第8話 惜別の笛

 知盛は尾張と美濃の一部を制圧することに成功した。

 まず源氏方の豪族が連携することを防ぐために、佑音ゆうねの伊賀一族に工作を行わせ、彼らが互いに反目し合うように仕向けたのである。

 知盛は、狐疑し逡巡する敵に対し、全兵力を一時に投入する事で次々に打ち破って行った。


 そして知盛の勢力が強まるにつれ、源氏方の中には知盛の調略に応じる者も出て来るようになったのである。彼が待っていたのは、まさにこの瞬間だった。

『分割して統治せよ』とは、西洋に於ける政治に関する箴言だが、知盛は自然とこの言葉を実践していた。


 これで、鎌倉から京に向かう主要街道は知盛によって扼されたことになる。

「援軍が欲しい」

 だが知盛は切実に思った。一万に満たない兵力でこの最前線を守り切るのは不可能だという事はよく分かっていたからだ。しかもその殆どは源氏方から鞍替えしてきた者なのである。いざという時に戦力になるかは怪しかった。


 ☆


能登守のとのかみ教経のりつねさま、ご来着!」

 待ちに待った増援が知盛のもとに届いた。

 しかもそれを率いているのは平家最強の猛将との誉れ高い教経である。彼は、四国の豪族の間で不穏な動きがあるとして、水軍を率いて向かっていた。瞬く間に四国の反乱を鎮圧した教経は、その舳先をこの尾張へ向けたのだった。


「よく来てくれた、教経」

 知盛は到着の報を受け、教経を出迎えた。


「四国では武勲をあげたそうだな」

 教経は鍛え上げられた腕を組んだ。しかしその容貌は意外に細面で端正といっていい。猛将と呼ばれているとは思えない温和な表情で知盛を見返す。


「いや、左程でもないぞ。おれが向かうとすぐに逃げ散ってしまうのだ。あまり名が知れているのも考えものだな」

 まんざら冗談でもなく教経は言った。


「ところで、この陣には清経がいるのだったな。奴こそ大手柄だったではないか」

 教経は辺りを見回す。頼朝の弟、義圓ぎえんを討った事は京にも伝わっている。京にいる頃はこの清経を弟のように可愛がっていた教経だった。


 だが知盛の傍らに控える佑音も知章も、そろって顔を伏せた。

「どうしたんだ。……まさか怪我でもしたのか、清経は」


「いや怪我はしていない」

 小さく知盛が答えた。その表情は暗いままだ。

「とにかく、来てくれ」

「あ、ああ」

 教経は知盛の後に続き、本陣にしているらしい農家へ入った。


 ☆


「清経、なのか」

 その若者は、見る影もなく、やつれ果てた姿で薄い褥に横たわっていた。ぼんやりと虚ろな瞳を天井に向けている。

「どうしたんだ、これは。……おい清経、おれだ教経だ」

 教経は骨ばかりになった清経の手を執る。


「あぁ……」

 虚ろだった清経の顔に表情が浮かんだ。

「教…経、さま」

「分かるか、おれが」

 清経は小さく頷く。しかし、またすぐに真っ白な能面のような顔に戻った。


「夜になると突然ひどく泣き出されたりするのです。ずっとこんな状態で、食事もほとんど摂っておられません」

 佑音は唇を咬んだ。


「なぜだ。なぜこんな事に」

 知盛は首を横に振った。

「毎夜、源氏の亡霊を見るのだそうだ」

 ああ、と小さく教経は嘆息した。教経もこのように戦場で心を壊された者を多く見て来た。彼自身、敵兵の首が夢に出て来ることがある。

 

「笛を吹いてくれないか。清経。お前の笛が聞きたいのだ」

 かすれた声で教経は言った。枕元に置かれた清経の愛笛を目の前に差し出す。清経の笛にはその悪夢を払う力があると、教経は常々感じていた。


 どこにそんな力が残っていたのだろう。清経はゆっくりと身体を起こした。佑音が急いで背中を支える。

「……わたし、の、笛を……」

 痩せこけた手で、教経から笛を受け取る。

 笛に口をあてた清経だったが、音にならない、ため息のような息遣いだけが続いた。


「もうよい。すまなかった、清経。もういいんだ」

 たまりかねた教経は涙ぐみ、止めようとした。それを片手で佑音がさえぎる。

「大丈夫です。もっと息を整えて」

 ふうっ、と清経は息を吸った。


 ぴいーん、と高く透き通った音が、笛から迸った。


 最初は途切れとぎれに、しかし徐々に音律は整う。五節の会に奏される曲である。華やかな宮中行事を想起させる曲だった。

「…………」

 教経は思わず天を仰いだ。

 宮中において天才的と謳われた清経の技は、そこには残っていなかった。技巧も何もない、あまりにも拙い音だった。


 だが、やがて教経も知盛も涙を流していた。佑音も嗚咽が止まらなかった。この稚拙な演奏は、今まで彼らが聞いた事がないほどに美しい音を奏でていた。

 笛の音を聞きつけた兵たちも庭に集まり、静かにその音に耳を傾けた。


 曲が終わり、清経は笛を下す。そして微かに、恥ずかしそうな笑みを浮かべた。

「死に逝くもの、その音やよし……でしたか」

 呟くように言った清経を教経は強く抱きしめた。



 後の事になるが、平氏は京を捨て福原へ退く事になる。

 そしてある朝、福原の湊ちかくの海岸に、若い男がうつ伏せに浮かんでいるのが見つかった。笛の入った錦の袋を手にしたその男は、すぐに清経と知れた。

 戦さによって心を病んだ清経は、さらに慣れ親しんだ京の都を捨てることに耐えられなかったのであろう。

 この源平争乱の修羅の世を生きるには、清経の魂はあまりにも繊細すぎた。


 ☆


 一方、知盛のもとへ新たな急使が遣わされた。

 近江を北上し、木曾義仲を討てというのである。ここ尾張は捨て置くしかない。


 知盛はあまりの事に言葉を失った。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る