絵の中の窓10 窓の向こうへ

 死んだような静寂。


 相変わらず霧は陽光を遮っていて、美術室をすっかり照らすには弱すぎる。足元を捉える、夏と思えない季節外れの冷気は目に見えそうなほどのぬめりを持っていて、床が浸水しているみたいだった。全然どうでもいい。


 美術室の窓の向こうに、乳白色の霧の空気をまとった中庭が見える。わたしは瀬名くんと窓際に並んで、他愛もない会話を交わしながら中庭を眺めていた。


 さっきの顔なしあれ黒蜥蜴あれの話は一切しない。全然どうでもいいからだ。いつの間にか瀬名くんはあれをさっさと刀袋にしまい込んで、すっかり居合か何かの稽古帰りの、ただの青年みたいになっていた。全然それでいい。


 瀬名くんと約束した。彼と一緒に、彼のお気に入りのパン屋さんベーカリーに一緒に行って、チョコクロワッサンを買うのだ。今のわたしにとって、これ以上に重要なことなんかない。


 き、


 かすかな音。わたしたちが振り返ると、絵の中の窓が


 相変わらず廃墟の絵に別の作者が上描きしたような、な縮尺だった。だけど窓の向こうは、さっきみたいな塗りつぶされた黒ではなくなっていた。


 奇妙に奥行きのある部屋。重厚な書架が見える。手前の長机にはレトロな扇風機が置かれ、息を吹きかけたらくるくると回り出しそうだ。座り心地のよさそうなソファ。部屋を優しく照らす、電灯つきの天井扇風機シーリングファン。あれこれの調度品はどれも上品で、アンティークのドールハウスのような世界が窓の向こうにあった。


 窓から見えるはずのない角度、窓から見えるはずのないレイアウト。描かれていないはずのものたち。なのにわたしの視界は、部屋を見つめるあらゆる視点アングルを同時に捉えていた。


に行ってみようかな」

「え」


 絵の窓に近づきながら何となく口にした言葉に、瀬名くんはちょっと面食らったようだった。瀬名くんの目に、窓の向こうがどんなふうに映っているのかわからない。ついさっきまでわたしを窓のから守ってくれた彼にしてみれば、今さら向こうに行くと言い出したわたしの発言は、どうにも応答に困るものだったに違いない。


「一緒に行かない?」


 わたしは振り返ると、瀬名くんに手を差し伸べて言った。瀬名くんは一瞬だけ目を細めて、すぐにちょっと挑戦的な微笑みをわたしに返してくる。わたしも笑った。絵の中の窓が呼んでいる。さっきみたいに何かにそそのかされた破滅の道ではなく、もっと別の・・・確かな確信と繋がりがそこにあった。


 窓の向こうへ。

 窓の向こうへ。


 瀬名くんが、わたしの手を取った。一緒に絵の窓に向き合う。

 これは確信だ。


 これはわたしの、はじまりだ。



 ***



 美術室の窓から、夏霧に遮られた弱々しい日光が差し込んでいる。



 誰もいない美術室には隅に片付けられた机と椅子、何も掛かっていキャンバススタンドが、窓から差し込む淡い光に照らされていた。

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