第24話 海に降る雨
緒方惟義を中心とした反平家軍は、豊後の国、
丹生川をはじめ何本もの河川が注ぐ湾は天然の良港となっている。そこに各地からの大小軍船が錨を下ろしており、一気に伊予へ押し渡ろうとしているのだった。
「だけど、壮観という程でもない」
快速船で島影に潜み、湾内に目を凝らしていた佑音は小さく息をついた。
ざっと見ても大船は少なく、小型船がほとんどだ。それも漕ぎ手は多くない。速度はあまり出ないだろう。おそらく何度にも分けて四国へ上陸するつもりなのだと思われた。
しかも船幅が狭い川船まで集めている。いかに瀬戸内とはいえ、その波は河川とは比較にならない。まして、すぐ隣を大船が波を蹴立てて進んでいるとなれば、転覆の危険はいや増すに違いない。
「この程度、知盛さまなら何とかしてくれそうだけれど」
☆
平家は多くの将兵と、福原という京への入口を失ったが、知盛はまだ諦めていなかった。西国の兵を集めもう一度源氏と決戦するのである。騎馬兵が中心の鎌倉軍に対し、平家は水軍で優位に立つ。
「福原方面だけでなく、攝津まで船を進め、大坂からも京を目指す」
「それは面白いですな」
水軍の長、
「熊野水軍の力があれば、もっと面白い事が出来るのだがな」
呟くような知盛の言葉に恒河沙は頭を掻く。
やや困り顔で知盛を見て、軽く首を振った。彼はもともと熊野の僧兵の一族である。熊野の内情には明るかった。
「別当の
「そうか。そうだろうな」
特に落胆した様子もなく、知盛は頷いた。それは十分に承知している事だった。殊に、形勢が不利な現在の状況においては。
「知盛さま。因みにその面白い事というのは」
「難しいとお前が言ったばかりだぞ、恒河沙」
知盛は苦笑して、水面に目をやる。船上に沈黙が訪れ、船のきしむ音だけが響いた。
「鎌倉を水軍で直撃する」
独り言のように知盛が言った。
おおう、と恒河沙は呻いた。三方を山に囲まれた鎌倉へ、紅い旗印をなびかせた平家の巨大水軍が殺到する図が彼の眼前に浮かんだ。
「……勝てるのではないですか、これなら」
だが知盛は苦笑を返しただけだった。これはまだ夢物語の域を出ない。
「今は、当面の敵を討ち払わなくてはならん」
知盛はどこまでも続く海の彼方を見詰めた。空も島々も仄かに霞んでいるように見える。穏やかな瀬戸内の風景だった。
青い水面に白い航跡を残し、知盛の艦隊は西へ進んでいく。
☆
緒方惟義は人ならぬものの子孫だと伝わる。ある女が、夜々通って来た男と契り身籠った。しかし何者とも知れぬ男に不安を抱いた女の家族は、ある朝その男の後をつけさせた。すると男は山の苔むした岩室に入り、大蛇へ変じたというのだ。
のちに生まれた男子は、背は高く顔は細長い。そしてその身体には鱗のようなひび割れがあったという。やがて人並み外れた武勇の持ち主に成長するその赤子が緒方惟義の祖先だというのである。
そして惟義自身もその伝説に相応しい豪勇で知られている。
「どうやら半数ほどは渡しました」
報告を受け惟義は腰をあげた。豊後沿岸の漁師らから集めた小舟を総動員し、四国の伊予へ兵を送り込んでいるのだ。
出来得ることなら平家が拠点としている屋島まで向かいたいが、この貧弱な水軍では到底かなう事ではない。普段はこのように穏やかであるとはいえ、つい先日は強い風雨で海上は大荒れになっていたのである。
やはり早々に四国へ渡り、そこから陸路を行くに越したことはない。
「平家の者どもは、あれから姿を見せないな」
嘲笑うように左右に問いかける。嵐に紛れ小規模な軍船の集団が襲ってきたが、わずかに矢合わせをしたのみで、半刻も経たずに逃走して行った。
「かの平家も落ちぶれたものよ」
惟義は高笑いして船に乗り込んだ。一の谷で平家は壊滅した、そう彼は確信した。敗戦によって退嬰しきった平家は心まで挫けてしまったようだ。
事実、豊後水道へ乗り出した惟義の軍船は、何の妨害も受けず進んでいく。
「船が見えるぞ。あれは紅い……
突然一人の水夫が声をあげた。
惟義とその配下は甲板に集まった。彼らが乗っているのは、集めた船の中でも最大級のものである。
だが、こちらへ向かって来る平家の船は更にその数倍は有ろうかという巨船だった。それも一艘ではない。唐船と呼ばれる超大型船から、何丁もの櫓を備えた快速船、騎馬を積載した輸送船まで、瀬戸内海を蔽うばかりの大艦隊だった。
「な、何だあれは。聞いていないぞ、あんな艦隊を持っていたなど」
惟義は悲鳴のような声をあげた。
「おのれ、先日はわざと弱い船団をぶつけてきおったのか」
豊後へ引き返せ、すぐにだ! 惟義は血走った目で叫んだ。
「緒方惟義の船を発見しました」
恒河沙が獰猛な表情で報告する。こんな所に海賊の本性が垣間見えた。
「よし。快速船で退路を断て。唐船で包囲殲滅するのだ」
その指示は速やかに艦隊に伝えられ、獲物を狙う猟犬のように快速船が飛び出していく。
慌てて隊列を乱す惟義の船団。それを、美しいまでに整然と平家艦隊が包囲していく。圧倒的なまでの操船技量の差が海上に現出した。
海面は大きく波打ち、繊細な川船は次々に転覆する。海に落ちた鎧武者は泳ぎもならず、足掻き続け水中に没した。
「突っ込めっ!」
知盛は大声で号令をかける。平家方の大型船は袋の口を閉じるように包囲を狭めていく。慌てて回避しようとする惟義方の船は互いに激突し、航行不能になっていく。そして止めを刺すように、突入した唐船がその船体を引き裂いていった。
「おのれ、平知盛っ!」
傾いた船の舷縁に足を踏ん張り、弓に矢をつがえた惟義は絶叫した。彼の船団は見る間にその数を減らしていく。もはや浮かんでいるのは船であった木材の破片ばかりと言っていい。
まるで地獄のような殲滅劇だった。
ついに船は沈み、惟義は海に投げ出された。
「おのれ、おのれ!」
辛うじて水面に浮かび、憑りつかれたように叫ぶ惟義の前後に、唐船の舷側が迫った。惟義の顔が恐怖に歪む。
惟義の絶叫は、船同士がこすれ合う音と共に途絶えた。
☆
「やりましたな、知盛さま」
恒河沙が悪そうな笑顔を向けた。知盛も安堵の表情だった。
「ああ。久しぶりの勝利ではあるな」
こうして勝利を積み重ねていけば、やがてまた瀬戸内を制する事ができよう。そして福原と京を奪還する。そうなれば熊野も源氏一辺倒では居られまい。
「ふふ。いい顔をしていらっしゃる」
満足げに恒河沙が笑った。
「大将はそうでなくてはならん。いつも謹厳実直な顔では、部下は気詰まりですからな」
「ああ。何だか今日は空が高い。この間の荒れようが嘘のようだ」
知盛と恒河沙はそろって空を見上げた。
「おや」
知盛は顔に水滴を感じ、手で拭った。雲の無い空から、ぽつぽつと小さな雨粒が落ちている。
「雨ですな。『狐の嫁入り』というやつですか」
「ああ。これは、吉兆なのだろうか」
「さて、寺で習った覚えはありませんが」
恒河沙は首をかしげた。
☆
「あれは、凶兆でしたか」
恒河沙が虚ろな表情でつぶやく。知盛は何も言わず、天を仰いだ。
佑音から、屋島陥落の報が届いたのである。
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