絵の中の窓9 門

 果てしない暗闇。


 壁も天井もない、美術室ではないで、わたしは呆然と立ち尽くしていた。


 一瞬前までの、暴風のような状況が嘘みたいに静まり返っている。あらゆる感覚がぼんやりとおぼろげで、夢の中にいるように頼りなかった。


 奇妙に耳が詰まっている。尋常ではない空間の圧がわたしの鼓膜を突き押し、全身を締め付ける。深い海溝の底にいるような圧迫感が、わたしの五感を著しく妨げていた。


 あの絵に存在した「黒」とは似ているようで全く違う、まとわりつくような、押し潰すような質量を伴った暗闇。わたしの手足すら視認することができない。まるで自分が、手も足もすっかり退化した深海の生物になってしまったようだった。


 ねばつく真っ黒なオイルの中を泳ぐように、わたしは闇の中をさまよい続ける。そのうちぽつりと、視界の先に何かが見えてきた。そこに引き寄せられるように、暗闇の中をわたしは進み続けた。近づくにつれて、それがきわめて巨大な建造物であることが分かった。


 ―それは門だった。


 この世のものならぬ、頂上を見通せないほどの高層建築。木製のように見えるけど、いったいどれだけの資材をつぎ込めば、こんな巨大なものが造れるのだろうか。


 扉は巨木を丸々1本使いきったような頑強なかんぬきが無数に掛けられ、執拗なほどに固く閉ざされていた。光源不明のスポット・ライトに照らされるように、その門だけが真っ黒な視界の中で不気味に存在を際立たせていた。


 わたしは門の前に立つ。


 門の周囲では、何かが絶えることなくはらはらと舞い落ちていた。それは奇妙な鮮やかさを保っていて、生花から千切ちぎったばかりの花びらのようでもあり、身体を失ってしまった蝶の羽のようでもあった。


 色は分からない。なのにそのみずみずしさと光彩を感じ取ったのは、きっとこれらがすべて幻視まぼろしにすぎないからだ。そう自分に言い聞かせる。それなのに頭上で揺蕩たゆたう暗闇の圧迫が、これが単なる夢だと思わせてくれなかった。


 ご…ん

 …

 …


 かんぬきが鳴った。どんな現象も干渉不能と思わせるほどの巨大な門が震える。押し詰まった空気の中を、鳴動の波が果てしなく伝わっていった。


 門の向こうに、何かがいる。


 これほどの構造体でなければが向こうにあるのだ。


 突然、気付いた。


 門の上空。わたしが見上げているのは「暗闇」ではない。


 暗闇ではない「何か」。


 その「何か」は、扉の振動に合わせて微睡まどろむようにゆっくりとうごめいた。まったく見通せない暗闇のはずなのに、巨大な蛸の足のような、軟体動物を思わせるぬめりとうねりがそこにあった。


 視てはいけない。

 視てはいけない。


 心臓が狂ったように脈打ち、生存本能が危機を絶叫し続けている。にもかかわらずわたしの心は恐怖に押しつぶされたまま、はるか頭上へ向けた視線を外す事ができなかった。


 眼を合わせてはいけない。

 眼を合わせてはいけない。


 暗闇にす、と線が入る。


 暗黒の天上が割れる。が眼を開けようとしている。


 眼が。

 眼が!


 恐怖が決壊する。


 わたしは絶叫した。


 ***



 ごうごうと鼓膜をつんざく轟音。ひときわ強くわたしを抱きしめる腕。そして自分自身の叫び声で、わたしは我に返った。


 わたしは瀬名くんに抱え込まれるようにして、床にうずくまっている。怪物と画布の衝突をきっかけにして、美術室は今や室内とは思えないほどの暴風が吹き荒れていた。


 画布キャンバスを中心に、椅子や机が渦を巻くように飛び回っている。黒い塵から再生しようとしていた怪物たちは突風に巻き込まれて再びバラバラに分解され、次々と窓の漆黒の中に飲み込まれていく。


 瀬名くんは刀を床に突き立てて、絵のに抗っていた。荒れ狂う風の中で、彼の前髪が踊っている。その表情はむしろ嬉々ききとしていて、視線は画布キャンバスにくぎ付けになっていた。


 窓の中の黒があらゆるものを飲み込もうとする中、床を踏みしめて、蜥蜴の化け物がわたしたちに迫る。


 怪物は身体の半分ほどをすでに。それでも執拗に、怪物は鉤爪で床をガリガリと引っ掻きながら、こちらに向かおうとする。穴の空いた空虚な顔が、威嚇するようにわたしに向かって震えていた。


 わたしは怪物の顔を、正面から睨み返した。最初に襲われたときの恐怖は、いつの間にか消え去っていた。


 瀬名くんがずっとそばにいてくれた安心感もあった。でもそれ以上に、ついさっきわたしが幻視した、あの押しつぶすような暗黒に対する恐怖に比べれば、この異形たちはむしろ滑稽で哀れな存在にさえ思えてしまったのだ。


 ついに耐えかねたように怪物の爪が床ごと剥がれ、その全てが窓に飲み込まれる。


 窓に吸い込まれる寸前、怪物の爪がわずかな抵抗を示して震える。窓は最後にそれもつるりと飲み込んで、をするかのようにドクンと一度画布キャンバスを震わせた。


 視界がぐらりと揺れた。巨大な空間と化していた美術室がぐんぐん縮んでいく。壊された壁も、粉々に砕け散っていた窓ガラスも、まるで動画の逆再生のように元に戻っていく。


 ばん!


 絵の中の窓の、雨戸が勢いよく閉まる。その音を最後に、美術室はとうとう完全な静寂に包まれる。荒れ狂うように飛び回っていた調度品も、果てしない天井も、まるで夢だったみたいに、何事もなかったようにきちんと整頓されていた。


 わたしは自分でもわかるくらいぽかんとした顔で、すっかり元通りになった教室の、すっかりただの絵に戻った画布キャンバスの前で、へたり込んでいた。

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