雨音は命の調べ

 神保町すずらん通りに並ぶ街灯の光が雨に濡れる石畳に反射して柔らかい光を放つ。道行く人は傘を手に、足早に通り過ぎていく。伊織は烏鵲堂のカフェスペースにひとり座り、格子窓をぼんやりと見つめている。ガラス窓に流れる雨の雫がするすると滑ってはぶつかり、ひとつになって落ちていく。優しい雨だ。ガラスを叩く雨音は聞こえない。


 曹瑛が目の前の椅子に座り、流れるような手つきで安渓鉄観音を淹れる。ふわりと鼻をくすぐる蘭の甘い香りに伊織は思わず口許を緩める。

「こういう雨の日には、ふと昔のことを思い出すよ」

 伊織は窓の外を見つめながら、遠い故郷の思い出を話し始めた。


「子供の頃、あれは小学校三年生だから八才だったかな。近所の家に子犬が生まれたんだよ。五匹もいて、全部は育てることはできないから貰い手を探していたんだ」

 曹瑛は安渓鉄観音を口に含みながら、伊織の話に黙って耳を傾ける。

「その子犬は両手の平に乗るような大きさで、すごく可愛かった。まん丸い目でこっちを見上げてさ、撫でると嬉しそうに身体を震わせたよ」

 伊織は両手で水を掬うようにしてみせた。小学生の小さな手に乗るほどだ、相当小さな子犬だったのだろう。


 曹瑛は相づちを打つことをしないが、それに慣れている伊織は話を続ける。

「家に帰って、父さんに子犬を飼いたいってお願いしたんだ。でも父さんは絶対に駄目だって。何故駄目なのか背中を向けたまま答えてくれなかった」

 母親にもお願いしたけれど、動物を飼うなど家族の大事な決め事は、父親がうんと言わなければ通らない。


「俺はどうしても子犬を飼いたくて、近所のおばさんに親が飼ってもいいって言ったと嘘をついた。そして、子犬をもらって帰って、家のガレージに隠したんだ」

 曹瑛は静かに茶を継ぎ足す。金色の雫が白磁の茶海からひとつ零れ落ちて波紋を作る。

「子供の浅知恵だよ」

 伊織が今でも思い出すのが恥ずかしいのか、眉根を寄せながら自嘲する。

「夜にこっそり起きだして、餌をやって段ボール箱に入れて、古い毛布にくるんで眠るまでずっと見ていたよ。でも」

 伊織は澄んだ安渓鉄観音を見つめて、ゆっくりと飲み干した。


「その夜のうちに父さんに見つかってしまった」

 曹瑛はポットの湯を注ぎながら伊織の顔をチラリと見る。

「子犬ってさ、鳴くんだよ。夜、俺が寝ちゃったあともガレージでずっとクンクン鳴いてた。父さんに見つかって、家の中は大騒動。子犬を見た妹の美織も飼いたいって言ったけど、父さんは世話なんかできるか、返してこいの一点張り。母さんも呆れてた」

 子供が親に隠れて犬を飼うことなどできるはずがない。あまりに愚かな行動だった。しかし、そのとき伊織はどうしても子犬が欲しくて仕方が無かったのだ。


「飼って欲しいって拝み倒したけど、結局は返しにいく羽目になった。俺は悲しくて、悔しくて、それにカッコ悪くて泣いたよ。朝が来て、子犬を抱いて、一人で近所のおばさんのところに行った。そのときの温かさを今でも覚えている。おばさんは困った顔をしながら引き取ってくれたよ」

 伊織はバツの悪そうな顔をして鼻を啜る。

「そのときもこんな雨の日だった」

 伊織はガラス窓に流れる水滴を指でなぞる。


「あのとき俺は、子犬をぬいぐるみのように考えていたんだ。父さんにはそれが分かってた。子犬は命を持つ生き物だ、飼うからにはその命に責任を持たないといけないって。俺は何も言えなかった」

 伊織はいたたまれなくなって愛想笑いを浮かべ、黙り込んだ。

「俺ってさ、ズボラでサボテンだって枯らしてしまうほどだった。父さんは子犬の世話を自分や母さんがする羽目になることが見えていたんだろうね。本気で飼いたいと思えば、絶対に世話をするって食い下がることだってできたかもしれない。俺にはその覚悟が無かったんだ」

「犬はどうなった」

 少しの沈黙のあと、曹瑛が訊ねる。


「結局、飼うことになったよ。父さんと母さんが話し合って、近所のおばさんのところにもう一度もらいに行ってくれたんだ。俺は本当に嬉しくて、それから大事に世話をしたよ。上京する前に死んじゃったけどね」

 武蔵と名付けたその犬は家族の一員として可愛がられた。お別れのときは本気で泣いて、夜も眠れないほどで美織も驚いていたという。

「その後に、また犬を飼うことにしたんだ。父さんが寂しがってね。名前は小次郎。もうおじいちゃん犬だけど、この間送ってもらった写真では元気そうだったよ」

 伊織は老いた父の傍に寝そべる小次郎の姿を思い浮かべる。


「なんだか、まとまりない話をしちゃったな」

 伊織は気恥ずかしそうに頭をかく。曹瑛は黙って茶器を持って立ち上がった。

「命に責任を持つ、か」

 曹瑛はその言葉を反芻する。伊織はハッと気が付いて顔を上げた。曹瑛は表情を変えることなく伊織を見つめている。その目は静謐な夜の湖のようだ。曹瑛は踵を返し、厨房へ消えていく。

 格子窓の外を見やれば、いつの間にか雨は上がっていた。

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