夏色スケッチブック
「店のロゴマークを作ってくれないか」
烏鵲堂一階書店を店じまいしてカフェスペースにやってきた高谷結紀に、曹瑛が声をかけた。高谷は大学の学部は情報工学系でプログラミングなどのシステムが得意だが、絵心もある。
一度、自分の似顔絵を描かれたときは、反射的に画像の表示されたスマホをバヨネットで貫こうとしたことがある。それほどに上手く描けていた。店のPOPなどちょっとしたディスプレイは高谷が手がけており、洗練された店内にもマッチしていた。
「え、俺でいいの」
高谷は驚いた顔を見せたが、店の大事なシンボルでもあるロゴマークを依頼されたことが嬉しいようだ。
「ああ、もちろんだ」
曹瑛は頷く。水出しの東方美人茶をグラスに入れてテーブルに置いた。高谷はカバンからスケッチブックを取り出し、早速鉛筆でさらさらとスケッチを始める。
ロゴマーク作成は伊織の提案だった。物販も充実してきたし、パッケージに店のロゴマークを入れてはどうかということだった。当初、曹瑛は面倒だと思ったが、すぐに高谷の顔が思い浮かび、依頼することにしたのだ。
「よう、もう上がれるか」
階段を上がってきたのは高谷の腹違いの兄、榊英臣だ。白シャツに黒いパンツスーツ姿というシンプルな装いだが、佇まいには隙がない。元極道の彼は、現在バーや画廊の経営やコンサルタントなどを手がける個人実業家として活躍している。今日は高谷と飲みにでも行く約束をしているのだろう。
榊は高谷の前に足を組んで座る。曹瑛が高谷と同じ東方美人茶をグラスで持って来た。閉店後の烏鵲堂は仲間たちの溜まり場になっているが、悪い気はしていなかった。
「お、サンキュ」
暑い中、外回りで乾いた喉を潤す。見れば、高谷がスケッチブックに何やら描き込んでいる。
「曹瑛さんに烏鵲堂のロゴマークを依頼されたんだ」
お茶を飲みつつ高谷は鉛筆を走らせている。曹瑛も自分の茶を持って榊の隣に座る。榊は曹瑛に視線を走らせる。
「なんだ」
視線に気が付いた曹瑛が睨み返す。榊は曹瑛に近づくよう小さく手招きをする。
「結紀にいくらか謝礼を渡すのか」
榊は曹瑛に耳打ちをする。
「ああ」
「いくらで考えている」
高谷は鉛筆を走らせながら、顔を上げてチラリと二人を見る。榊が曹瑛の耳元に顔を近づけて内緒話をしている。見てはいけないものを見た気がして、慌てて目線を下ろした。
「二十万だ」
曹瑛の言葉に、榊は思わず茶を吹いた。白いシャツの胸元に染みができる。曹瑛はあからさまに顔をしかめながら榊を白い目で見る。
「何をしている」
「いや、すまん。だが、結紀は学生だからな」
榊はポケットからハンカチを取り出し、シャツを拭いてみるが、白いシャツに茶の染みはどうしようもない。
「少ないか」
「いや、多すぎる」
榊は頭を抱えた。曹瑛の金銭感覚はどこかズレているところがある。
高谷は親と離縁している。小田原で一大勢力を誇る榊原組の組長、榊原昭臣が彼の実父だ。そのまま家業を継ぐのなら金には困らない生活ができたはずだ。しかし、高谷は自分の人生は自分で掴みたい、と榊原の家を出た。榊と同じように。
親の協力も一切無く、都内で下宿し大学に通うのは大変なことが身に染みて分かっている榊は、高谷の学費を援助していた。烏鵲堂のバイトや趣味でやっている株取引でそこそこの小遣い稼ぎはできているのを知っている。なにより曹瑛の言い値は学生には高額すぎる。
「お前と結紀との話だから、俺が口を挟むべきではなかったかもしれん」
年が離れているぶん、榊は高谷に関しては親のように世話を焼いてしまうところがある。曹瑛の決めた金額は見栄でも虚栄でもなく、彼の心意気だ。榊はバツが悪そうに頭をかいた。
「しかし、こいつはみっともないな」
榊は困り顔で茶で濡れたシャツを見つめる。曹瑛が席を立ち、三階の居住スペースに上がっていく。しばらくして、黒いシャツブラウスを手にして階段を降りてきた。
「これを貸してやる」
曹瑛がシャツを榊に差し出す。アイロンがよく効いたシャツだ。
「おう、悪いな」
榊は濡れたシャツを脱ぎ始める。曹瑛の黒いシャツに腕を通し、ボタンを留めようとするが、胸回りがきつくてボタンが留まらない。
「ボタンが留められない。俺は胸筋を鍛えているからな」
榊の何の気ない言葉に、曹瑛はムッとした表情になる。無言で榊のシャツのボタンを無理矢理留めようとする。
「おい、やめろ、シャツが破れるぞ」
榊が曹瑛を止めようとするが、曹瑛は意固地になってシャツを引っ張っている。身長はさほど差はないものの、曹瑛は筋肉質だが細身、榊は引き締まっているが胸回りはかなり逞しい。
「俺も胸筋はある」
曹瑛が静かな殺気を込めて榊を見つめる。
「俺の方が逞しいからお前のシャツのボタンは留まらないんだよ」
榊と曹瑛がシャツのボタンが留まる、留まらないで地味な攻防を始めた。
それを暗い瞳で見つめる者がいた。高谷だ。目の前で繰り広げられるしょうも無い争いは笑い飛ばせばいいところだが、密かに慕う兄と対等に張り合う曹瑛には以前から心無しか嫉妬の気持ちを抱いていた。
無論、曹瑛にはそんな気はないことは知っている。しかし、どう見ても過剰なスキンシップは高谷の気持ちを揺さぶるには十分だった。
ついこの間は、猿ヶ島での武器密輸犯の追跡でジェットスキーに2ケツしながら榊が曹瑛の胸元に手を突っ込んでいるのを目撃した。その後の流れて武器を取り出すためだったことは分かったのだが、目の前で見せつけられた感は否めない。
あのときの衝撃と、ドス暗い感情がふつふつと蘇ってきた。高谷は無意識に鉛筆を走らせる。
「無理だと言っているだろう」
「黙れ、榊」
曹瑛が無理矢理榊の胸元のボタンを留めた。瞬間、ボタンがはじけ飛び、満足げな曹瑛の額に当たってポトリと落ちた。二人して床に転がるボタンを見つめている。そして次の瞬間、同時に立ち上がった。
「貴様、ふざけているのか」
曹瑛が唇を歪めて榊を睨み付ける。
「俺は無理だと言ったのに、今のはお前が悪いだろう」
「お前が故意に胸を張らねばこんなことになっていない」
「俺は軽く息をしただけだ」
榊は勝ち誇ったように笑う。
「ならばその息の根、止めてくれる」
曹瑛が構えを取った。榊も拳を握りしめる。
「もう、やめなよ」
その様子を黙って見ていた高谷が立ち上がった。椅子の音に、二人は冷静さを取り戻す。高谷は頬を膨らませて、明らかに怒っている。
「結紀、もうラフスケッチができたのか」
榊が場を取りなそうと話題を変える。高谷はスケッチブックを榊と曹瑛の目線に持ち上げた。
「・・・・・・・・・・・・・・・」
瞬時に時が凍り付いた。榊と曹瑛はスケッチブックを見た衝撃を隠せず、これでもかというほど目と口を見開いている。そのままの顔で微動だにしない。高谷はスケッチブックをいそいそとしまい込んだ。
「二人とも、いいかげんにしなよ」
高谷はにっこり笑った。そこで呪縛が解けたように、曹瑛と榊は頭を抱えて身悶えている。
高谷のスケッチブックに書かれていたのは、サーフスーツの曹瑛と競泳パンツの榊が並んでいる絵だった。曹瑛は榊の肩に手を置き、胸元をはだけさせて誘っている。漫画調にデフォルメされたとぼけた雰囲気がなんとも珍妙だ。二人にとっては全く身に覚えのない破廉恥なやりとりに、破壊力抜群の精神ダメージを受けたのだった。
「お疲れさま、みんな揃ってる・・・んだ・・・」
仕事帰りの伊織がやってきた。場の微妙な雰囲気を感じ取って額から冷や汗を流し、そのまま階段を降りたくなっている。
「伊織さんも一緒に飯行こう」
愛想の良い笑みを浮かべた高谷が階段を降りていく。顔を逸らしたまま気まずい雰囲気の曹瑛と榊は互いの顔をチラリと見る。
「へえ、高谷くんがロゴを作るだんね。楽しみだよ」
「うん、烏鵲のイメージとか、茶器とか、モチーフを考えてるんだ」
高谷が伊織にアイデアスケッチを見せている。階下では楽しそうな会話で盛り上がっている。
「シャツはこのまま借りておく」
榊はわざとらしい咳払いをする。ボタンがはじけ飛んだため開襟シャツの状態だが、お茶の染みがついたシャツよりはまだいい。
「あ、ああ」
曹瑛も目線を逸らしながら答えた。
「早く行こう、曹瑛さん、榊さん」
高谷の呼び声に、二人は慌てて階段を駆け下りた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます