烏鵲堂の聖夜祭
ハッピークリスマス
クリスタルグラスが澄んだ音を響かせる。揺れるピンク色のシャンパンの向こうで微笑む愛しい人の顔を見つめ、ライアンは口元を緩める。ベイエリアにあるホテルの高層階、全面ガラス張りの窓の外はまるで色とりどりの宝石を散りばめたような東京の夜景が広がっている。
「君と聖夜を共に過ごせるなんて私はとても幸せだよ、英臣」
凜とした輝きを放つ切れ長の黒い瞳を見つめると、吸い込まれそうな錯覚から逃れてライアンはキャンドルの光に目をやる。揺れる炎がテーブルを優しく照らしている。その白い頬に紅が差しているのはキャンドルの明かりのせいではない。ローテンポのジャズアレンジのクリスマスソングがBGMが耳に心地良い。
「日本でクリスマスの本当の意味を理解している者はほとんどいない」
榊はシニカルな笑みを浮かべ、グラスに口をつける。厚みのある唇はシャープな顔立ちに絶妙な色気を与えている。ライアンは思わず小さなため息をつく。
「聖人の生誕を祝う日というが、俺たちには関係ない。そうだろう」
「そうだ、祝おうじゃないか。2人で今を過ごせる幸せを」
ホテルのスイートルームを予約している。食事のあとはゆっくりとこれからの2人の人生について話をしよう。時間はたっぷりある。ライアンは目の前にいる榊の姿が眩しくて目を細めた。
「・・・夢か」
目を開ければ、オフホワイトの無機質な空間が広がっている。喉がひどく渇いた。ライアンはリクライニングを起こし、キャビンアテンダントにミネラルウォーターを頼んだ。
「お客さま、当機は到着が遅れております」
ニューヨークを飛び立ってすぐに東京時間に合わせた時計を見れば、午前11時。予定ではすでに羽田空港に到着しているはずだった。
「どの程度遅れるのか、わかるかな」
「地上が吹雪と強風のため着陸態勢に入れるか、現在状況確認中です。申し訳ありません」
深々と頭を下げるベテランの乗務員。そもそも雪のため、ニューヨークからの出発時間が3時間遅れていた。冬の飛行機は遅延リスクが高いのは承知の上だ。
「いや、天候が悪いのは君のせいじゃない。謝る必要はないよ。ありがとう」
ライアンは緩く微笑んだ。
東京に着いたら自身がCEOを勤めるグローバルフォース社東京オフィスに赴き、取締役とのランチョンミーティングとクリスマスシーズンを前に新しくオープンしたセレクトショップを集めたショッピングモールの視察を予定していた。この分だとキャンセルせざるを得ないだろう。
ライアンは窓の外に流れる鈍色の雲を眺めてため息をついた。こんなことならもう少し夢の続きを見たかった、と思った。
午後4時を過ぎても機体は羽田上空を旋回していた。一度着陸を試みたが、強風のために再び上昇することになった。機内では諦めと疲労のため息が広がっている。ライアンは逸る心を抑えてただ目を閉じていた。
今日はクリスマスだ。年末のバカンスのためにニューヨークでの仕事を片付けて日本へ飛んだ。イブの夜を機内で過ごすのは不本意だが仕方がない。榊とクリスマスディナーの約束を強引に取り付けてある。夢に見たベイエリアのホテルの高層階のレストランを予約した。予約時間は午後6時。羽田に着陸が不可能であれば別の空港へ着陸する選択肢も浮上しているようだ。
午後5時、まだ羽田上空での旋回を続けている。ライアンは秘書にメールしてレストランの予約のキャンセルを依頼した。そして空港からのハイヤーも合わせてキャンセルをする。運転手にも家族がいて、家に帰れば温かい食事が待っているかもしれないと思えば待機させておくのは無慈悲だと考えたからだ。
―英臣、すまない。今日のディナーに間に合いそうにない。この埋め合わせは必ずさせてほしい。
胸が痛む。榊に無理を言って予定を空けておいてもらったのだ。ライアンはメールの送信ボタンを押し、大きなため息をついた。勝手なヤツだと榊は怒るだろうか。
窓の外はすでに暗い。厚い雲の隙間から星が輝いているのが見える。ライアンは頬杖をつきながら窓に映る不幸な男の顔をぼんやりと眺めていた。
「再度羽田空港への着陸を試みます」
不意にアナウンスが流れた。地上の状態が落ち着いたので着陸態勢に入るという。クリスマスまで機内で過ごす羽目にならずに済んだようだ。機体はゆるやかに下降を始める。このまま無事に着陸できるだろうか、乗客は皆静かに祈っている。
滑走路の明かりが見えてきた。視界は良さそうだ。ドン、と鈍い衝撃があり、機体は地上に降り立った。機内で拍手が響き渡る。メリークリスマス、と乗客は互いに祝福しあった。
入国審査を済ませ、スーツケースを受け取る。出口を見やれば、家族やカップルの再会の幸せな場面に出くわす。予定なら、ここにハイヤーの運転手が迎えに来てくれるはずだった。ライアンは一人寂しく出口を抜けていく。
目の前に長身の黒いロングコートの男が立っているのが見えた。その隣に同じくらいの身長の男が並ぶ。ライアンは思わず目を見開いた。
「英臣、曹瑛」
予想もしなかった出迎えに、ライアンは思わず2人に駆け寄る。
「飛行機が遅れて大変だったらしいな」
ハグしようと両手を広げたライアンを榊が全力で押しとどめる。
「ああ、そうなんだ本当にすまない。君との約束を違えてしまったよ」
「いや、俺はその方が好都合だが・・・」
榊は口ごもる。横に立つ曹瑛はポケットに手をつっこんでふて腐れている。
「曹瑛も来てくれたのか」
「背が高い人がたくさん居た方が目立つからお願いしたんだ」
下を見れば、高谷がにやっと笑っている。榊からディナーのキャンセルの話を聞いてユナイテッド航空の遅延を知った高谷の発案だったらしい。
「これから曹瑛さんのお店でクリスマスパーティをするんだよ、ライアンもどう」
高谷の言葉にライアンは涙ぐむ。
「ありがとう、結紀」
榊のBMWで烏鵲堂に向かった。2階のカフェスペースではテーブル一杯の料理が並んでいる。
「ライアンさん、いらっしゃい。大変だったね」
「伊織、久しぶりだね。それに和真も」
ライアンは伊織と獅子堂にハグをする。
「え、彼ってライアン・ハンター?うちのCEOじゃない」
千弥が驚いている。千弥はグローバルフォース社東京オフィスに勤務しているが、ニューヨークの本部にいるCEOのライアンは雲の上の存在であり、写真でしか見たことがない。
「千弥、君のことは知っているよ、いつもマネージャーが君はとても優秀だと自慢するんだ」
ライアンは千弥を握手を交わした。千弥は緊張で顔を赤らめている。
「ほお、あれがハンターファミリーの二代目か、えらいボンボンやな」
劉玲と孫景が腕組をしてライアンを見つめている。
「初めまして、ライアン・ハンターです」
ライアンが笑顔で握手を求める。
「俺は劉玲、こっちは孫景。曹瑛が世話になっとるらしいな」
劉玲が派手にライアンにハグをする。
「これが欧米方式なんやろ?」
満面の笑顔の劉玲にライアンは呆気にとられている。
「さすがだな、お前の兄貴。ライアンを手玉に取ってるぜ」
その様子を見て榊が感心している。
「何を考えているか俺にも分からない」
曹瑛はライアンの気が逸れて安心しているようだ。
「メリークリスマス!」
シャンパンを開け、それぞれにグラスを合わせる。テーブルには手作りの料理が並んでいる。
「これはりんごだね」
皮を刻んで文字や文様を描いたリンゴが並ぶ。その見事な彫刻をライアンがまじまじと見入っている。
「中国ではクリスマスにリンゴを贈るのが最近の流行なんや」
劉玲が説明する。クリスマスイブの“平安夜”がりんごを意味する“苹果”と発音が同じこととかけているという。伊織によれば曹瑛がカフェ営業の合間に彫ったらしい。
「とてもユニークだ」
フレッシュサラダにチキンの丸焼き、魚介がたっぷりのパエリア、パスタ、ピザ、ラフテーに餃子に春巻き、手巻き寿司となんでもアリのビュッフェのようだ。それぞれの得意料理を持ち寄った結果らしい。
「ホテルのディナーじゃなくて残念だった?」
高谷がライアンをつつく。
「そんなことはない、こんな温かいパーティは久しぶりだよ。まるで家族と過ごしているみたいだ」
ライアンは巻き寿司を手にして感動している。
「英臣と2人きりで過ごせなかったのはちょっと残念だけどね」
「ライアン、抜け駆けは禁止だからね」
高谷は唇を突き出して笑った。
「じゃあケーキ切るわ」
千弥がいちごの乗ったクリスマスケーキを皆に切り分ける。メレンゲ細工のサンタクロースの飾りは曹瑛の皿につけた。
「なぜ俺に」
曹瑛はサンタを見つめてぼやいている。
「甘いものが好きと聞いたけど」
「これを食べるのか・・・」
曹瑛は可愛いサンタにかじりつくのがしのびないようだった。
「英臣、私は年明けまで日本で休暇を取っているんだよ」
「そうか、ゆっくり休めよ」
つれない態度の榊にめげず、ライアンは関東の温泉マップを手に強気のアプローチを始めた。
「山奥の秘湯、ここはどうだろう。しっぽりと温泉で疲れを癒やそうじゃないか」
「なに、温泉か・・・お前と?いや、それは絶対にない」
榊はかたくなに断る。
「ライアン、ゲイだったのね」
千弥がその様子を見てしみじみつぶやく。
「うらやましい、私もあんなふうに強気になれたらいいのに」
千弥は孫景を見上げた。孫景は困った顔で苦笑いをしながら頭をかいている。
「クリスマス、よく分からないがこういう集まりなのか」
曹瑛が西湖龍井をグラスに入れて湯を注ぐ。伊織にもグラスを渡した。
「本来は聖人の誕生を祝う日だね。西洋では家族や大事な人と過ごす日だからこういうのもいいんじゃないかな」
「楽しければええよ」
ビールのグラスを手にした劉玲が曹瑛と肩を組む。気持ち良く酔っ払っているようだ。
「メリークリスマス」
ビールと温かい中国茶で乾杯する。曹瑛の皿にぽつねんと残るメレンゲのサンタクロースに伊織は思わず微笑んだ。
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