第7話 木曾冠者義仲

 月が照らす薄闇の中、紅い旗を靡かせて隊列が進んでいく。

 狭い山道を抜けると、やや開けた場所に出た。軍勢が野営をするには十分な広さである。平家方の総大将、維盛はここで兵を休める事にした。


「ここは何という場所であるか」

 維盛は道案内の老人に問いかける。老人は少し首をかしげた。

「されば、われらは倶利伽羅峠くりからとうげと呼んでおります」

 そうか、と何心も無く維盛は頷く。そして兜を脱ぐと食事の支度を命じた。




 この峠は彼方の一方が高く切り立った崖になっている。今その上に長身の男が立ち、平家の陣を見下ろしていた。

 黒ずくめの甲冑に、色白で整った顔が際立つ。


「あれが平家軍か。あの宿営の様子を見るかぎり軍法を知らぬようだな」

 その隣に、やや細身の人影が並ぶ。

「武家の真似をしていても所詮は殿上人。我が方の倍は居るようですが、義仲さまの敵ではありますまい」

 低く抑えてはいるが、女の声だ。少し笑みを含んでいる。


「勿論だとも。では行くか、ともえよ」

「はい」

 二人は顔を見合わせ、頷きあう。


 木曾義仲は背後を振り返り、右手を上げる。

 倶利伽羅峠に陣する平家を囲むように、松明の火が赤々と燃え上がった。

「行け。平家を谷へ追い落とせ!」


 ☆


 木曾義仲を討伐するために、平家の総帥宗盛は西国の兵を北陸道へ投入していた。その総大将には維盛これもり、副将には越前三位えちぜんのさんみ通盛みちもりを充てる。この通盛は豪勇で知られる能登守のとのかみ教経のりつねの兄である。だが武辺者の弟と違い、荒事には全く不向きな穏やかな男だった。


「こんな戦さは早く終わらせて、都へ帰りたいものだが」

 食事を摂り、茶を飲んでいた通盛は星空を仰いで、大きく嘆息する。

「ああ、この星空も京の都へ続いているのだな……」

 家族を想い、そっと涙を拭った。


「おや?」

 通盛は小さく声をあげた。一瞬、星が増えたのかと目を疑う。彼方の山の稜線上に火が点ったのだ。その炎の列は峠に至る街道の前後にも伸びて行き、平家の陣を三方から塞ぐようにぐるりと取り囲んだ。

「味方……ではないのか」

 通盛は床几を蹴った。


 その時、荒々しい喊声が周囲からあがる。続いて数すら知れぬ軍馬のいななきと、ひづめが大地を踏み砕く地響きが平家軍に迫って来た。


「敵襲!!」

 悲鳴のような声が陣のあちこちで上がった。多くのものが甲冑や太刀を求め右往左往する中で、幾人かは辛うじて兵を取りまとめ応戦に向かう。


「落ち着け、敵は少数だ。目の前の敵を討つ事のみを考えよ!」

 最前線では歴戦の侍大将、瀬尾せのお兼康が激しく兵を叱咤する。それによって、彼の持ち場では一時的に木曾軍を押し返すほどだった。


 だがその彼も、守るべき本陣が崩れたことで敵中に孤立した。


「囲まれた、もう駄目だ!」

 総大将維盛が思わず叫んだ声が、周囲に伝わった。総大将の動揺が全軍に影響を与えない筈がない。

 平家軍は、一度は手にした太刀を捨て、ただ一方だけ敵影のない方角へ逃げ奔り始めた。その方向には、深い谷が待ち受けているのも知らず。


 通盛もその流れに押され、迫る敵に背を向けた。

「ああっ」

 何かに躓き転倒した通盛は、多くの兵に踏まれ、足蹴にされる。ようやく這うようにして岩陰に逃れた彼は、その場で身を屈めた。


 殺戮が通盛の目の前で繰り広げられていた。

 木曾兵は逃げ惑う平家軍を一方的に追いたてる。その中で目立つのは黒尽くめの軍装をした長身の男だった。手にした大太刀で死人の山を築いている。

「あれは鬼神ではないか」

 敵兵を鎧ごと両断し全身に返り血を浴びたその男を見て、通盛は本気で思った。


 そしてその傍らで薙刀を揮う武者もただ者では無かった。鍬形くわがたのない簡素な兜をかぶったその将は、裂帛の気合一閃、次々に敵を屠っている。

「女……なのか」

 その背中に流れた黒髪を見て通盛は呟いた。


 彼女によって首を刎ねられた兵が、通盛が隠れる岩に向け倒れ込んできた。

「ひぃーーーっ」

 通盛は必死で声を押える。女武者はこちらを一瞥しただけで、また平家軍の追撃にかかる。通盛はそのまま気を失った。




 やがて通盛が目を開けると、辺りは真っ白い霧に覆われていた。続いていた剣戟の響きすらどこにもない。


「ここはもしや、浄土なのか」

 普段から念仏を称えていた甲斐があった。安堵とも諦念ともとれる溜息をついた通盛はふと足元に目をやった。

 首の無い、兵の死体が転がっている。

「ああっ」

 涙が流れ落ちた。ここが浄土であるはずがない。

 

 ここは修羅の地獄だった。


 ☆


 平氏軍の別動隊は薩摩守さつまのかみ忠度を主将とし、皇后宮亮こうごうぐうのすけ経正、淡路守あわじのかみ清房、三河守 知度とものりらが越中を目指し、進軍していた。


 いっぽうこの方面の木曾軍の将は、新宮十郎行家だった。

 洲股すのまたで知盛に撃ち破られ、身ひとつで木曾義仲の下へ逃れた行家は、持ち前の口舌を駆使してすぐに義仲に取り入った。もとより叔父、甥の関係でもある。義仲はすぐさま兵を分け与え、一軍の将としてやった。


 行家という男は、元々は源頼朝の勢力に加わっていたが、処遇に不満を抱き尾張で自立を図る。それに失敗すると今度は木曾義仲の庇護を受けた。それが、義仲の厚意によって兵力を手にすると、またぞろ独立の気配を見せ始めている。

 その行動に、およそ実というものが無い男だった。


「なんだ、敵は総大将の維盛ではないのか。つまらぬな、勝っても二番手柄でしかないとは。どこまでもわが身の不運よ」

 敵の将が忠度であると知った新宮行家は、わざとらしく周囲を見回して嘲笑した。


「あの文人くずれに、和歌を詠むのと戦さは違うのだ、という事を教えてやろう」

 行家は小高い丘に陣をとる忠度へ向け突撃する。すぐさま平家の先鋒との激しい戦闘になった。


 だが勇猛な木曾兵に対し、清房、知度らは地形の有利を生かし、頑として後退する事はなかった。

「清盛の小倅どもが、意外とやるではないか」

 行家はまだせせら笑う余裕があった。


「敵、本隊。動きます!!」

 隣で声があがった。丘に目をやった行家は表情を凍りつかせた。

 雪崩のような勢いで忠度の本隊が丘を駆け下ってくる。


 行家の木曾軍はそれに呑み込まれ、文字通り粉砕された。


「追え、新宮行家を逃すな!」

 逃げ惑う木曾源氏を蹴散らし、忠度は追撃を指示する。だが敗け戦となると真っ先に逃げ出すのは行家の性格だった。すでに木曾軍のもっとも後方に行家の姿は遠ざかっていた。


「とことん卑劣な奴だ。美しさの欠片もない」

 なかば呆れたように忠度は呟く。しかし、と唇をかんだ。

「あれが坂東武者の強みでもあるのだろう」

 美しく死ぬ、という観念は彼らの中には無い。あるのは強靭な生への執着だ。


「我らは果たして、このような者ども相手に勝利できるのだろうか」

 凱歌をあげる兵たちの中で、忠度の表情は暗かった。


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