かくれんぼ
よく晴れた土曜日の午後だった。少年英臣は亀の水槽を洗っていた。小さなイシガメは広い地面に降りたって嬉しそうに動き回っている。
その亀は大雨の日に土手沿いの道路に上がってきたところを英臣に拾われた。放っておけば、車の下敷きになるのは時間の問題だった。昨年のことだ。英臣は亀に明美と名付けた。お小遣いで小さな水槽を買い、小学校の図書館にあった亀の飼育の本を読み、大切に育て始めた。
水槽の手入れは週に一度、明美の日光浴も兼ねているので英臣は面倒がることなく、楽しい習慣として続けていた。ホースから散る水しぶきが小さな虹を作る。ひとしきり水を浴びた明美は日当たりの良い石の上によじ登り、手足を引っ込めて甲羅干しを始めた。
水槽が綺麗になり、明美の甲羅を磨いてやることにする。しかし、甲羅磨きのために用意した使い古しの歯ブラシが見当たらない。明美は首を引っ込めて気持ちよさそうに日光浴をしている。英臣は屋敷の洗面所に向かい、歯ブラシを取ってきた。
「明美・・・どこいった」
戻って来れば、石の上にいたはずの明美の姿がない。英臣は全身の血の気が引いていくのを感じた。あの小さな身体でそう遠くには行かないだろう。しかし、屋敷の庭は広すぎる。英臣は歯ブラシを投げ捨て、慌てて周囲を探し始める。
庭には大きな松の木や楓、池もある。落ち葉の下、水の中、隠れる場所には事欠かない。飛び石の周辺に敷き詰められた玉砂利に紛れたら見つけるのは困難だ。明美の体長は五センチほど、誤って踏み潰されかねない。
どこを探しても見当たらず、英臣は焦りを感じていた。ヤクザの組長の家に生まれ、世間では腫れ物に触るような扱いをされて友達がいない英臣にとって、明美は友であり心の拠り所だった。
この庭には野良猫が入り込む。小さな明美は格好のエサだ。それに、せめて庭で大人しくしてくれたらいいが、屋敷の外に出ようものなら車に潰されてしまうかもしれない。
「俺のせいだ」
英臣は自分の注意不足で明美を逃がしてしまったことが腹立たしく、唇を噛みしめながら目尻に涙を溜めた。
「若、どうかしましたか」
拳を振るわせて立ち尽くす英臣の傍に、若頭補佐の大塚が駆け寄る。
「来るな」
英臣は我に返り、大塚を制した。大塚の靴が明美を踏み潰すかもしれないからだ。英臣の鋭い声音に大塚は思わず立ち止まる。
「若、大丈夫ですか」
英臣の只ならぬ様子に、大塚は心配そうな顔を向けた。
大塚は28歳にして若頭補佐役を命じられた武闘派の男だ。右眉の端に刻まれた短い傷跡は、敵対する組の鉄砲玉に若頭が襲われたとき、身を挺して庇ったときに受けた。その男気を認めた英臣の父が異例の昇格人事を通したのだ。大塚は英臣をよく気遣ってくれていた。
「これは俺の問題だ。俺がヘマをしたから、自分で落とし前をつける」
英臣は目を伏せて、小さな唇を震わせている。大塚は英臣の足元にある空の水槽に気が付いた。そこには亀の姿はない。事情を察した大塚は、足元に注意を払いながら英臣に近付いた。
「若、俺も一緒に探しますよ。こういうとき人手は多い方が良い」
「大塚・・・」
英臣は顔を上げた。大塚は英臣の背中をバシンと叩いた。
「ここで意地を張るのは、ただの馬鹿野郎だ」
大塚はニヤリと笑う。英臣は躊躇いがちに頷いた。英臣は大塚と共に明美を探し始めた。
黒服に身を包んだ長身の大塚が地面に這いつくばる姿を見た若衆が、何事かと集まってきた。
「お前ら足元気をつけろ、明美がいるかもしれねえ」
若衆たちは顔を見合わせる。英臣のペットの亀が逃げたと知り、若衆たちも捜索を始めた。石の裏、縁側の下、池もさらってみた。しかし、明美の姿はない。
「明美」「明美さん、どこだ」
いかつい男たちが明美の名を野太い声で呼ぶが、返事はない。英臣も落ち葉を丁寧にかき分けていく。明美を見つけた、と思って拾い上げればただの平たい石でガックリと肩を落とす。
日が傾き始め、庭に影が落ちてくる。大人の男五人と英臣がこれほど必死に探しても明美は見つからない。失踪からかなりの時間が経過している。もう遠くにいってしまったのかもしれない。
「もういいよ、大塚」
英臣は力無く大塚のスーツの袖を引き、ゆるゆると頭を振る。大塚はひどく意気消沈した様子の英臣の姿に心を痛めた。大塚はしゃがみ込んで、英臣に目線を合わせた。
「若、諦めちゃダメです。きっと見つかりますよ」
大塚の力強い言葉と真剣な眼差しに、英臣は思わず息を呑む。一瞬でも諦めようとした自分を恥じた。そしてきっと見つかる、そう信じられる気がした。
「お前らはいい、ご苦労だった」
大塚は若衆たちを解散させた。彼らにも家庭がある。若衆たちは英臣を労いながら帰っていく。
「俺、懐中電灯を持ってくる」
「頼みます」
英臣は玄関で靴を脱ぎ、リビングへ走った。戸棚の引き出しを漁る。懐中電灯を見つけてスイッチを入れた。電池切れだ。焦る英臣を見て、夕食の準備をしていたお手伝いの春代さんが新しい電池を出してくれた。
懐中電灯の明かりに、希望が見えた気がした。英臣は逸る心で玄関へ向かう。そして、靴を履こうとしたそのとき。
足元で何か黒いものがのそっと動いた気がした。
「・・・明美」
英臣は目を見開く。そこには首をすくめる明美の姿があった。英臣は震える指先で明美を持ち上げ、手の平に乗せた。
「お前、こんなところにいたのか」
英臣は嬉しくて、明美を小さな両手で大事に包み込んで目を閉じた。目尻に滲んだ涙を拭いて鼻をすすり上げ、大塚の元へ走った。
「大塚、明美がいた」
目を輝かせた少年英臣の姿に、大塚の頬も思わず綻ぶ。
「若、良かったですね」
「すまない、面倒をかけた」
「いいんですよ」
大塚は笑って去って行った。英臣は水槽の環境を整えて、そっと明美を戻した。明美は水槽の中でのんびりと歩き回っている。
「まったく、人騒がせな奴だ」
そろそろ冬眠の季節が近い。英臣はその日、夜遅くまで水槽の傍で明美の様子を眺めていた。
―現在 バーGOLD HEARTにて
榊英臣と大塚はカウンターで肩を並べていた。大塚の頭には白いものが混じっている。それは紛れもない男の貫禄を示していた。あれから武勇を重ね、今は榊原組を束ねる若頭を務めている。
「そんなこともあったな」
榊はフィリップモリスの灰を落とし、ブランデーを傾ける。この間も明美がマンションのベランダからいなくなり、一悶着あった。逃走癖があるのは昔からだった、と榊は肩を揺らして笑う。
「今でも屋敷の庭に落ち葉が舞うようになると、あのときのことを思い出しますよ」
大塚は榊の横顔を懐かしそうに見やる。射貫くような鋭い目つき、落ち着いた物腰から感じられる度量の大きさ。榊が組を継いでくれたなら、と大塚は密かに思っているが決してそれを口にはしない。
「若、いえ英臣さんと飲めて良かった。明美さんによろしく」
では、と大塚は席を立つ。
「ああ、お前個人とならいつでも付き合うぜ」
大塚は榊に気持ちを見透かされたような気がして、自嘲する。榊は大塚の背中を見送り、新しいフィリップモリスに火をつけた。
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