烏鵲堂のまかない飯

 取引先を出て時計を見れば、夕方6時をまわっている。スマホの着信履歴を確認すると、曹瑛からだ。珍しいこともあるものだ。榊は履歴から曹瑛にコールする。

「曹瑛か、何の用だ」

「今空いてるか」

「ああ、仕事が終わったところだ」

「すぐに店に来い」

 曹瑛はそれだけ言って一方的に通話を終了した。行けるかどうかの返事も聞かずに強引なやつだ。榊はコインパーキングに停めたBMWのエンジンをかけた。今いる中野区から神保町の烏鵲堂まで30分程度で到着できるだろう。


 首都高速に乗り、神保町へ。烏鵲堂は営業終了しており、表口はシャッターが閉まっている。裏口に回ると、薄暗い路地を伊織が歩いてきた。

「榊さんこんばんは」

 伊織が手を振る。白いカットソーにブルーのジャケット、ベージュのチノパン、スニーカーに重そうなショルダーバッグ。取材帰りのようだ。

「伊織も呼び出されたのか」

 仕事帰りの榊はシャドウストライプのサマースーツにグレーのシャツブラウス、ミッドナイトブルーのタイを締めている。


「微信で“今から来い”って」

 微信は中国版のLINEだ。相変わらず人の都合も確認せずに強引だ、と伊織は笑っている。孫景と千弥もやってきた。

「曹瑛から呼ばれてな」

 孫景も何の用件か聞かされていないらしい。トランスジェンダー女性の千弥は孫景に想いを寄せている。自分は裏社会にしか生きられないからと一度は付き合うことを断られたが、友人として時々逢っている。今日も一緒に夕食の約束をしていたところ、曹瑛の呼び出してやってきたのだ。

 この二人以外の誰もがもう付き合えばいいのに、と思っている。


 もう一人、黒い革のジャンパーを肩にかついだ長身の男がやってきた。アッシュゴールドの髪は今日は下ろしている。獅子堂だ。白の半袖Tシャツの上からでも引き締まった筋肉がよく分かる。

「獅子堂さんも呼ばれたんだね」

「ああ、用件は知らない」

 劉玲もよく用件を忘れて人を呼び出すので、こういうシチュエーションには慣れてしまったようだ。


 烏鵲堂の裏口から薄暗い書店スペース通り抜け、階段を上がり2階のカフェへ。カフェにはダウンライトが灯っている。閉店後なので客はいないようだ。

「あ、いらっしゃい」

 エプロンをつけた高谷が出迎える。普段は書店のバイトに入っているが、カフェ店員もサマになっている。

「結紀、何かあったのか」

「えっ」

 神妙な表情で質問する榊に、高谷は驚いている。


「何も聞いてないの」

「ああ」

 榊は眉根を寄せる。曹瑛からは今すぐ来い、という連絡だった。伊織も孫景も獅子堂も用件を知らない。

「もう、きっと照れくさかったんだね曹瑛さん」

 高谷はクスクスと笑っている。

「みんな夕食はまだだよね」

 高谷の言葉に、皆頷く。


「どうぞ座って」

 高谷はコットン生地のランチョンマットを並べる。シックなワインレッドが上品な趣だ。

厨房からスパイシーな香辛料の香りが漂ってきた。曹瑛が料理を運んでくる。

「あ、キーマカレーだ」

 伊織の腹がぐうと鳴った。高谷がフレッシュサラダとトマトと卵のスープ(西紅柿鸡蛋湯)を並べる。


「これは紫蘇のジュースね、この時期になるとおばあちゃんが仕込んだものを飲むのが楽しみだったわ」

 澄んだ深い赤色のドリンクを見て、千弥は喜んでいる。初夏になると出回る飲み物で、紫蘇の葉から取れるエキスで作られる。

「夏バテ防止と美肌にも良いのよね」

 伊織は紫蘇ジュースを知らなかったらしく、珍しそうにグラスを眺めている。

木の器に盛られたキーマカレーはかぼちゃやナス、パプリカと夏野菜がごろごろ入っている。スパイスの香りが食欲をそそる。


「ターメリックライスか、凝ってるな。キーマカレーと相性がいい」

 榊が感心している。

「混ぜるだけだからな」

 榊に褒められた曹瑛は両手を腰に当てて得意げだ。カレー自体もスパイスから手作りしたという懲りようだ。

「そういえば、瑛さんカレーにハマってたよね」

 伊織は曹瑛が神保町の老舗のカレー店を気に入っていたことを思い出した。それが高じて自分でも作ってみたくなったのだろう。


「で、俺たちを呼んだのはカレーを振る舞うためだったのか」

 孫景がぼやく。曹瑛の兄の劉玲にも用件無しで呼び出しされるのが常だが、さすが血の繋がった弟、やることが同じだ。

「野菜たっぷりでおいしいわ」

「うん、スパイスの風味がとてもいい」

「タマネギの甘みが隠し味だな」

 皆喜んでカレーを口に運んでいる。曹瑛が試行錯誤して完成したキーマカレーをまかないで高谷に出したら大絶賛で、つい作りすぎてしまったという。


「紫蘇ジュース、初めて飲むけどすごく美味しい」

 伊織が紫蘇ジュースに感動する。爽やかな紫蘇の風味とレモンの酸味、優しい甘さがクセになりそうだ。

「後漢末期、医聖と謳われた華陀が食中毒になった青年に煎じて飲ませたという。青年は回復し、紫の葉は「蘇る」薬、“紫蘇”と呼ばれるようになった。初夏の飲み物だ、もうストックはないから来年だな」

 曹瑛のうんちくに皆が感心している。


「美味かった、ごちそうさま」

 皆満足した様子で曹瑛に礼を言う。今年の梅雨は長そうだが、夏を先取りできた気分だ。

「烏鵲堂の裏メニューにすればいいよ」

 高谷の提案に曹瑛はもう飽きた、とひとつあくびをした。

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