超・危険なハロウィンナイト・後日談 サンライズ熱海

 ―熱海の旅館にて、早朝


 明け方の冷気を頬に感じて、曹瑛は瞼を開けた。障子を通して微かな薄明かりが漏れている。獅子堂が沖縄民謡を歌い始めていないところを見ると、まだ夜が明けていないことが分かる。獅子堂は早朝、一定時刻になると沖縄民謡を歌い出す奇妙な癖がある。

 冬眠中の熊のようないびきは孫景、こちらまで頭が痛くなりそうな歯ぎしりの音は兄の劉玲だ。昨夜は熱海の廃ホテルでの乱闘の興奮冷めやらず、ずいぶん遅くまで酒盛りをしていたようだ。曹瑛は音を立てないよう、ふとんから抜け出した。


 窓際のソファに腰掛け、マルボロに火をつけた。薄闇に紫煙が立ち上る。肺に煙を吸い込めば、ニコチンで頭がすっきりしてきた。ふと、テーブルにあった旅館の案内に目を留めた。「展望露天風呂 朝6時より」と書いてある。昨夜、大浴場では騒々しい男たちとライアンの妙な視線のせいで、落ち着いて温泉を堪能できなかった。今ならまだ全員眠りこけている。

 曹瑛はタバコを揉み消し、バスタオルを手にそっと部屋を出た。よく手入れされた日本庭園が眺められる渡り廊下を通り、本館へ向かう。エレベーターに乗り、展望露天風呂のある5階のボタンを押した。


 男湯ののれんをくぐり、警戒しながら脱衣所を見渡すが誰もいないようだ。曹瑛は帯を解いて浴衣を脱ぐ。脱衣所の扉が開く音がした。思わず動きを止めてじっと入り口を観察する。

「お前だったのか」

 二人目の客は榊だった。榊も脱衣所の人影が曹瑛と気付いて、安堵した様子だ。

「熱海まで来て朝風呂に入らないのは野暮というものだ」

 曹瑛は上機嫌で浴衣を脱ぎ始める榊を暗い瞳で見据える。

「お前が来れば、奴も来る」

 曹瑛の声は暗い怨嗟に満ちている。奴、とはゲイであることを公言し、榊に惚れているライアンだ。榊だけでなく、厄介なことに曹瑛にも興味を示している。それが迷惑な曹瑛は榊の入浴を狙ってライアンがやってくることを懸念している。


 曹瑛の殺気に満ちた視線をものともせず榊はフン、と鼻で笑う。

「俺がみすみすここにやってくることをライアンに悟られると思うか、奴については対策を講じてある」

 自信満々の榊の様子に、曹瑛は眉を顰める。ライアンは欲望に忠実で、一筋縄ではいかない男だ。

「俺は朝風呂を安心して楽しむために、昨夜は日本酒と焼酎とウイスキーをちゃんぽんで飲ませて奴を存分に酔い潰しておいた。しかし奴はうわばみだ。それだけではなく、更なる策を用意した」

 姑息な手を、とあきれたが部屋を出るときにライアンは大人しく眠っていたようなので効いているのかもしれない。


 入り口に鍵を掛けるわけにもいかず、ここまで来て引き返すのも面倒なので曹瑛は観念して浴衣を脱ぎ、露天風呂へ向かった。扉を開けると、立派な岩風呂に湯気がもうもうと立ち上っている。かけ湯をして、湯船に浸かると熱めの湯は肌触りが良く、身体が芯から温まる。

 タオルを頭に乗せた榊も肩まで浸かって至福の表情を浮かべている。

「熱海の湯は良い。疲労が溶けてゆくようだ」

 露天風呂からは相模湾が一望できた。空が白み始め、水平線に朝日が昇り始めた。空が紫から橙へ色を変える。榊は湯船から立ち上がり、無心で海を見つめている。


「絶景だな」

 太陽の光りを受け、海が輝き始める。神々しい景観に心奪われるようだ。

「ああ、まさに絶景だ」

 不意に、背後からここにいないはずの男の声が聞こえる。榊は背中に鳥肌が立つのを感じた。恐る恐る振り向けば、ライアンが恍惚とした表情でこちらを見つめている。

「な、貴様なぜここに」

 榊は慌てて湯船に身を沈める。策は講じたはずだ。ここにいるのは湯けむりが見せた幻ではないか。そう思ってみても、目の前にいるのは確かにライアンだ。


「せっかくの日本の温泉を心ゆくまで堪能したいと思ってね」

 ライアンは柔和な笑みを浮かべる。気が付けば、曹瑛の姿が無い。よく見れば、一人用の陶器風呂につかって知らんぷりをしている。

「裏切りやがったな、曹瑛」

 榊は歯噛みするが、曹瑛は目を合わせようとしない。

「英臣、背中を流そう」

「いや、断る」

 榊は思い切り頭を振る。幸せな朝風呂の時間がひとときも気の抜けない緊張と恐怖の時間に変わり、榊はげんなりして部屋に戻ることになった。


 離れの部屋では、先に戻った曹瑛がソファで気持ちよさそうにタバコを吹かしている。獅子堂が沖縄民謡を歌い始めたので、皆も起きだしてきた。榊はソファに身を投げ、曹瑛のマルボロを一本拝借して火を点ける。


「もう一つの策は何だった」

 曹瑛の問いに、榊はふとんを指さした。榊の寝ていたふとんが人の形に盛り上がっている。部屋を抜け出すときに、押し入れから毛布を取り出してふとんの下に入れた。まだ寝ているように偽装したかったようだ。

「お前が詰めが甘い」

 曹瑛はあまりのアホらしさに半ば呆れている。せせら笑う曹瑛に、榊は言い返すことができず大きなため息をついた。

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