喉の渇きが急激に加速し言葉に詰まった。「だから、夜遅くまで起きてるんですか」


 きょとんとした顔を彼女は、した。ここまで来たら、たとえ人違いだったとしても勘違いで済む。「夜中にポテトチップと午後の紅茶を買いに来ませんでしたか?」


彼女の耳が徐々にだが、赤みを帯びた。その反応はあきらかにYESと受け取れるものだった。


「あのコンビニの店員さんだったんですね。眼鏡かけてないし、雰囲気も違うから気付きませんでした」


「僕も同じです」と彼女の手を指さす。「その絆創膏が決め手でした」


「どうして気付いたの」と彼女はおどけて左手で絆創膏を隠した。


 ここで僕の本心を話してしまうのは失礼だと思い、曖昧に言葉を濁した。「たまたまです」


「じゃあわたしからもひとつ、あなたの真実を暴きますね。いつも当図書館の小説を褒めてくれてありがとうございます。吠えるクジラさん」


「え?」呆気にとられた。鳩が豆鉄砲を食ったような気分とは多分こんな感じだろう。


「この小説、進めてくれたのはクジラさんですよ。どんな本だろうって気になったから先に読んじゃいました。素敵な本をありがとうございました。久慈くじさん」




 借りた二冊の本をトートバッグに詰めた僕は、近くの公園へと足を向けた。平日休みの今日はこのまま家に帰って読書を楽しむのもいいかと思ったが、あまりに天気が良かったので外で読書を楽しむことにした。図書館を出て歩道を右に進んだとき、植え込みの花壇にツツジの花が咲いていた。小学生のころはよく花弁をちぎって蜜を吸っていたものだった。いま咲いているツツジは排気ガスを浴びて葉の部分が黒くくすんでいた。大人になるとこうも俯瞰的ふかんてきというか、一歩も二歩もさがった視点を持てしまうのだなと改めて感じた。


 不衛生だから止めなさいと注意する大人が大半で、試しに吸ってみるかと薦める童心をもった大人はもういないかもしれない。そんな小さな冒険の積みかさねがあったからこそ、大人になった今の自分は、夢を見ることができていた。




 図書館の周りをゆっくりとみて歩くと、図書館の外壁が汚れていたのが目についた。定礎をみると築四十年近く経つらしくそれなりの歴史があることはうかがい知れた。その地味なたたずまいと深夜のコンビニにやって来た図書館司書の彼女とを重ね合わせる。図書館は外観ににあわず、中にため込む本は常にアップデートされて最新の状態を維持する。外見には気を使わない彼女も新しい小説を借りては読むといった行動は、どこか似ているような気がした。なぜ彼女を急に気にしだしたのかと聞かれたらそれは彼女の二面性を知ったからかもしれない。彼女がずっと図書館司書として過ごしているのではない、家に帰れば普通の文学少女だということを『知ってしまった』ゆえに、気になりだしていた。


 公園には親子連れが複数人集まっていて、花見を楽しんでいた。レジャーシートの上にランチボックスを広げて談笑していた。子供たちは花見そっちのけで、砂場で存分に遊んでいた。母親は花より団子、子供たちは花より砂団子を作っていた。公園内にベンチが三か所に設置されていて、その一つに僕は腰をかけた。乾いた土は春の風に追い立てられて逃げ惑うように宙を舞い上がっていた。こちらに向かってくるほど風も強くなかったのでここで本を読むことにひとまず決めた。


 バッグから借りたばかりの本を取り出し、どちらを読むかすこし悩んでから両方ともスピンがついてないことに気付き、レシートが挟まれていた本を先に読むことに決めた。借りた小説はどちらもミステリー小説だった。新人賞を受賞し将来を期待された小説家のデビュー作はいったいどんなものだろうと想像する。自分との違い、間違い探しにも似た感覚で僕はこの本を借りた。表紙をめくれば、俺はこれで小説家になったんだと言わんばかりの作者の写真が載っていた。君はどうなんだい、と見下されてる気分にもなる。




 手にもった本を開く、中間あたりから表紙側に向けて親指を滑らせ頁をめくる。目の焦点は本を通り越し地面の地中あたりに定める、そうすると紙に書かれた文章は当たり前のように文字として認識ができなくなる。認識できるのは黒い塊のブロックと、空白の二つのみ、表紙までめくり終わると焦点は表紙にピッタリ定まっていた。


「これくらいの文量なら五時間くらいで読み終わるかな」とある程度の目星をつけた。


 読書も慣れてくると楽をしようとする。おおよその時間を見込んで計画を立てて、いつまでに読み終えるか目標をきめる。本来の読書とはかけ離れた行動だが、自分の目的が楽しむよりも知らなくてはいけないという強迫観念からきているからだ。


 今度は表紙から順に頁をめくる。小説のタイトルが中央に書かれている。また頁をめくる。物語が始まる。そしていつしか僕は小説の世界にだんだんと引きずり込まれていく。

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