第7話 二人の会話 その5
園田一花「史実通りなら大日本帝国は韓国と台湾を併合してアジア諸国に
大東亜共栄圏を形成していますね」
岡本晃司「韓国併合については有名やね。園田さん戦史の研究がしたいって
言ってたし、歴史もかなり詳細に記憶してそうやね。
どんなもんかちょっと教えてもらえるかな」
一花「私など大したことはないですよ。でもはい、私で知っていることならお話し
します。
まず日本は日露戦争後、大韓帝国を保護国として、漢城に総督府を置いて、
初代総督に伊東博文が就きました。
日本は大韓帝国を近代化によって独り立ちさせようとし、そうなった暁には
保護を解くつもりでいました。
日本国内の一部には韓国を併合しようという意見もありましたが、併合反対の
意見が多数を占めていました。
これには朝鮮人を日本人にするのは日本人の劣化につながるという差別的意識
もありましたが、一番の理由は併合することによって必要になる莫大な費用が
工面できないということでした」
晃司「そっか初代総督が伊藤博文なんは知ってたが総督府は漢城やったか。
日本は欧米諸国のような収奪型の植民地政策を行うつもりは無くて、朝鮮半島
は東南アジアのように資源が豊富ではなかっただけに、併合によるメリットが
なかったのよね」
一花「はい。もちろんご存知かとは思いますが統監の伊藤博文自身が併合には反対の
立場をとっていました。
しかし明治42年[1909年]、伊藤博文がハルビンで朝鮮人テロリスト安重根に
よって暗殺され、状況は一変しました。
国内で併合論が高まると同時に、大韓帝国政府からも併合の提案がなされ
ました。
大韓帝国最大の政治結社である一進会もまた、日韓合邦を進める声明文を
出しました。
それでも日本政府は併合には慎重だったのです。
世界の列強がどう見るか憂慮したためです。
そこで日本が列強に大韓帝国の併合を打診すると、これに反対した国は一国も
ありませんでした。
それどころかイギリスやアメリカの新聞は、東アジアの安定のために併合を
支持するという内容の記事を書いたのです」
晃司「詳細に記憶してるね。でそうして日本はようやく大韓帝国の併合を決断
するんよね」
一花「まだまだ手はじめですよこれくらいは。でもはい、繰り返しますが、韓国併合
は武力を用いて行われたものでも無ければ、大韓帝国政府の意向を無視して
強引に行われたものでもなかったんですね。
あくまで両政府の合意のもとでなされ、当時の国際社会が歓迎したことだった
のです。
もちろん、朝鮮人の中には併合に反対する者もいましたけど、そのことを
もって併合が非合法だなんて言えないですよね。
大東亜戦争後に誕生した大韓民国[韓国]は、併合時代に日本から様々なものを
奪われたと主張していますが、そのほとんどは言いがかりで、むしろ日本は
朝鮮半島に凄まじいまでの資金を投入して、近代化に大きく貢献しています。
いくつか例を挙げると、併合前まで100校ほとしかなかった小学校を4271校に
増やし、全国児童に義務教育を施し、10%程度であった国民の識字率を60%に
まで引き上げています」
晃司「このときに日本人がハングル文字を普及させたんよね」
一花「はい。そうですよね。また全土がほぼはげ山だったところに約6億本もの木を
植え、鴨緑江には当時世界最大の水力発電所を作り、国内の至るところに
鉄道網を敷き、工場を建てました。
あらたな農地を開拓し、灌漑(かんがい)を行い、耕地面積を倍にしました。
それにより米の収穫量を増やし、30年足らずで人口を約二倍に増やしました。
同時に24才だった平均寿命を42才にまで伸ばしました。
厳しい身分制度や奴隷制度、おぞましい刑罰等を廃止しました」
晃司「まったくこれらのどこが収奪やというのやろうね」
一花「ですね。たしかに当時の日本の内務省の文書には植民地という言葉があり
ますが、これは用語だけのことで、政策の実態は欧米の収奪型の植民地とは
まるで違うものでした。
また日本名を強制した事実もなければ慰安婦狩りをした等と言う事実も
ありません。
その傍証はいくらでも挙げられますが割愛します。
ただ結果論ではありますが、100年以上の現代まで尾を引く国内および国際
問題となった状況を見れば、韓国併合は失敗だったと言わざるを得ません」
晃司「日本は大韓帝国に対し、あくまで保護国として自立させる道を選ぶべき
やったね。
その場合、韓国の自立や近代化はおそらく何十年も遅れた事やろうけど、
それが両国にとって最善の道であったと思うね。
韓国は戦後日本に謝罪しろと脅迫し、日本は彼らを甘やかしてずっと謝罪
してきたけど、ドイツはユダヤ人に対してのホロコースト(民族大虐殺)
を謝罪したんであって、オーストリア併合に関してはそれがどうした
という態度やったよね戦後」
一花「確かにそうですね。まあざっくりこんな感じです」
晃司「ざっくりでこれだけならかなり詳細に知ってるね」
一花「それほどでもありませんが韓国併合に関してももっと詳細に記憶して
いますよ」
晃司「朝鮮半島の民族は恨みの文化でそれで何千年も生き抜いてきたと言われて
るね。
そして自分たちで独立した国は俺らがいた当時まで一度もなかったはず。
だから他国に自分の地域を委ねてきていて前の親分を恨み倒すという文化の
様やね。
韓国併合前までの朝鮮半島には反日など無くて、俺らのいた韓国は親分が
アメリカで前の親分が日本やから併合や大東亜共栄圏であったアジアの国の
中で唯一反日なんやね。
またよく日本を卑下する文化があるけどあれは、韓国、北朝鮮というのは
小中華で中華思想なのよね。
だから韓国では中華から韓国より遠い日本が下でなければならないから中国が
親、韓国が兄貴分、日本が弟分なのよね。
しかし実際は、常に日本の方が優秀なのが認められず、許せないんよね。
で韓国よりGDPなんかもずっと下の北朝鮮の方が、韓国より中華に近いから上
なんよね」
一花「私たちのいた時代となっては有名な話とはいえよく知っていますね」
晃司「俺もこれくらいは。今度は台湾について聞かせてよ」
一花「はい、じゃあ台湾の歴史等について少し触れてみます。
日本統治時代の台湾は、日清戦争の結果下関条約によって台湾が清朝から
日本に割譲された1895年4月17日から、第二次世界大戦が終結して日本の
降伏後、中華民国政府によって台湾の管轄権行使が開始される1945年
10月25日までの時代ですが、有名なのは島の南北を貫く中央山脈の山の
平均標高は3000mで、3500m以上の山は20座もあり、その中の玉山は標高
4000m近くでもちろん富士山より高く日本統治時代の日本で最高の山であり、
今のこの時代には新高山と呼ばれてましたよね」
晃司「小さな声で言うけど、だから攻撃開始の海軍暗号はニイタカヤマノボレ
やったんやね」
一花「有名ですよね。そして私たちのいた時代でも日本人の多くは台湾の原住民は
2%程度のごく少数で残りは本省人も外省人もみな漢民族と考えていますが
これは間違いなんです」
晃司「そうなの?」
一花「私たちがいた時代の台湾における漢民族というのは、蒋介石と渡ってきた官民
合わせて200万人のチャイニーズの子孫、いわゆる外省人の13%のみです。
いわゆる本省人と呼ばれる台湾人は、漢民族ではなく平捕族(へいほぞく)
という原住民であることが私たちのタイムスリップ前の近年の研究で明らか
にされています。
平捕族というのは平地に住む民族のことで、正式には台湾原住民族と総称
される原住民と同じく、清朝以前からもともと台湾にいた原住民です。
しかしそれまで、この平捕族は中国大陸からやってきた漢民族であったと信じ
られてきました。
何故平捕族が漢民族にされてしまったのかと言うと、2つの根拠があります。
台湾が歴史の舞台に出たのは1624年、オランダが台湾統治を始めた時です。
以後、オランダが38年間にわたって台湾を統治した間に、オランダがチャイナ
から労働力として連れてきた漢民族が移民となって住み着いたということが
1つ。
そしてもう一つは、その38年後にオランダ人を追い出して台湾を統治した
海賊の鄭成功(ていせいこう)がやはりチャイナから労働力として漢民族を
連れてきて、彼らの子孫が本省人であるという説です。
しかし、当時のオランダの資料を見れば、統計学的に全く間違っています。
オランダ統治時代、チャイナから台湾に流入した労働者は8000人しかおらず、
オランダ人2000人と合わせて1万人。しかし、当時の台湾の人口は山地、
平地の両方に住んでいる人口は50万人でその中の8000人という微々たる
ものでした」
晃司「じゃあ鄭成功の方の説は?」
一花「チャイナでは1644年に明朝が亡び、満州人の清朝が征服王朝となりますね。
この時、明朝の遺臣の鄭成功が台湾を拠点に清朝に抵抗しました。
鄭氏一族が台湾を統治したのは清に敗れるまでのわずか22年間です。
さらに、清は鄭成功の一族と鄭成功と一緒に台湾に渡って来た者たちを全員、
チャイナに返しました。
何故かというと鄭成功ら抵抗勢力の拠点であった台湾を何としても潰さ
なければならなかったからです。
何としてでも海賊の拠点にさせるわけにはいかない。
つまり、台湾で海賊を繁殖させたくなかったから彼らを引き揚げさせたの
です。
そして康熙帝(こうきてい)は1684年、台湾領有を決め、以後、およそ
210年にわたって台湾は清の領土になったのです。
しかし、清は出来るだけ中国大陸からこの病気が蔓延する台湾に人が渡らない
ように政策を採りました。
役人だけ3年交替で派遣するのですが、大体マラリア等の疫病にかかって死んで
しまいました」
晃司「当時の台湾の衛生はそこまでひどかったんかあ」
一花「はい。この様な状況下で1871年牡丹社事件が起きます。
これを言うと台湾の方に申し訳ない気持ちにもなりますがあえて失礼させて
頂きます。
それは宮古島から琉球へ向けて出発した朝貢船が難破して台湾の台東の海岸に
漂着し、付近の牡丹社に住む原住民のパイワン族が、保護した乗員60数名の
うち50数名を、意思疎通の上で誤解が生じて殺害してしまった事件です。
この事件を受けて、明治政府が清に抗議すると、清は、台湾は化外の地で
あり、化外の民であり、我々には関係ないというのです。
日本としては日本国民が殺されているわけですから、出兵して仇をとっても
いいかと聞くと、清はどうぞどうぞ我々とは関係ないところですから
如何様(いかよう)にもして下さいと。
それで、事件発生から3年後の1874年、西郷隆盛の弟の
西郷従道(さいごうつぐみち)が兵を率いて牡丹社に攻め入りったのが
台湾出兵です。
この牡丹社事件が、日本が台湾と国際的に関わった初めての出来事でした。
その時の清の反応は、よくやってくれたというもので、清朝は日本に慰労品
まで贈りました。
あんなところは我々の所じゃないんだからというった具合です」
晃司「確かにちょっと台湾の人に失礼な言い方も入っているかんじもするけどね」
一花「そうなんです。でそれから約20年後の1895年、日清戦争で負けた清は日本に
台湾を割譲し、日本による台湾領有が始まります。
日清講和条約である下関条約を結んだときに清側代表の
李鴻章(りこうしょう)が日本領代表の伊藤博文に何と言ったかというと、
なんであんなところがほしいのかというものです。
李鴻章が台湾を日本に割譲すると、清政府の中では、よくやったという声が
あがりました。
これで台湾は絶対に海賊の拠点にはならない、長年のお荷物を日本に
背負わせた。
歓喜したわけです。
後は私たちの知る日本の統治時代になるわけです。
私たちがタイムスリップする直前の2019年11月に出た世論調査での結果では、
最も好きな国で日本と回答した人は確か59%という結果でその時過去最多に
なっています」
晃司「いやあよくもまあそれだけ細かいことまで知ってまた覚えてるね。
すごい記憶力やなあ」
一花「そんなことないですよ。こういう系統すきだからよく反復もして
いただけです」
晃司「いやいや園田さん、君の得手とまた記憶力も抜群ということがわかったよ」
一花「はずかしいですが褒めてもらって嬉しいです」
晃司「まあとにかく併合した土地だけじゃなく、各アジア地域においても、我々の
先祖は朝鮮台湾併合で、ものすごくよくしただけではなく、各アジアに
ついても大東亜共栄圏において、確かに何十年何百年と白人に侵略されては
いたけど、その土地の文化を尊重し文明、それは各技術、経済、インフラ、
果ては国家とその国に対する愛国心そのものというような、文明とだけでは
言い表せないものをアジアとアジア人に与えたわけよね」
一花「それが私たち日本人の先祖なんですよね」
晃司と香織の会話ははずむのであった。
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