忘れていた風景

 神田のクライアントのオフィス新設の打ち合わせを終えて時計を見れば、まだ6時過ぎだ。烏鵲堂まで徒歩で15分程度、榊は思い立って烏鵲堂へ向かうことにした。

 街灯が点り始めたすずらん通りを歩く。大きな老舗書店が閉店セールをやっている。脇道に逸れて、裏通りから勝手知ったる烏鵲堂の通用口へ。

 表通りに面した書店のシャッターが降りていても、曹瑛が店にいる間はこの通用口は開いていた。気の知れた仲間たちは閉店後の烏鵲堂にたむろしにやってくる。


 通用口のドアを開けると、手狭な倉庫がある。天井からぶら下がる裸電球が揺れている。誰か来たときに在庫の茶葉を蹴り飛ばさないよう、曹瑛はいつも明かりをつけている。奥に見える書店も明かりを落としているようだ。

 榊はふと足を留めた。曹瑛の愛車、黒いカワサキNinja H2 CARBONだ。スーパーチャージャーを搭載したハイパワースポーツバイクで、榊も何度かハンドルを握る機会があった。その強烈な加速感に、鳥肌がビリビリ立つほど興奮したのを覚えている。


 榊は高校時代、アメリカンタイプのホンダシャドウに乗っていた。親に頼ることなく、アルバイトで貯めた金で買ったバイクだ。都内の大学に進学し、バイクも持ってきたものの、公共機関が発達している都心部では乗る機会が格段に減ってしまった。生活費と学費を自力で稼いでいたので、学業とアルバイトでバイクに乗る時間はさらに失われた。

 バイクを処分しようと考えたとき、異母弟の結紀がそれを惜しんだため、手放さずにおいた。今は大学生になった結紀がメンテナンスをしながら乗っている。


 バイクは好きだ。風を切り、空気の流れを感じてマシンと一体になる感覚。どこまでも行ける気がする。今は愛車のBMWがあり、メンテナンスのこともありバイク道楽をする余裕はない。だが、時々無性に乗りたくなる。

 榊は裸電球に照らされた曹瑛のNinjaを憧憬の想いで眺める。高級感のあるマットブラックの車体が鈍い光りを放つ。ふと、視線を感じて顔を上げると、曹瑛が立っていた。


「店はもう仕舞いだ」

 今日は高谷がテスト前でバイトに入っていないという。書店も早めに閉めて曹瑛も帰ろうというところだった。

「そうか、タイミングが悪かったな」

 榊はNinjaに見入っていたことが気恥ずかしくなり、顔を背ける。曹瑛は手にしたキーを放り投げた。榊は反射的にキャッチする。

「お前が運転しろ」


 榊は品川、曹瑛は新宿に住んでいる。品川をまわって帰ればいいということだ。榊は頷きながら口角を上げた。Ninjaを裏通りに出して、曹瑛は烏鵲堂の通用口の鍵を閉める。ヘルメットをかぶり、榊はシートに跨がる。曹瑛がタンデムシートに跨がったのを確認し、エンジンをかけてスロットルを回す。腹に響く重厚な振動、力強い排気音に榊はライダーの感覚を呼び覚まされる。

「ガソリンは入れたばかりだ、寄り道しても構わない」


「横浜ベイエリアにハワイ料理の店がある」

 ハワイ料理、と言われて曹瑛はいまひとつピンと来ていない。

「壮絶なボリュームのクリームが載ったパンケーキが有名らしい」

「悪くない」

 曹瑛は頷いた。都道403号線から首都高速環状線に乗る。Ninjaのグリップを捻りアクセルを全開にする。一気に風を追い越し、獰猛に突き進む感覚に鳥肌が立つ。まるで真っ直ぐに飛ぶ一本の矢になったような気分だ。

 コーナリングも軽く体重をかけるだけで重量級の車体は呼応するようにバンクして、軽快なハンドリングの操作感を味わえる。


 遠くに滲む街のネオンを横目に、冷たい海風を浴びながら湾岸線を流す。レインボーブリッジを渡り、横浜赤レンガ倉庫に到着した。40分ほどのツーリングはあっという間に感じられる。目当ての店は海の見えるフードコートの2階にあった。木の看板に“アロハキッチン”と書いてある。店内はガラス張りで、横浜の夜景が一望できた。

 テーブルについて、曹瑛は物珍しそうにメニューを眺めている。

 スモークサーモンとアボガドのサラダ、シュリンプやまぐろの乗った海鮮プレート、厚切り牛ハラミのグリル、榊はノンアルコールのビール、曹瑛はクリームが山盛りにトッピングされたパンケーキとパッションフルーツのドリンクを注文した。


「Ninjaは良いマシンだな」

 肉をつつきながら榊はしみじみ呟く。

「当たり前だ、俺が選んだ」

 曹瑛は榊をチラリと見やり、シュリンプを口に運ぶ。ガーリックとオリーブオイルとレモンとハーブ、独特の風味がやみつきになる。中国でもニンニクと油、パクチーをよく使うが、似た素材でも雰囲気が全く違うのは面白い。


「久々にグリップを握ったが、まともに運転したのは初めてかもしれないな」

 思えば、悪党を追って2ケツすることがあったが、曹瑛と手錠で繋がれたままアクロバット運転をしたり、急ブレーキであられもない格好で止まったり、ライダースーツを破られたり、スーツは曹瑛のものだったが、正直ろくな思い出が無い。榊は記憶が蘇り、頭を抱える。しかし今回、初めてマシンの性能を楽しみながら運転ができた。

「感謝している」

 榊が気恥ずかしそうに礼を言う。曹瑛はテーブルに置かれた高さ15センチのクリームがデコレーションされたパンケーキに、嬉しそうにナイフを入れていた。


 店を出て、駐輪場へ向かうと、赤、青、黄色の派手なスカジャンを着た男三人がNinjaの周囲に群がっている。

「何をしている」

 榊の怒りを秘めた低い声に、男たちが振り向いた。その顔に一瞬焦りが浮かんだが、すぐに薄ら笑いになる。


「良いバイクだからよ、ちょっと見せてもらってただけだ」

 金髪、赤のスカジャンの男がニヤニヤ笑っている。見ていただけ、という割にはしゃがみ込んでバイクロックをいじっていた。Ninjaを盗もうとしていたのは明白だ。

「なあ、ちょっと乗せてくれないか」

 開き直ったのか、青のスカジャンがふてぶてしい態度で立ち塞がる。榊はすうと目を細めて青色を鋭い眼光で睨み付ける。

「カワサキのショップに行け。試乗くらいさせてもらえる」

 榊の迫力に恐れをなしたのか、青色は地面に唾を吐いて後ろを向いた。ごそごそとジャンパーから何か取り出したかと思うと、こちらに向き直る。


 その手にはジャックナイフが握られていた。背後の赤色と黄色がニヤニヤしている。

「ちょっと借りるだけだ」

 もちろん、返す気はない。このモデルなら売り飛ばせば200万は固い。曹瑛は無表情でそのやりとりを見つめている。青色が榊にナイフを突きつける。榊は怯える様子もなく、冷ややかに白く光る刃を見下ろしている。

 榊が動じないことに焦りを感じた青色がナイフを突く素振りを見せる。

「へへ、怖くて動けないのか」

「やってみろ、お前にその覚悟があるのならな」

 榊はポケットに手をつっこんだまま防御の姿勢も取らず、仁王立ちしている。


「舐めやがって、痛い目見せてやる」

 頭に血が昇った青色が榊にナイフを向け、斬りかかる。榊は傍にあったヘルメットでナイフを弾き飛ばした。そのままヘルメットを青色の頭上に振り下ろす。

「ひえっ」

 青色は情けない声を上げて、白目を剥いてその場に転がった。どさっ、と鈍い音がして振り返ると曹瑛が黄色と赤色を絞め落としていた。しゃがみ込んで背中からバヨネットを取り出す。


「おい、やめておけ」

 榊が止めようとするが、曹瑛は無言で二人の眉毛を片方だけ綺麗に剃り落とした。榊の足元に倒れた青色も忘れずに剃っておく。

「食後の運動にもならなかったな」

「ああ」

 曹瑛はつまらなそうにバヨネットについていた悪党の眉毛をふう、と吹き飛ばした。


 帰りの首都高速は空いており、スムーズに品川のマンションに到着した。榊は曹瑛に運転席を空け渡す。

「いいバイクだ」

 榊は重低音の唸りを上げて熱を放つ黒い車体を撫でる。

「またあの店に連れて行け」

 曹瑛はクリームたっぷりのパンケーキを気に入ったようだ。榊は口角を上げて頷く。曹瑛はグリップを捻り、アクセルを全開にする。心地良い排気音を響かせてNinjaはネオンの海へ消えていった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る