美神礼賛

 ニューヨーク12番街にあるアーティ・バー・アンド・グリルは今夜も大勢の客で賑わっている。ユニオンスクエアから徒歩5分、上品な店構えで客筋も良く有名人もお忍びで頻繁にやってくる。レストラン激戦区ながら30年間トップクラスを走り続ける老舗で、新鮮な牛肉に特製ソースをかけたステーキが人気の定番メニューだ。


「この店はなかなか予約が取れない。こんなに早く来られるとは驚きだよ」

 店内の一番奥、VIP専用席でライアンは懇意にしている気鋭の画家、ウォルター・グレイスと夕食を共にしていた。ウォルターはブラウンの巻き毛にまだやんちゃな雰囲気の残る大きな目、人懐こい笑顔がキュートな28歳だ。

「君に少しでも早く会いたくてね」

 ライアンは淡い琥珀色のシャンパンの入ったグラスを掲げる。

「君のおかげで画業に弾みがついてきたよ。アルバイトなしでもなんとかやっていけそうだ。本当に感謝している、ミスターハンター」


 ウォルターはニューヨークを拠点とする若手画家の一人だ。リアリズムの画風にこだわった緻密な人物描写が得意としている。無名の画家仲間の小さな展示会で発表した「ディオニュソスの豊穣」を見たライアンはその絵に一目惚れをし、彼のパトロンとなった。

 ライアンの人脈でニューヨークの一等地で開かれる展覧会に作品を出品して以後、彼の名声はじわじわと上がり続けている。

「ライアンと呼んでくれ。君は有能だ、私はただきっかけを与えただけだよ」

 ライアンは柔和な笑みを浮かべる。


 前菜が運ばれてきた。赤と黄色のパプリカ、トマト、タマネギ、キュウリを和えたタコのマリネサラダだ。この店のソースはすべて自家製で、絶妙な味わいがある。

「変わらない味だ、この店のサラダは毎日でも飽きないよ」

 ライアンはタコが苦手だったが、この店のマリネを食べて苦手意識が無くなった。丁寧な下ごしらえで臭みが無い。


 ライアンはメインのグリル料理にラム肉のオニオンソース、ウォルターは子牛のステーキを選んだ。料理を楽しみながら互いの近況を話し合う。デザートには手作りのチョコレートケーキにオーガニックハーブティー。ライアンはダイエット中だからと木いちごのゼリーにした。


「それで、ぼくを呼び出したわけを聞こうかな」

 ウォルターの問いに、ライアンは爽やかな香りのハーブティーを口に含む。

「君に絵を依頼したい」

「そうか、君のためなら喜んで描くよライアン」

 ウォルターは興奮気味に満面の笑みを浮かべている。企業のポスターやレストランの壁画などポップな仕事も入っているが、個人の依頼を受けて描ける機会は画家として腕の見せ所だった。


「どんな題材が希望なのかな」

「私は君の描いた美しい青年ディオニュソスに恋をした。そして君を支援したいと思ったんだよ」

 ライアンの謎かけに答えを見つけたウォルターは目を輝かせる。ライアンがゲイだということはカミングアウト済だった。

「つまり、君の愛する人を描いて欲しいということだね」

 ライアンは目を細めて静かに微笑む。タブレットを取り出し、恥じらいながら画像を表示した。


「おお、これは・・・なかなか精悍でセクシーだ」

 タブレットに映し出されたのは、切れ長の鋭い目をしたアジア系の男だ。眼鏡をかけているが、その剣呑な瞳の輝きは隠しようもない。

「そうだろう、今私は彼に夢中なんだよ」

 ライアンは恍惚とした表情で画面を見つめる。

「いいね、腕が鳴るよ。モチーフはどんな感じにしようか」


 ライアンは動画の再生を始めた。薄暗い倉庫の中で日本刀を持った男たちが対峙している。一人は中年の男、その相手をしているのは眼鏡の男だ。手には鋭く美しい光を放つ刀を持ち、その打ち震えるほどの気迫は画面を通して伝わってくるようだ。ウォルターも思わず見入っている。

「彼は剣道が得意なんだ。この美しいジャパニーズソードを取り入れて欲しい」

「難しい注文だが、ぜひやらせてくれ。ラフができたら一度君のオフィスに行くよ」

「楽しみにしているよ」

 ウォルターとライアンは熱い握手を交わして別れた。


―――――――――


 1週間後、グローバルフォース社にウォルターがやってきた。ライアンは彼をオフィスに案内する。

「ウォルター、君はとても仕事が早い」

 ライアンはまるで子供のように逸る気持ちを抑えきれない様子だ。ウォルターは大判のスケッチブックを広げた。そこには眼鏡の男の顔のスケッチ、そして日本刀を構えた姿が何点も描かれていた。

「素晴らしい、ラフスケッチを見ただけで感動したよ」

 喜ぶライアンの顔に、ウォルターも人懐こい笑みを返す。


「彼は本当に美しい。ストイックな強さの中にある美しさをどう表現しようか、ずいぶんと悩んだよ。それで、ぼくのイチ押しはこれだ」

 ウォルターがスケッチブックをめくっていく。最後の一枚に、真横からのアングルで日本刀を手にして、澄んだ瞳で真っ直ぐに前を見据える男の姿が描かれていた。絵を見た瞬間、ライアンは一瞬呼吸も忘れるほどの衝撃を受けた。


「まだラフだからね、これから衣装を決めようと思っている。彼は普段黒のスーツを着ているんだよね」

 ウォルターの言葉が耳に入ってこず、ライアンは我を忘れてスケッチを見つめている。

「いや、このままでいい」

「このままって、それは骨格のラインしか取っていないから裸じゃないか」

「それでいいんだよ」

 ライアンはうっとりと微笑んだ。それから軽井沢の温泉で記憶に焼き付けた榊の身体の特徴を事細かにウォルターに伝えた。


 一ヶ月ほど時間が欲しいということだった。丁度、自宅マンションの部屋を改装して和風の寝室を用意している。畳を置いたベッドの正面に完成した絵画を飾る予定だ。サイズに合わせた設置場所と、絵画を照らすライティングも専門家に依頼している。

「これで毎日君の姿を眺めて眠りにつくことができるよ、英臣」


―――――――――


「へっくしょん」

 気の抜けたくしゃみに、榊は鼻を啜る。烏鵲堂のカフェスペースで同席していた高谷が思わず吹き出した。

「何だよ、榊さんその気の抜けたくしゃみ」

「急に悪寒が走ったんだよ」

 榊は眉根を寄せて自分の肩をさする。

「夏風邪は長引くから注意してよね」


 曹瑛が東方美人茶を運んできた。流れるような手技で紫砂壺に湯を注ぐ。澄んだ深い黄金色の茶から優しく甘い香りが立ち上る。

「大方、アメリカでお前の噂話でもしている奴がいるんじゃないのか」

 曹瑛が意地悪な笑みを浮かべる。ライアンのことだ。

「人ごとだと思ってお前な」

 榊は渋い顔で曹瑛を睨む。

「一度のくしゃみは良い噂っていうから、大丈夫だよ榊さん」

 伊織がフォローを入れた。が、榊には全くフォローになっていなかった。

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