第1話
天気は晴れ空は快晴、雲はひとつもなく、大海を泳ぐ小魚のように桜の花びらが宙を舞って優雅に流れていく。
まさに春の空。
東の空に浮かぶ太陽は、
二十四歳にもなれば、もっと人生は充実しているものだと思っていた。
仕事に恋に趣味と、一日の時間が二十四時間では足らないと嘆いているのではないか、と十代の頃は真剣に悩んでいた。
ふたを開けてみれば仕事と趣味だけに没頭している毎日で、それはそれで、悩みの種でもあった。
春とはいえ日差しは強く、素肌を出して歩くには抵抗があった。
自慢ではないが友人から、「かなえの肌は白いよね」といわれたことがある。
それに気をよくしたわけじゃないけど、この白い肌を守らねばならないという、妙な使命感にかられ、暑い日でも肌を隠すように袖の長い洋服を着ることを心がけていた。
そんなわたしをみて同じ友人が、「かなえは色気がないよね。男に興味持たれたくないの?」とも言った。
彼女は胸元を大きく開けた洋服や短いスカートを好んで履く。
身体の特性を最大限に生かして恋愛に挑んでいる勇ましい、バイタリティ溢れる女性だった。
わたし?
容姿や身なりで彼女には敵わない。
彼女の言う通りファッションには無頓着だし、あまり興味のない事にはお金をかけたくなかった。
それでも恋愛の一つや二つは経験をした。
それなりの恋をして、そして大失敗。
得られた教訓は『ロマンチストには気を付けろ!』だ。
わたしは小さいころから読書が好きで、クレヨン王国シリーズやエルマーの冒険から始まり、中高生の頃には小説を読むようになっていた。
中学三年生のとき、中学生の少年少女たちが孤島で殺し合いをさせられるという理不尽なストーリーでありながら、殺人への渇望と葛藤を描いた小説に衝撃を受けた。本を読んで泣いたのも、あの小説が初めてだったと思う。
現実と地続きじゃないからこそ、生きていることの意味や命の大切さを本から学べた。
そんなわたしを前述の友人はこう評した、「かなえは安っぽいよね」と。
「小説とか映画っていつも予定調和でご都合主義的な、そんな感じだよね。事実は小説よりも奇なりって言葉、知ってる?」と彼女は訊ねてきた。
わたしに言わせてもらえば、「彼に浮気された」とファミレスで二時間延々と泣いていた彼女の方が安っぽいように思えた。
奇しくも、彼女が言った通り小説で使い古された浮気や不倫のネタに、一読者のわたしは飽き飽きしていた。
だからこそ人というのは浮気もするし裏切りもするものだと、身をもって体験した。小説や映画はありきたりな事実を教えてくれることを、彼女はまだ知らない。
アスファルトに木漏れ日が差す。
これからの季節は、わたしにとって恰好の出会いのチャンスだ。
出会いといっても相手は本だ。
暑くもなく寒くもないこんな晴れた日に、公園では良質な読書ができる。
時間を忘れて読書に夢中になり、一日で一冊を読み終えることも珍しくない。
恋人がいない分、自分の時間を好きなように使えるし、気楽だった。
信号のない横断歩道を渡ると、わたしの勤める公立図書館が視界に入ってくる。
白い小さなタイル貼りの外壁は太陽に照らされてキラキラと反射する。
あえて目立つようにしたのか近未来的な造形がわたしは好きだった。
近未来っぽい造りでありながら、内部は書物であふれているというアナログ感のギャップが、わたしには狂おしいほど愛しかった。
職員出入り口に着くとちょうど同僚の
「おはようございます」
青いカーディガンを羽織った洋子さんは春の陽気よりも暖かな笑みであいさつをした。長くて綺麗な髪は太陽の光を浴びて深みのある紺色に輝いていた。
「洋子さん、おはようございます。今日もいい天気ですね」
洋子さんはわたしの六歳年上で三十歳、外見はモデル並み、中身はご令嬢並みといった、わたしが近づくのも憚れるような美人だった。
美人なのに鼻につくところもなく、利用者にも非常にウケが良くて貸し出しの受付コーナーには日々行列ができている。
「天気もいいけど、紫外線も強そう。肌のお手入れに手が抜けないわ」洋子さんは恨めしそうに空を見上げた。
「なんせお手入れですからね、足でやるわけにもいきませんよね」
「かなえちゃんったら、面白いんだから」と洋子さんはまた優しく微笑んだ。
わたしは洋子さんを実の姉のように慕っている。
図書館司書としても先輩で仕事のイロハを教わっていた。
「洋子さんって結婚して子供もいて、どうやってその美貌を保ってるんですか」
「美貌って言うほどのものじゃないけどね。家庭のおかげかな、科学的な根拠はないとおもうけど」いつもわたしの質問に、洋子さんは真剣に考え答えてくれるから、真剣な答えほどおもしろい。
「朝からのろけないでくださーい」わたしはやっかみ、開いたドアから洋子さんより先に身体をすべり込ませた。
洋子さんには旦那さんと三歳になる息子さんがいる。
旦那さんは文具メーカに勤めていて、日々営業職として全国を飛び回っている。
出張が多いことをボヤいたことは一度としてない。
それだけ洋子さんと旦那さんとの愛情の深さが垣間見れた。
「出会いは合コン、しかも一対一だったんだからね」と何度か聞かされ、奇妙な出会いもあるんだなと感じた。
むしろ印象的で素敵かもしれない。わたしの憧れの、恋愛だったりするのかも。
ひんやりとした職員通路に入ると、自然と気持ちが引きしまる。
太陽の光が届かない通路を抜けると事務所の明かりがすで灯っており、中では館長がなにやら作業を行っていた。
「おはようございます」合わせたつもりはなかったけど、わたしと洋子さんの声が重なった。これは阿吽の呼吸だ。
「おはようございます。二人とも仲良くご出勤ですか」
太い眉と太っ腹がゆるやかに動いた。
眉の下の瞳はつぶらで優しく、館長の微笑みは見る人を穏やかにさせてくれる。
「わたしにとって図書館職員は家族みたいなものですから」とわたしは胸を張って答える。「それよりも、また朝刊並べて、わたしたちの仕事を奪わないでくださいよ」
「
「だからと言って、やっぱり館長のやるべき仕事じゃないです。わたしがやりますから館長はゆっくりしていて下さい」わたしは半ば強引に館長から新聞を奪った。
「かなえちゃんの言うとおりです。お茶でも煎れますから、館長は少し休んでいてください」と洋子さんも助け舟を出してくれた。これは絶妙なコンビネーションだ。
「二人が来てくれたおかげで、この図書館は明るくなりました。利用者さんからも良い人が入ったねとお褒めの言葉も貰っていますよ」
椅子に座ると、館長は苦しそうにお腹をデスクと椅子の間に押し込めた。
「それは洋子さん目当ての人ですよ」わたしは異議を申し立てる。「毎日貸し出しの受付で洋子さんの受付は大行列、わたしの方なんてガラガラですよ。ショッピングセンターとすたれた商店街ほどの違いです」
「私は商店街の方が好きだよ、情緒があって奥ゆかしさもあるし」洋子さんはクスっと笑った。
「そーゆーことを言うから人気があるんです。洋子さんは品があって綺麗だし、わたしなんか敵いっこないです」わたしは不服を頬に詰め込んで膨らませた。いくら客商売じゃないとはいえ、露骨にわたしを避けられるのはキツイものだった。
「古川さん、人それぞれですよ。人それぞれ良いところがあり、悪いところがある。そのすべての要素でもって、ひとりの人間です。自分の思っている一長一短は他人によっては二長零短かもしれませんよ」館長が笑うたび、出っ張ったお腹が上下した。
わたしという人間は、夢に憧れるがあまりに、他人とだいぶ変わった場所に立っていると自覚していた。
物心ついたときから小説にはまり、一度は小説家になってみたいと夢を描いた。
わたしは思いたつや否やペンを握った、まではいいが、すぐに置くはめになった。
原稿用紙には稚拙で幼稚な文が並び、文才が無いと悟るには原稿用紙十枚も必要なかった。
その後の行路は大きくシフトして、次なる世界は出版業界へ、と目が向いた。
憧れの作家さんや編集者さんの記事やブログをチェックする日々が続き、あるとき書評なるレビューを編集者のブログで発見した。
わたしも読んだことのある小説を題材にして(字詰めで千二百字くらいの分量だったはず)、深い考察を交えて登場人物の背景や生い立ち、事件の真相を的確にとらえて書かれていた。
「あぁ、これはもう無理だ」とわたしはまた悟った。
小説に携わるには客観的な愛も必要なのだと理解したし、好きだけじゃ成しえない。
それこそ子育てと同等くらいの深い愛情が必要だと、わたしは感じた。
残されたのは書店員か図書館司書への道だった。
せっかく大学にまで進んだのだからと、図書館司書という職業を友人が教えてくれた。
ただしそこはとてつもなく狭き門で賃金が低い割りに求人が少ない、そのくせ応募人数が多いことで有名だった。
保育士さんや介護士さんのように資格を生かせる場所は少なく、今のわたしのように図書館で働けている人たちは幸運なほうだ。
宝くじの3等が当ったくらいの、幸福感。
幸福なうえにわたしは周りの人たちに恵まれて、かなえという名前さながら、夢を叶えられたような錯覚すら覚える。
最後の読売新聞をラックに掛け終えると、わたしは台車をつかんだ。
「じゃあわたしは新聞を置いてきますね」
「戻ってきたら、少し休んで朝礼にしましょう」と館長が提案する。
「さんせーい」わたしは俄然やる気が湧いてくる。
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