元暗殺者と元極道の不毛な戦い

早朝ランニングの誘い

 伊織と曹瑛は品川の高浜運河沿いの緑地にやってきた。Tシャツに薄手のウインドブレーカーを羽織り、スウェットパンツにおろしたてのスポーツシューズ。今日は榊の日課にしているランニングに付き合うことになっている。朝7時、天気は良く絶好の運動日和だ。


―数日前。

「最近、太ったみたい」

 烏鵲堂のカフェスペース閉店後、ぶらりとやってきた榊と伊織が話をしていた。伊織はシャツの上から自分の腹の肉をつまんでいる。

「食べる量は増えてないはずだけど、体重が増える一方で、戻らない」

 伊織は雑誌記事の取材で歩き回ることはあるが、さすがに前職の営業マン時代ほどではない。鏡を見れば、心なしか顔もふっくらしてきたような気がしていた。


「30代にもなれば、筋肉が衰えて代謝が落ちる一方だ。気を抜けば太りもする」

 伊織の正面で足を組んで座る榊はオーダーメイドのスーツを着こなし、普段から身体を鍛えているので変わらずスタイルがいい。榊と伊織は同じ年齢だ。

「俺は身体を鍛えるのが趣味だからな」

 ストイックな榊は、毎日8キロはランニングをしていると言っていた。気合いの入れ方が違う。運動か、正直得意ではない。伊織はテーブルに頬杖をつく。

 片付けにキリがついたのか、曹瑛がやってきて榊の荷物に目を留めた。


「ああ、これか。ランニング用のシューズだ。今使っているものがかなりへたってきたからな」

 ここに来るときに靴屋に立ち寄り、良い品があったので買ってきたという。

「お前も最近鈍ってるんじゃないか」

 榊の言葉に、曹瑛が妙に対抗意識を燃やした。伊織が思うに出会った頃と変わりないようだが、本人に思い当たる節があるのだろう。大人げないケンカが始まりそうなところを、書店の片付けを終えた高谷と伊織が必死で止めた。


 話の成り行きで、一緒にランニングをしようという平和的解決に落ち着いたのだった。


「よう、なかなかサマになってるじゃないか」

 榊と高谷もやってきた。高谷は運動が得意ではないらしいが、榊に誘われて断り切れなかったようだ。

「コースはこの運河沿いをまわって返ってくる。大体3キロくらいだな。スピードは無理しなくていいぞ」

 榊は走り慣れているから速いという。ストレッチをして身体をほぐす。伊織は身体がミシミシ音を立てているようだ。


「行くか」

 榊が走り出す。さすがに軽やかだ。曹瑛も無言で榊に並び、速度を合わせている。伊織と高谷はその後ろをついて走り出した。両側にビルの並ぶ運河沿いの歩道を走っていく。ここなら車もいないし、運河の風景を眺めながら走れるので気持ちが良い。同じように早朝ランニングをする人たちとすれ違った。短パンで気合いの入っている人もいる。


「景色を楽しめるのはいいね」

 伊織が横を走る高谷に声をかける。見れば、高谷はかなり息が上がっていた。若いはずだが、意外と体力がない。しばらくすると、だんだん速度が落ちて、榊の背がどんどん遠くなっていく。

「お前らは無理をするな、適当に休みながら来い」

 榊はそういうと、普段のペースで走り始めた。かなり速い。曹瑛もそれに苦も無くついていく。


「やるな、曹瑛」

 榊が併走する曹瑛を横目で見る。曹瑛も大して息が上がっていない。背筋を伸ばし、滑るように走っている。

「お前に負けるつもりはない」

 前を向いたまま真顔で言う。

「な・・・ランニングに勝ち負けなんかあるかよ」

 榊は呆れて言い返す。

「お前のその自信、どこまでもつか試してやろう」

 曹瑛はスピードを上げた。


 伊織はへろへろになった高谷に合わせてゆっくり走っていた。

「高谷くん、大丈夫?」

「うん・・・はー・・・大丈夫・・・はー・・・」

 言葉とは裏腹に虫の息とはこのことだ。伊織もかつて、小児喘息に悩まされた。運動が一番の治療だと、家の近所を走らされたおかげで基礎体力はしっかりついたように思う。

「ちょっと休もう」

 高谷はうんと首を振る。最近の若い者は、と思う自分はおっさんなのだろうか。伊織も芝生のベンチに腰を下ろした。榊と曹瑛はどこまで行ったのだろうか。


 目の前をその2人が走り抜けていく。

「あ、榊さんに瑛さん」

 結構なペースで、無言で前を見据えて走る姿はまたしょうもない張り合いが始まっているようだ。

「ちょっと落ち着いたよ、行こう伊織さん」

 高谷が立ち上がった。伊織も高谷のペースでゆっくり走り始める。橋を渡ろうとして、また榊と曹瑛に追い抜かれた。二人とも変わらぬペースで走り続けている。


「でも瑛さんて、いつ運動してるんだろう」

 伊織は遠ざかる背中を眺めてぼやく。曹瑛の生態は謎が多い。彼はかつて組織に雇われた暗殺者だった。身体を鍛えることは生き延びることに直結する。日本にやってきて烏鵲堂を始めても、どこかで鍛錬をしているのだろうか。毎日ランニングを欠かさないという榊に張り合えるとは、さすがとしか言いようがない。

「榊さんと張り合えるなんて、曹瑛さんはさすがだよ」

 高谷はまた息が上がりはじめていた。


 ようやくスタート地点に戻ることができ、汗だくになった伊織と高谷はミネラルウォーターで水分補給をする。予定では、この一周でランニングは終了のはずだった。ここに戻る前に、榊と曹瑛に3度は追い抜かれた。もう10キロ近く走っていることになる。

「榊さん、曹瑛さん、お疲れさま・・・えっ?」

 戻ってきた榊と曹瑛にミネラルウォーターを渡そうとした高谷を無視して、2人はそのまま走り続ける。

「いつまでやるんだろう」

 高谷は半ば呆れている。伊織は諦めて傍のベンチに座った。この勢いではフルマラソンを完走しかねない。


「なかなかやるな」

 榊は呼吸を整えながら曹瑛をチラリと見る。曹瑛は全く息が上がっていないように見える。

「お前の日課は8キロか、そろそろ限界だろう」

 曹瑛がニヤリと笑う。確かに、8キロを越えた辺りから、榊は身体が少し重くなっているのを感じていた。

「貴様、あくまでも勝負するつもりか」

 榊の切れ長の瞳がギラリと光る。

「勝負になどなるわけはない。お前は俺に勝てない。得意のランニングですらな」

 曹瑛が余裕の笑みを浮かべる。榊は奥歯をギリ、と噛みしめた。


 その先は無言だった。曹瑛の言う通り、息は上がり筋肉が悲鳴を上げている。折り返し地点の楽水橋を越えたところで、榊は曹瑛に顔を向けた。

「ここから結紀のいる場所まで、先についた方が勝ちだ」

 榊の言葉に曹瑛が眉根を寄せる。

「なに、いつからそんなルールになった」

「今この瞬間だ」

「いいだろう、それでもお前は俺に勝てない」

 榊と曹瑛は全力疾走を始めた。どちらも意地を張り、肩を並べて走る。スピードは同じだった。大柄な男2人が全力で駆け抜けるさまに、楽しくランニングをしていた地域住民が慌てて道を空ける。


「あ、戻ってきた」

 伊織の声に、高谷も遊歩道に顔を向けた。必死の形相でこちらに向かって全力疾走してくる榊と曹瑛に思わずヒッと声を上げる。2人はスピードを全く落とさず、高谷の足元の芝生に転がるように滑り込んだ。

「クソ、どっちだ」

「おい、伊織どっちが早かった」

 2人の額から一気に汗が噴き出す。芝生に座ったまま、2人は肩で息をしている。


「2人同時だよ」

 伊織はあきれながら答える。本当にこの2人の張り合いときたら小学生か。曹瑛が伊織を恨みがましい目で見ていたが、横にいた榊が笑い始めた。曹瑛もつられて笑う。

「良い勝負だったな」

 榊が気持ちよさそうに青空を見上げる。

「あのまま長距離耐久なら俺が勝っていた」

 曹瑛の言葉に榊は鼻を鳴らして笑う。


 榊がフィリップモリスを取り出し、デュポンで火を点ける。紫煙が空に立ち上る。曹瑛も榊からもらいタバコをして美味そうに吸い始めた。

「この一服が最高だ」

「ああ、違いない」

 曹瑛も頷いた。ランニング後に喫煙など絶対に健康に悪い、と思ったが伊織は水を差すのをやめておいた。

 それから伊織は仕事が早く終わった日は、マンション近くの公園を走るようになった。曹瑛を誘ってみたがお前は遅い、それに面倒くさいと振られてしまった。

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