水中の仁義なき戦い
烏鵲堂を店仕舞いして榊のBMWに乗り合わせて北品川にやってきた。駐車場に車を停めて、ガラス扉を開けると正面に受付カウンターがある。溌剌とした若い女性係員は榊の顔を見るや、日焼けした顔に明るい笑みを浮かべる。
「榊さん、久しぶりですね」
「ああ、仕事が忙しくてしばらくぶりだ」
榊はアトラススポーツジム品川の会員証を差し出す。係員は会員証をカードリーダーに通し、ロッカーキーを手渡す。
「この三人は体験コースで頼む」
榊の背後には曹瑛、伊織、高谷が立っている。曹瑛はスポーツジムが珍しいようで、周囲を注意深く見回している。
三人は榊からロッカーキーを受け取る。
通っていたジムから体験チケットが送られてきたというので、榊が最近メタボを気にしている伊織をジムに誘ったところ、耳聡く聞いていた曹瑛も興味を持ったようで、ついてくることになった。
「俺はいいよ、運動音痴だし」
面倒なのでやんわり断っていた高谷も、それならなおさら行くぞ、と榊に誘われてやむなく付き合うことになった。
ロッカーで水着に着替え、シャワーを浴びてプールサイドに出る。
榊はスポーティな黒い競泳パンツ姿だ。普段から筋トレを欠かさないというだけあって、鍛えられた上半身は見事だ。伊織は自分の腹筋を見て、その違いにため息をつく。
曹瑛は長袖に膝丈のスイムスーツで露出を抑えており、榊とは対照的だ。伊織は幅広の白と青のボーダー柄、高谷はヤシの木柄のオレンジ色のサーフパンツを着ている。
「プールなんて久しぶりだな」
伊織はジムの物販で購入したスイムキャップをかぶる。25メートルのコースが6本、それぞれに用途が分かれている。
「手前はウォーキング用。その次は時々立ったりしながら泳げる初心者コース、次は25メートルを泳げる中級コース、真ん中は折り返して泳げる上級コース、向こう二本は競泳用だ」
榊はゴーグルをかけ、ストレッチを始める。ひとしきり身体が温まったところで、早速競泳用のコースへ歩いて行く。曹瑛も迷わず競泳コースを選んだ。
伊織と高谷は25メートル初心者コースから始めることにした。高谷が先に泳ぎ始める。ばしゃばしゃと派手に水をかいてほとんど進まない。まるで溺れているようにしか見えない。
「ぶはっ」
息継ぎに失敗して派手に咳き込んでいる。
「高谷くん、予想以上にカナヅチだな」
海に行ったときも高谷は浮き輪でぷかぷか浮いていたのを思い出した。伊織は高谷と間隔を空けてクロールで泳ぎ出す。何度も足をつく高谷にすぐ追いついてしまった。
「伊織さん、泳ぎ上手いね」
高谷は25メートルの往復で音を上げた。若いのに一番体力が無い。
「まあね、子供の頃は夏場は毎日のように海で泳いでいたから」
伊織は海沿いの漁師町で育ったこともあり、子供の頃からよく海で泳いでいたため自然と泳ぎは身についている。
伊織は高谷に泳ぎ方のコツを教えることにした。
「水の中では身体をできるだけ真っ直ぐにするといいよ。水の抵抗を減らせる」
「へえ、そうなんだ」
「高谷くんは泳ぎながら顔が上がっているから余計に息継ぎが難しいんだよ。水の中で息を吐き続けて、顔を上げて一気に空気を吸えばいいよ」
伊織の説明に高谷は何度も頷く。
「まずはそれだけ意識して泳いでみよう」
伊織の言うとおり、水中で顔をしっかり下げて息を吐き続けることで息継ぎが断然しやすくなった。高谷も泳ぐことが楽しくなり、初心者コースを三往復した後は中級コースに行こうと言い出した。
しかし、そもそもの体力が貧弱な高谷は、中級コースを二往復した時点で息があがっている。
「一度休憩しよう」
プールから上がり、ベンチに腰掛ける。すると、奥の二コースにギャラリーが集まっている。曹瑛と榊だ。曹瑛は背泳で、榊はクロールで猛スピードでコースを往復している。
「すごいな、もう八往復あのペースで泳いでるぞ」
「フォームも綺麗だな。しかし、あんなに早い背泳ぎ、見たことが無い」
ジムの常連たちも驚いている。
榊はダイナミックに水を掻きながら猛進する。ストロークとキックのリズムが完璧で、高い推進力を生み出している。対する曹瑛は背泳で榊と並ぶ。無駄のない動きで真っ直ぐに進む姿はまるで魚のようだ。
「また始まった」
高谷は呆れて頬杖をつきながら二人の姿を見つめる。内心、榊と同等に張り合える曹瑛が羨ましくて頬を膨らませた。
「クロールに背泳で張り合うなんて、信じられない」
コースの中程では曹瑛がやや遅れを取るものの、折り返しでかなりの差を詰めている。
「あの兄ちゃん、潜水のスピードが驚異的なんだよ」
腕組をしながら曹瑛と榊を観察するジムのトレーナーが教えてくれた。曹瑛は壁を蹴るキック力が優れているため、潜水距離が長い。しかも息も長いという。
「どうした、榊。疲れてきたんじゃないか。スピードが落ちているぞ」
曹瑛がとなりのコースを泳ぐ榊を挑発する。
「お前こそ、最初の勢いはどうした」
榊は息継ぎの合間に曹瑛を睨む。
「俺は濁流の長江を七キロ泳ぎ切り、追っ手を振り切ったことがある。こんなぬるま湯でお遊戯していた貴様とは鍛え方が違う」
曹瑛は榊を横目で見てニヤリと笑う。冷静に言いながらも実のところ、やや息が上がっている。
「俺はガキの頃から小田原の海で育った。水の中では負ける気がしないぜ」
榊はスピードを上げた。しかし、これ以上このペースで続けるのは得策ではない。曹瑛は背泳だが、こちらはクロールだ。貴重な息継ぎの時間に会話をしたことも体力消耗に繋がっていた。
それから三往復、さすがに二人ともややスピードが落ちてきた。榊がクロールから平泳ぎに切り替えた。スピードは落ちるが、体力を温存するには最適の選択だ。
「無様だな、榊。宗旨替えか」
曹瑛が榊を嘲笑う。
「黙れ、曹瑛。実のところ、俺は平泳ぎの方が得意だ。お前にハンデをくれてやったんだ」
「ほざけ」
曹瑛と榊は殺気を漲らせて応酬を続ける。その異様な空気に競泳コースに入るものは誰もいない。
しかし、二人とも明らかに限界に近付いていた。
「次にスタート地点に先についた方が勝ちだ」
曹瑛は水に身体を沈めると、壁を思い切り蹴った。推進力でぐんと身体が前に進む。
「何っ」
突然のルール変更に遅れを取った榊は直ぐさまクロールに切り替え、渾身のストロークを見せる。曹瑛は水面に顔を上げ、クロールに切り替えて泳ぎ始めた。
「貴様こそ宗旨替えか」
「黙れ、誰が背泳しかできないと言った」
曹瑛と榊が並んだ。ギャラリーも息を飲んで勝負の行方を見守っている。
「榊さん、頑張れ」
高谷も思わず叫ぶ。
あと10メートルで勝負がつく、その時。水しぶきとともに、子供たちが水中に飛び込んだ。榊と曹瑛はその場で立ち止まり、足をつく。
「ちっ」
曹瑛が小さく舌打ちをする。19時半からこの競泳レーンをキッズ水泳教室が使うことになっていたのだ。ストレッチを終えた子供達が楽しそうに水を掛け合って遊んでいる。
「勝負はお預けか」
榊は内心ホッとする。
「子供たちがいなければ、当然俺が勝っていた」
曹瑛も冷静な表情を崩さないが、息が上がっているようだ。
「それは俺の台詞だ」
榊はフンと鼻で笑う。
伊織と高谷は休憩スペースにある温水ジャグジーで寛いでいた。体力を消耗した曹瑛と榊はジャグジーに入り、無言のまま疲れを癒やしている。
「まったく、こんなところで大人げないんだから」
高谷は唇を尖らせる。榊も曹瑛も、言い返す気力も残っていないようだった。
シャワーを浴びて、大崎のハワイアンダイニングに向かった。本格的なハワイアンローカルフードが食べられる店で、本店は本場ハワイにある。
夜風が涼しいウッドデッキを選んだ。白いパラソルにキャンプ用のランタンが吊られている。
「泳ぐとお腹が空くね」
ハイカロリーのメニューに、これでは本末転倒だと思いながら空腹には勝てない。まぐろとアボカドのポキサラダ、ガーリックシュリンプ、フライドチキンを注文する。曹瑛はデザートにクリームたっぷりのパンケーキを狙っているようだ。
「ビールが飲めないのが残念だ」
榊はドライバーなので、ノンアルコールのモヒートを注文した。曹瑛はマンゴーのフレッシュジュース、伊織はグァバジュース、高谷はブルーハワイを選んだ。
「乾杯」
グラスを合わせると耳に心地良い涼やかな氷の音が響いた。
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