絵の中の窓5 窓

 彼は瀬名くんといった。


 知ってる。


 1年も行方不明だったって、クラスで話題になってたから。


 背がすらりと高い。背の高い男子は他にもいるけど、いかにも成長期で急に背が伸びすぎて、当の肉体そのものが困惑しているみたいなアンバランスさを感じる人ばかりだ。


 でも彼はまるで最初からそうあったといわんばかりに筋肉と骨格が完全なバランスで確固と存在していて、半袖のシャツから伸びる前腕うでは無数の針金をじり合わせたような強靭さを感じるのに、それを覆い隠す皮膚は滑らかだった。


「精悍」というよりも、辞書以外では見かけたことも使ったこともない「屈強」という言葉がぴったりだ。


 首の上には年相応の、中性的で端正な顔が乗っている。日焼けした肌と、そこに白く細く薄く走る筋状のかすかな傷跡が、「1年間行方不明だった」という非日常な表現と結びついて、彼がこれまで過ごした、おそらく尋常でなかった時間を思い起こさせた。


 若さと強靭さを兼ね備えた肉体。なのに、どこか老人めいた印象を受けるのは、まつげ長いの眠たげな双眸と、彼からほんの微かに漂う木の香りのせいだろうか。


 まるで彼がで、高校生の姿のまま長い間どこかをさまよい続け、心だけがすっかり年を取ってしまったかのようだった。


 わたしのとりとめもない妄想をよそに、彼はすたすたと私の前を通り過ぎると、教室の壁に押し込められた椅子の一つを引っ張り出して当たり前のように腰かける。


 瀬名くんが、わたしに話しかける。


 ―最近霧が多いね。

 ―ここは、静かでいいね。


 瀬名くんが、わたしに話しかける。


 最近やけに多い夏霧のこと。霧が晴れた後の、真夏の太陽のきらめき。夏の風にそよぐ新緑の草原。最近お気に入りのパン屋さんベーカリーのことまで。


 わたしは、瀬名くんに話しかける。


 最近やけに多い夏霧のこと。霧が晴れた後の、真夏の太陽のきらめき。夏の風にそよぐ深緑の草原。チョコクロワッサンが好物なことまで。


 彼は、わたしに話しかける。

 わたしは、彼に話しかける。


 わたしは無知で、無趣味で、孤独だ。話すことが何もない。

 これまでそう思っていた。

 でもそうじゃなかった。


 わたしは、誰かと会話する資格がない。

 これまでそう思っていた。

 でもそうじゃなかった。


 わたしは「わたし」で彼は「わたしではない」。「わたし」と「わたしではない」の間にある断崖絶壁は途方もない深さと大きさだ。


 それでも二人の間には太陽の光、夏の風、草原の緑、近所のパン屋さんに至るまで、ありとあらゆる、二人を繋ごうとする頑強な架け橋が存在していて、それらはわたしたちがそのどこかで、あるいはそのすべてでお互いに出会い、見つめ合う瞬間を待っているのだ。


 時を忘れるほど話し込んだのは、いつぶりだろうか。気が付けば、お昼休みの時間が終わりかけていた。わたしは慌てて椅子から立ち上がると瀬名くんに挨拶して、美術室を出ようとした。


 ―相楽さん。


 彼の私を呼ぶ声が、背中を打つ。


 ―


 ばたん ばたん


 窓の音がした。


 今は夏休み。教室には誰もいない。

 今は夏休み。教室には誰もいない。


 ああ、そうだった、そうだった。

 え うん え


 ばたん ばたん


 窓の音がする。


 今は夏休みだ。教室には誰もいない。

 今は夏休みだ。教室には誰もいない。


 え うん


 ちがう そんなはずは

 そんなはずは だって


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