灼熱の攻防戦
「瑛さん、おつかれ」
営業を終えた烏鵲堂カフェスペースに榊と伊織がやってきた。閉店後の烏鵲堂は仲間たちの気軽な寄り合いの場だ。
曹瑛はグラスに淹れた黄山毛峰に湯を注ぎ、テーブルに置いた。爽やかな緑茶の香りが店内に漂う。榊はスーツ姿で仕事帰りのようだが、普段見ないリュックを持っているのに曹瑛が目を留める。
「ああこれか。今日はこの後スーパー銭湯に行くんだよ」
リュックの中には着替えやタオルが入っているという。曹瑛は聞き慣れない言葉に眉を顰める。
「スーパー銭湯は大衆浴場だよ。今日行くのは天然温泉なんだって」
伊織もいつもの肩掛けカバンとは別に手提げバックを持っている。
日頃忙しい兄を労いたいと、高谷が先月都内にオープンしたばかりのスーパー銭湯へ行こうと提案したらしい。書店の片付けを済ませた高谷もカフェスペースに上がってきた。
「お待たせ」
高谷も着替えを詰めたバッグを手に準備万端のようだ。曹瑛は無言で佇んでいる。
「あれ」「ああ」「あっ」
伊織と榊、高谷が顔を見合わせた。曹瑛にはこの話が初耳だったようだ。
「えっと、瑛さんも行く?」
伊織が曹瑛を見上げる。曹瑛は何も言わず踵を返し、3階への階段を上がっていった。
曹瑛は3階の居住スペースに上がったそのまま降りてこない。スーパー銭湯には興味が無かったのだろうか。はたまた、声がかかっていなかったことにふて腐れたのか。そろそろどうするのか声をかけようかという頃合いで、階段を降りてくる足音が聞こえてきた。
登場した曹瑛は長袍から黒いカーディガンに白のカットソー、黒の綿パン姿に着替えて肩かけバッグを下げていた。
「タオルはあるのか」
曹瑛は意外と乗り気だった。
榊のBMWで“えどの湯”に向かう。ここは源泉かけ流し、日本庭園を設えた広い露天風呂が人気のスーパー銭湯だ。館内ではマッサージやアロマテラピー、岩盤浴とリラクゼーション設備も充実している。休憩コーナーや食事処もあり、一日滞在して楽しめる施設だ。
平日の夜だが、館内はかなり賑わっている。夜からの利用はお得なナイトパックもあり、仕事帰りのサラリーマンに人気だ。
バスタオルと館内着を借りて、早速大浴場へ向かった。内湯はジェットバスや寝湯、座り湯など趣向を凝らした浴槽が並ぶ。体を流して内湯で温まってから、露天風呂へ向かった。
「都内にもいい温泉ができたな」
広い岩風呂につかりながら榊は至福の笑みを浮かべている。目の前に広がる日本庭園を眺めながら熱い湯に肩までつかれば、ここが都会の真ん中だということを忘れさせてくれる。幸せそうな榊の顔を眺めて、高谷も嬉しそうだ。
「にごり湯だから風情があるね」
伊織が湯を掬い上げる。都内でにごり湯の天然温泉は珍しい。ぽかぽかと体の芯から温まる。
曹瑛は長身を折り曲げてつぼ湯につかっていた。誰にも邪魔されずのんびり入れる陶器の一人用風呂が気に入ったようだ。
温泉を心置きなく堪能したところで、榊は厚い木のドアを開けて狭い部屋へ入ろうとしている。
「それはなんだ」
曹瑛が興味を示す。
「サウナだ。体を温めて汗を流せばスッキリする」
榊は温泉に行くと必ず30分はサウナに入るという。
「俺も久々に入ろうかな」
伊織も榊についてサウナへ入る。曹瑛も後に続いた。
間接灯が照らす落ち着いた雰囲気のサウナルームは、新しい檜の匂いがした。5人ほどの男たちが椅子に座って汗を流している。バスタオルを腰に巻いた榊が木の椅子に腰掛けた。曹瑛と伊織、高谷も横に並ぶ。
「サウナは体を温める温熱効果がある。血管を広げるから血流が良くなる」
榊は座ったまま軽くストレッチをしている。引き締まった筋肉が滑らかに動く様に高谷は思わず見とれてしまう。
細身の曹瑛はそれを見て面白くなさそうな表情を浮かべている。
「サウナはリラックス効果もあるよね、俺も実家の近くの温泉に行くときはよく汗を流しに入ったよ」
伊織も実はサウナ愛好者らしい。
入って5分程度だが、細身の高谷は額から汗をダラダラ流し、すでに息が上がっている。
「ああ、俺はもうダメ」
一番に高谷が音を上げた。手の平でパタパタと火照った顔を仰ぎながら、ドアを開けて出て行く。曹瑛も無言で立ち上がった。ドアに向けて足を踏み出したそのとき。
「もう退散するのか」
榊の声に曹瑛は動きを止める。その声音には挑発の響きがあった。
「冬はマイナス30度、極寒のハルビン育ちのお前にはサウナはキツかったな。ぬるいシャワーでも浴びて体を冷やせよ」
堂々と足を組んだ榊は唇の端を歪めて笑っている。曹瑛は目を見開く。
曹瑛は再び無言で椅子に腰を下ろし、榊の顔をチラリと横目で睨む。
「俺は温泉が好きなだけでなく、日頃からサウナにも慣れ親しんでいる。初心者はまずは5分程度にしておけ、無理をしないほうがいいぞ」
榊は褐色の肌に玉の汗を浮かべながらも、余裕の笑みを向ける。
「そうだよ、瑛さん日本の夏の暑さにもへばってるんだから無理はしない方がいい」
伊織の悪気無い気遣いに、曹瑛は唇をへの字に曲げる。暗い闘争心に火が点いた瞬間だった。
最初から部屋にいた男たちはもう出ていき、入れ替わりで別の男たちが入ってくる。しかし10分もすれば、彼らもサウナルームを出て行く。時計を見れば、20分は経過しただろうか。
「おい、無理をするなと言っているだろう。一度出た方がいいぞ」
榊は額から流れ落ちる汗を前髪をかき上げて拭う。隣に座る曹瑛の白い肌は熱気に火照り、赤味が差している。普段の涼やかな表情は崩れ、切れ長の目は据わり、やや息が荒い。曹瑛も流れる汗を拭い、榊をやぶにらみする。
「俺は全然平気だ。貴様の方こそ無理をするな、先に出ていいぞ」
そうは言うものの、曹瑛の目には普段の眼光が無い。呼吸を整えながら虚ろな目で時計をチラリと見やる。
「やせ我慢をするな、最初から長時間入るのは体に良くないぞ。俺は普段から体を鍛えているから問題ないがな」
榊も呼吸が荒いのをひた隠しにしている。
「ここの温度は快適だ、俺はまだ汗を流したい」
曹瑛はそう言いながら余裕を見せて足を組む。一瞬ふらりと意識が飛びそうになるのを気合いで耐えた。
「ほう、言うじゃないか、どこまでその我慢がもつかな」
汗が滝のように流れ、目に染みるのを我慢して榊はニヤリと笑う。
「あんちゃんたち、ずいぶん長く入ってるようだが大丈夫かね。一度出た方がいいよ」
呼吸が荒い榊と曹瑛を心配したおじさんが声をかける。
「男の勝負に口を出すな」
榊と曹瑛が鋭い眼光で睨みを効かせる。おじさんは肩を竦めてサウナルームを出て行った。なんだかんだと2人に付き合っている伊織は呆れている。
榊はおもむろに腕を曲げ伸ばしして、これ見よがしにストレッチを始める。汗が一気に噴き出し、目眩を覚えた。気絶しないよう床を足で踏みしめる。
「ようやく体が温まってきた」
温まってきたというより、燃えるように熱い。実のところは今にもここを飛び出して水風呂にダイブしたい気分だ。
「お前、目が泳いでいるぞ」
曹瑛は榊を鼻で笑う。しかし余裕の笑みは一瞬で消えて、唇からため息のような吐息を漏らしている。
「なんだか空気が乾いてるな」
隣で大人しくしていた伊織が立ち上がる。部屋の端にあるサウナストーンの前に立ち、柄杓で水を掛けた。熱い石にかかった水は一気に蒸気となり、サウナルームを煙に包んだ。もうもうと立ち上がる蒸気は部屋の温度を一気に上げる。白い蒸気に意識が朦朧とする曹瑛はめくるめく幻覚を見た。
「肉まん・・・食べた・・・い」
白く立ち上る蒸気に、曹瑛は故郷ハルビンの路地で売られていた蒸籠に入った羊肉の肉まんを思い出した。ドサッ、と音がした。榊が横を見れば、そこに座っていた細身のシルエットが見当たらない。
「そ、曹瑛」
榊が思わず叫ぶ。曹瑛がとうとう気絶して、椅子の上に倒れたのだ。
「わー、瑛さん大丈夫?」
伊織もひしゃくを投げ捨て、慌てて駆け寄る。榊はすぐに曹瑛の体を肩に担ぎ上げ、サウナルームを出た。ぬるいジェットバスにつかってのんびりしていた高谷は、その光景を見て慌てて飛び出した。
「曹瑛さん、どうしたの」
「サウナにやられて気絶した」
榊がバツが悪そうに頭をかく。涼しい外気に触れ、榊は気を持ち直した様子だ。大人げない勝負を挑んだのは自分だが、トドメを刺したのは伊織だった。
伊織を見れば、なんだかんだと同じ時間入っていたというのに、全然息が上がっていない。さすがの榊もこれには驚いた。哀れな曹瑛はリクライニングチェアの上で意識を失ったままだ。熱に浮かされて白い肌を桃色に染めている。伊織がコップに冷水を持って来た。高谷と榊でタオルに水を浸して曹瑛の体を冷やしてやる。
「くっ」
水を口にした曹瑛が弾かれたように起き上がった。まだ目眩がするようで、頭を押さえている。曹瑛の意識が戻り、皆深い安堵のため息を漏らした。
「どっちだ」
曹瑛は伊織をじっと見据える。
「えっ」
意味が分からず伊織は首を傾げる。
「どっちが勝った」
曹瑛は真顔だ。榊との勝負の行方がどうなったのかを訊ねているのだ。
「・・・同時だよ、榊さんと瑛さんは一緒にサウナを出たから」
伊織は呆れてため息をつく。こんな状態になってまで勝負にこだわるとは。
「まったくもう、大人げないにも程があるよ」
高谷は呆れて榊を睨む。今回ばかりは兄が悪い。サウナで我慢比べなんて、悪ノリにも程がある。
「その、悪かった」
さすがに申し訳無いと思った榊が、曹瑛に素直に頭を下げる。曹瑛も意地を張って気絶して助けられた手前、大口を叩けずに無言で俯いている。
「でも、優勝は伊織さんだよね。最後にサウナを出たのは伊織さんだったよ」
高谷の言葉に榊と曹瑛は顔を上げ、伊織をまじまじと見つめる。確かに、伊織はあの熱気の中、まったくへこたれていなかった。妙な対抗意識を燃やされて、伊織は苦笑いをするしかなかった。
「俺のおごりだ、何でも食べてくれ」
温泉を出てやってきた食事処で榊がメニューを広げる。メニューにはうどん、そばや丼、天ぷらの和会席が並んでいる。基礎体力のある曹瑛は何事も無かったかのように回復した。一番豪華な和会席を選び、食後には抹茶のかき氷を注文していた。
「ここに肉まんは無いけどな」
頬杖をついた榊が曹瑛を見ながらニヤニヤ笑っている。
「肉まんだと、何を言っている」
曹瑛は意味が分からず眉を顰める。気絶する直前の記憶は飛んでいるようだった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます