こじらせた男たち
モノクロームのスケッチ
高谷結紀は絵を描くのが好きだった。
六歳の時、小学校へ上がるお祝いにと、母親が図鑑を買ってくれた。結紀が選んだのは鳥の図鑑だった。瑠璃色の羽を持ち水しぶきに遊ぶカワセミや、まん丸い目の賢い顔のフクロウ、鋭い目で大きな翼で大空を飛ぶタカ。その一冊を飽きもせずに、何度も見返した。
いつしか、図鑑の鳥たちを真似して描くようになった。羽の模様を緻密に描き写していくと時間を忘れた。勉強用に買ってもらった黒い鉛筆で、裏が白紙のチラシを見つけては鳥の絵を描いた。
夜の仕事だった母と過ごす時間より祖母との時間の方が長かった。同居の祖母が結紀の絵を見つけて褒めてくれた。
「絵を描くなら色鉛筆を使えばいいのに」
結紀の絵を見て、怪訝な顔で母は呟いた。結紀の絵はすべて黒い鉛筆で描かれていた。小学校で使うから色鉛筆を買ってあげているのに、と不思議がった。
図鑑には色鮮やかな鳥たちの写真がたくさん載っている。それでも結紀は黒一色で絵を描いた。
七歳の夏、結紀は母の元を離れて榊原の家で暮らすことになった。それまで育った家を出るときに持ってきたのはスケッチブックと色鉛筆。知らない人間ばかりの榊原家で、絵を描くときだけは孤独を忘れられた。
「へえ、お前絵がうまいんだな」
縁側に座って庭を描いていたとき、背後から不意に声をかけられた。歳の離れた異母兄の英臣だ。結紀は恥ずかしくなり、慌ててスケッチブックを閉じた。しかし、英臣はそれを取り上げてしまう。
「庭なんか描いて面白いのか、それにこれじゃ水墨画みたいだ」
目の前に広がる庭は手入れの行き届いた見事な日本庭園だった。立派な松の木や大きな岩、池には錦鯉が泳いでいる。結紀はこんな庭を見たことが無かった。
「綺麗なお庭だから」
結紀は英臣を見上げた。英臣は他のページもめくって結紀の絵を興味深く眺めている。結紀は顔が火照るのを感じた。
結紀の側に色鉛筆のケースが置いてあるのに気が付き、英臣はそれを拾い上げた。ケースを開けると、ほとんど使われていない。黒だけが短くなっている。
「黒だけでこれだけ上手いんだから、他の色を使えばもっとすごい絵が描けるんじゃないのか」
そう言って英臣は色鉛筆のケースを結紀に手渡した。
それから結紀は色鉛筆を使い始めた。12色しかないが、色を重ねると違う色が生まれる。それが楽しい。
池に泳ぐ錦鯉や、苔の庭と紅葉の木、父親の住んでいる立派な屋敷も描いてみた。空想の絵ではなく、目の前にあるものを観察して描くことが得意だった。
英臣の乗っている銀色のバイクを描くのは大変だった。日中はほとんど家にいない英臣が帰るのは深夜だ。バイクの音がしたら結紀はそっと起き出した。ガレージにこっそり忍び込んで、バイクをスケッチした。まだ熱い車体にもそっと触れてみた。
こんなバイクに乗ってみたいという憧れを抱くようになった。
何度目かの夜、バイクを眺めながら手を動かしていると、手元に影が差した。
「あっ」
結紀のスケッチブックが取り上げられた。真上を見上げると、そこには英臣の顔が逆さに見えた。勝手にガレージに忍び込んだことが後ろめたくて、結紀は俯く。
「へえ、カッコいいじゃないか」
英臣は素直に驚いていた。完成間近のバイクの絵を見て、嬉しそうな表情を浮かべている。怒られると思った結紀は少し安心した。
英臣は他のページをめくっていく。子供が描いたとは思えない、リアルで緻密な絵が並ぶ。繊細な色使いの風景画に感心している。
「お前、本当に上手いな。今度俺の顔でも描いてくれよ」
英臣は冗談めかして笑いながら、結紀の頭をくしゃくしゃと撫でた。
--------------
バーGOLD HEARTにて
ブルーのダウンライトに落ち着いたジャズの流れる店内。カウンターに一人座り、アプリコット・フィズを傾けていた結紀の横に榊英臣が腰を下ろす。
ブランデーを注文し、フィリップモリスに火を点ける。
「そういえば、まだ絵を描いているのか」
他愛の無い会話の中で、英臣が結紀に尋ねる。
「ううん、最近はあまり」
結紀はグラスを見つめて薄く微笑む。英臣はそうか、とだけ呟きタバコを揉み消した。じゃあ、またと店を出て行く。
嘘をついた。今でも絵を描いている。でもそれは絶対に英臣には見せられないモノクロームの夢だ。今夜もきっとスケッチブックを開くだろう。
―振り向いて
アプリコット・フィズのカクテル言葉を思い出し、結紀は苦笑した。
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