絵の中の窓9 門
果てしない暗闇。
壁も天井もない、美術室ではないどこかで、わたしは呆然と立ち尽くしていた。
一瞬前までの、暴風のような状況が嘘みたいに静まり返っている。あらゆる感覚がぼんやりと
奇妙に耳が詰まっている。尋常ではない空間の圧がわたしの鼓膜を突き押し、全身を締め付ける。深い海溝の底にいるような圧迫感が、わたしの五感を著しく妨げていた。
あの絵に存在した「黒」とは似ているようで全く違う、
―それは門だった。
この世のものならぬ、頂上を見通せないほどの高層建築。木製のように見えるけど、いったいどれだけの資材をつぎ込めば、こんな巨大なものが造れるのだろうか。
扉は巨木を丸々1本使いきったような頑強な
わたしは門の前に立つ。
門の周囲では、何かが絶えることなくはらはらと舞い落ちていた。それは奇妙な鮮やかさを保っていて、生花から
色は分からない。なのにそのみずみずしさと光彩を感じ取ったのは、きっとこれらがすべて
ご…ん
…
…
門の向こうに、何かがいる。
これほどの構造体でなければ抑え込めない何かが向こうにあるのだ。
突然、気付いた。
門の上空。わたしが見上げているのは「暗闇」ではない。
暗闇ではない「何か」。
その「何か」は、扉の振動に合わせて
視てはいけない。
視てはいけない。
心臓が狂ったように脈打ち、生存本能が危機を絶叫し続けている。にもかかわらずわたしの心は恐怖に押しつぶされたまま、はるか頭上へ向けた視線を外す事ができなかった。
眼を合わせてはいけない。
眼を合わせてはいけない。
暗闇にす、と線が入る。
暗黒の天上が割れる。あれが眼を開けようとしている。
眼が。
眼が!
恐怖が決壊する。
わたしは絶叫した。
***
ごうごうと鼓膜をつんざく轟音。ひときわ強くわたしを抱きしめる腕。そして自分自身の叫び声で、わたしは我に返った。
わたしは瀬名くんに抱え込まれるようにして、床にうずくまっている。怪物と画布の衝突をきっかけにして、美術室は今や室内とは思えないほどの暴風が吹き荒れていた。
瀬名くんは刀を床に突き立てて、絵の引力に抗っていた。荒れ狂う風の中で、彼の前髪が踊っている。その表情はむしろ
窓の中の黒があらゆるものを飲み込もうとする中、床を踏みしめて、蜥蜴の化け物がわたしたちに迫る。
怪物は身体の半分ほどをすでに窓に食いちぎられていた。それでも執拗に、怪物は鉤爪で床をガリガリと引っ掻きながら、こちらに向かおうとする。穴の空いた空虚な顔が、威嚇するようにわたしに向かって震えていた。
わたしは怪物の顔を、正面から睨み返した。最初に襲われたときの恐怖は、いつの間にか消え去っていた。
瀬名くんがずっとそばにいてくれた安心感もあった。でもそれ以上に、ついさっきわたしが幻視した、あの押しつぶすような暗黒に対する恐怖に比べれば、この異形たちはむしろ滑稽で哀れな存在にさえ思えてしまったのだ。
ついに耐えかねたように怪物の爪が床ごと剥がれ、その全てが窓に飲み込まれる。
窓に吸い込まれる寸前、怪物の爪がわずかな抵抗を示して震える。窓は最後にそれもつるりと飲み込んで、げっぷをするかのようにドクンと一度
視界がぐらりと揺れた。巨大な空間と化していた美術室がぐんぐん縮んでいく。壊された壁も、粉々に砕け散っていた窓ガラスも、まるで動画の逆再生のように元に戻っていく。
ばん!
絵の中の窓の、雨戸が勢いよく閉まる。その音を最後に、美術室はとうとう完全な静寂に包まれる。荒れ狂うように飛び回っていた調度品も、果てしない天井も、まるで夢だったみたいに、何事もなかったようにきちんと整頓されていた。
わたしは自分でもわかるくらいぽかんとした顔で、すっかり元通りになった教室の、すっかりただの絵に戻った
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