絵の中の窓4 キャンバス
「 」
は。
「 」
彼はまた何か言った。
は?
白く濁った窓。
霧のせいだ。
ああなんだ。これは錯覚だ。錯覚なんだ。ぜんぶ霧のせいだ。おまえのことを知っているだれかなんているものか。だれかがわたしをわらって…
―こんにちは。
錯覚じゃない!
全身の血液が一瞬で沸き立ち心拍が跳ねた。わたしの耳元で絶望を囁いていた何かは、彼がわたしに向かって近づくコツコツという靴音にあっさりとかき消され、逃げるように霧散してしまった。次第に彼を覆う逆光が遠のき、ぼやけた影絵のようだったその姿は、いまや確かな輪郭を持つ紛れもない現実としてわたしの目の前に立っている。無視と孤独に慣れ過ぎたわたしにとって、わたしを認識しわたしを見つめる彼の存在は、むしろあまりに非日常だった。
どうしていいか分からなくて、わたしはあちこちに視線を彷徨わせる。
微かな
わたしは掛けているメガネの真ん中をしきりに押さえたり、ずれてもいないメガネの位置を無意味に何度も直すふりをしながら、なんの反応もできないまま近づく彼を見守るしかなかった。彼は言った。
―窓。
「窓」。取るに足らない単語。それでも長年忌まわしくも縋り続けたはわたしにとって「こんにちは」よりもずっと身近な
彼の視線はわたしの後ろに注がれている。わたしが彼の視線につられて振り返ると、教室の真ん中、あの
背の高い雑木林の中に佇む、円柱状の多層建築。
和洋折衷のデザインが、わたしたちが立っているこの旧校舎とは別種の建築思想を感じさせた。きっと当時革新的だったのだろう鉄筋コンクリートの武骨さと、昔ながらの西洋の様式美が混在する近代的な・・・モダニズムというのだったっけ・・・建築は、
あまりにも写実的であるせいで、長方形の異空間がふわりと教室の中に浮かび上がっていて、そのままその向こう側を貫いて森の中に行けてしまいそうだ。
―窓。
彼の声が私の頭の中で反響する。彼がこれを廃墟ではなく窓の絵といったのは、まさにそれが廃墟の絵である以上に窓の絵だったからだ。
描かれた廃墟の窓はほとんどがガラス窓はもちろん周辺の木枠も朽ち果て、ただの四角い穴となっていた。ただ1か所、意図的としか言いようがないほどに
廃墟や、周辺の雑木林と同じく緻密に描かれているにもかかわらず、窓の内側だけは執拗なほどに真っ黒に塗りつぶされ、そこにもともと何が描かれていたのか全く分からない。描きかけというよりも、そこに何かが存在することが禁じられているかのようだった。
建物との縮尺もややおかしかった。間違いなく建物の一部として描かれたはずなのに、その窓だけがやけに大きく感じる。仄かに差す木漏れ日と、ブラックホールみたいに完全に黒く塗りつぶされた窓の内側とのコントラストのせいで、トリック・アートのようにその窓だけが絵の中で一歩浮き出て見える。別の作者がその窓だけを描きこんだような奇妙な二重構造のせいで、教室全体の物理法則がなんだかおかしなことになっているようだった。
―やあ。
熱の気配に、再び心拍が躍る。
いつの間にか彼は私の隣にいた。この奇妙に錯綜した空間の中で、わたしたちは二人並んで、絵を、絵の中の窓を眺めている。窓から差し込む陽光が少し明るさを増したように感じた。外の霧が薄くなったのかもしれなかった。
彼は瀬名と名乗った。
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