バイバイ、アップルパイ
コンコン、と玄関のドアがノックされる。返事を待たずにドアを開けて顔を出したのは高谷結紀だ。
「榊さん、いる」
「ああ、入れよ」
勝手知ったる兄の部屋だ。高谷は口許を綻ばせながら靴を脱ぐ。榊英臣はリビングのソファに座り、膝にノートパソコンを置いてキーボードを叩いている。眉根に皺を寄せているところを見ると、仕事中のようだ。
外回りのときは長い前髪を後ろに軽く流し、縁なし眼鏡に仕立ての良いオーダースーツを着こなした若手実業家の姿だが、今は前髪を下ろし、白のTシャツに黒いジャージ姿でとても同じ人物には思えない。
高谷は榊の邪魔をしないよう、リビングを通り過ぎてベランダに向かった。
「結紀、明美に昼飯をやってくれ」
「うん」
高谷がベランダに行くのは明美の顔を見るということを知っている榊は、キーボードを打ち込む手を止めず、ペットのえさやりを頼む。
高谷がベランダの窓を開けると、心地良い風が吹き込んでレースのカーテンを揺らした。仄かな海の香りに不思議と心が和むのは、高谷の第二の故郷が海沿いの街、小田原だったからだろう。
高谷は水槽を覆う蓋をずらしてみる。榊が小学生のときに雨の土手で拾って以来飼い続けているペットの亀、明美が甲羅からひょいと顔を出した。つぶらな瞳に高谷は思わず笑みをこぼす。榊にとって家族も同然の明美は高谷にとってもそうだった。
「明美さん、ごはんだよ」
なんとなく、高谷は明美に“さん”をつけて呼ぶ。一人っ子だった榊は妹が欲しくて、拾った亀に明美と名付けた。高谷は明美よりも後から榊と出会ったので、呼び捨てにするには気が引けるのだった。
高谷は冷蔵庫から出してきた新鮮な葉野菜を小さくちぎって明美に差し出す。明美は首を伸ばしてもしゃもしゃと食べ始める。その姿にほっと癒やされる。小動物がエサを食べる姿はどうしてこう愛しいのだろう。
明美はひとしきり食べ終わると、のそのそと日向に出てきて甲羅干しを始めた。高谷はベランダの柵に頬杖をついて景色を眺める。運河と、高層ビルの隙間から海を見渡すことができた。
榊もきっとこの風景が好きなのだろう。もっと駅に近くて便利なマンションはあるはずだが、駅から少し距離のあるこの場所に住まう気持ちは分かる気がした。
明美の水槽に蓋をして、ベランダからリビングに戻る。相変わらず真剣な眼差しでパソコンと向き合う榊の横に少し間を開けて座った。ふと、テーブルの上にゴールド地の派手なアルバムが置いてあることに気がついた。
「それな、ライアンが俺のところにも送ってきたんだ。お前にも一冊ある。持って帰れよ」
榊はパソコン画面から目を離さず、黒縁眼鏡をくいと持ち上げる。
「そうなんだ」
高谷はアルバムを手に取った。重厚感のある表紙を捲れば、立派な台紙に写真がレイアウトしてある。先日、ライアンが来日したときに丸の内周辺で夜景をバックに記念撮影をしたときの写真だ。プロカメラマンまで連れてくるそのこだわりに、びっくりするやらあきれるやらだったが、上手く乗せられてしまった。
レトロモダンな石造りの洋風建築の前を歩く榊とライアンを自然に捉えた写真だ。榊の表情はリラックスして穏やかだ。長身のライアンと並ぶ姿はビジネスパートナーとしてよく映えている。レトロな街灯の光が二人を照らし、まるで雑誌広告のような洒落た構図だ。
「でも、白いスーツはないよなあ」
高谷は呆れながらぼやく。ライアンの狙いは榊とのツーショットを撮影すること。丸の内周辺はブライダルフォトのメッカで、それを知ってのことなのだろう。
和田倉噴水公園では、シャッタースピードで水しぶきを情感的に表現し、榊とライアンが向き合う構図を捉えていた。それを見た榊は泡を吹いていたが、高谷はライアンが羨ましいと思った。ライアンはゲイを公言しており、榊に惚れている。高谷にとっては恋のライバルだ。高谷もライアンも榊に叶わぬ想いを抱いているが、アプローチがまるで違う。
本人に嫌がられては本末転倒だが、思い切り楽しんでいる。
レンガ造りの建物の前に佇む榊とのツーショットに、高谷は手を止めた。これはカメラマンのリッチーがこっちを向いて、と意図的に撮影した写真だ。思えば、榊と一緒に撮影した写真は少ない気がする。榊は自分の写真を残すことに興味が無く、高谷も同じだった。観光地に行っても、その場所の風景ばかりを残してきた。こうして一緒に並んだ写真は貴重だ。
ライアンは二人の写真も撮影するようリッチーに予め依頼をしていたのだろう。良い写真だ、と高谷は思う。しかし、誰が見ても兄と弟の家族写真だ。嬉しさと切なさがないまぜになった複雑な思いが胸を過ぎる。
次のページは曹瑛と伊織のツーショットだ。曹瑛は黒のオーダースーツに身を包んだ隙の無い格好で、伊織はカジュアル、この二人が友人だと言われるとにわかには信じられない。苦笑いのまま固まった伊織の顔を見ると、きっと写真が苦手に違いない。高谷はクスッと笑う。
黒系のスーツで睨み合う榊と曹瑛のツーショットはまるでモデルのようだ。本気でいけ好かないと思っているのだろう、写真からもピリピリした殺気が漲ってくるのを感じる。しかし、この二人が並ぶと見事に絵になる。高谷は兄と並ぶ曹瑛に小さな嫉妬心を覚える。
榊はそんな想いを知らぬまま、パソコン画面に集中している。
ピンポン、とチャイムが鳴った。榊は顔を上げてノートパソコンをテーブルに置き、玄関ポーチへ向かう。ドアを開けるとでこぼこコンビの曹瑛と伊織が立っていた。
「榊さんこんにちは、仕事中にすみません」
「ああ、いいよ。そろそろ休憩しようと思ってたんだ。入れよ」
申し訳なさそうにする伊織の横で、曹瑛は無表情のまま榊を見つめている。
「ちゃんと残してある」
「本当だな」
曹瑛が睨みを効かせる。榊も負けじと鋭い眼光で曹瑛を睨み付けるが、踵を返してキッチンに向かった。
***
ダイニングテーブルの上には切り分けたアップルパイと芳醇な香りを漂わせる紅茶が並ぶ。アップルパイはヒルトンベイ品川の2階カフェで販売している名物スイーツだ。先日、その評判を聞いて買いに行ったとき、ホールしか残っておらずやむなくそれを買って榊のマンションに押しかけたのだった。今日はその残りを食べにやってきたらしい。
「これ肉厚で美味しいね」
シナモンが利いたアップルパイはりんごがぎっしり詰め込まれ、サクサクのパイ生地は甘みが抑えてあり、りんご本来の味を楽しめる上品なつくりだ。高谷は今日初めて口にしたが、これは他の店のものとひと味違うことが分かる。
紅茶は曹瑛が手早く淹れた。温度や蒸らし時間など、茶葉の旨味を存分に生かしてある。中国茶と要領は変わらない、と曹瑛は言う。
澄ました顔でアップルパイを頬張る曹瑛を高谷はチラリと見やった。曹瑛はその視線に気付いて高谷をじっと見つめる。
「勝負するか」
曹瑛の思わぬ言葉に、高谷は目を丸くする。曹瑛の視線の先には皿の上に一切れ残るアップルパイがあった。
「いいよ、曹瑛さんに譲る」
アップルパイはね、と高谷は心の中で呟いた。
烏鵲堂日和―事件簿こぼれ話・短編集 神崎あきら @akatuki_kz
★で称える
この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。
フォローしてこの作品の続きを読もう
ユーザー登録すれば作品や作者をフォローして、更新や新作情報を受け取れます。烏鵲堂日和―事件簿こぼれ話・短編集の最新話を見逃さないよう今すぐカクヨムにユーザー登録しましょう。
新規ユーザー登録(無料)簡単に登録できます
この小説のタグ
同じコレクションの次の小説
関連小説
カクヨムを使い始めて思うこと ――六年目の手習い――/烏川 ハル
★221 エッセイ・ノンフィクション 連載中 317話
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます