第17話 福原に源氏軍迫る

 洛中で源氏が同士討ちを演じている間、知盛と教経は瀬戸内の諸豪族を次々と斬り従えていった。そして遂に中国、四国の瀬戸内沿岸の武士は、ほとんどが平家方に忠誠を誓うに至った。

 瀬戸内海を制し、その兵力をもって京を奪還するという知盛の構想は、やっと第一歩を踏み出したのだ。


「次は九州だ」

 知盛は絵図を拡げた。そこには、日本から海を越えた宋への航路が記されている。彼の父、清盛が拓いた日宋貿易の航海図である。

 知盛は宋との貿易の復活まで目論んでいた。平家の栄華は、武力のみならず貿易による強大な経済力がその根源だったからだ。


 宋へ渡るには、瀬戸内を抜け関門海峡、または豊後水道を通らなくてはならない。いずれにせよ九州沿岸の制覇が絶対条件となる。

 北九州の豪族、緒方 惟義これよしは大宰府に逃れた平家を追い、更に威勢を増している。今はそこへ、教経に打ち破られた四国の名族、河野かわの四郎までが合流していた。


「兵数ならば互角だが、こちらは騎馬が少ない。陸戦は不利だろうな」

 教経が首を捻る。それは知盛も同意せざるを得ない。彼の領国である長門に引き寄せ、陸海から一気に覆滅するのが最善と思われた。

「何とか誘い出す方法はないか」

 その方策は知盛にも容易に思いつかなかった。



「福原へ本拠を移そうではないか」

 宗盛や時忠が言い出したのはある意味で当然の事だった。このまま屋島に逼塞していては、いつまた京へ戻れるか分からないというのである。

「その通りなのだが……」

 知盛は一抹の不安を覚えた。


 制圧したばかりの地域、特に四国はまだ平家に服することが浅い。いま屋島を離れれば、また彼らが叛旗を翻す恐れがあった。当面の間は占領地域の間近に拠点を構え、睨みを利かせる必要があるのだ。

 

「四国が動揺すれば、河野四郎と緒方惟義が動き出すと思われます。これは、逆に好機ではないでしょうか」

 伊賀家長は蹲ったまま、知盛に言った。

(この者、また身体が丸くなったような気がするな……)

 まるで達磨ダルマかタヌキの置物のようだ。知盛は報告を受けながら、まったく違う事を考えていた。

「どうされました、知盛さま」

 家長は怪訝そうに知盛を見上げた。


「いや、何でもない。そうだな、できれば源氏を刺激するのは避けたいが、福原の防備も固めねばならない。確かによい機会かもしれない」

 知盛はうなづき、朝議の場へと向かった。



 知盛は福原を中心として東は生田、西は一の谷へ防塞を設けた。これにより、北は丹波との境をなす山地と、南の瀬戸内海に挟まれた全長二十キロにもおよぶ大城塞が出現した。

 平家が京を退去して以来、衰退する一方だった家運が、ここにきて再び上昇に転じた。平家の誰もがそう信じた。


 ☆


「これはすごい城だな」

 関東の源氏軍には珍しい、きらびやかな鎧を着た男が声をあげた。居並ぶ将領のなかでは一番若く、小柄かもしれない。

 平家方の陣立てを記した絵図を見て、目を輝かせる。

「いやいや、平家はこうでなくてはならん」

 どこか嬉しそうに笑う男は、大きな前歯と相俟って、どこか栗鼠りすなど齧歯げっし類の小動物を思わせた。

 この男が鎌倉方の副大将、源九郎義経だった。


「笑っている場合ではござらぬ。いまは真剣な軍議ですぞ。控えなされ」

 苦々しさを隠しもせず、軍監の梶原景時がたしなめる。彼らはそもそも鎌倉を発った時から反りが合わない。

 それが宇治川の合戦で決定的になった。


 宇治川の急流を避けて迂回した総大将の範頼と梶原景時は、強引に渡河した義経に出し抜かれた格好になった。鎌倉の頼朝への報告は景時の役目であったが、この時の手紙には悔しさがにじみ出ている。


 景時が独断的な行動をとる義経をにくみ、兄頼朝の威光をかさにきていると非難すれば、義経は景時を慎重なだけの老武者だと罵った。

 景時の息子、源太景季や畠山重忠ら若手武将は義経に同情的であったが、ほとんどの者は景時に与している。源氏内部の分裂は次第に修復不可能なものになりつつあった。


「大手とからめ手の二手に別れましょう」

 畠山重忠の提案は戦術上の常道であると共に、この二人を別行動させるという意味もあった。

 賛同する声が、あちこちで上がる。それにはどこか安堵の響きもあった。


 大手となる生田いくた口は総大将の範頼、景時らが当たり、搦手となる一の谷方面へは義経、土肥実平、畠山重忠らが山間を迂回して向かう事になった。


 ☆


 源氏がその兵力を二分し、一方が背後の一の谷へ迂回するだろうという事は知盛も察知していた。維盛の弟、資盛と有盛をその経路にあたる三草山へ送り、源氏方の進軍を阻止させる。

 知盛自身は大手口の生田の森へ布陣し、背後の一の谷は彼が最も信頼する薩摩守忠度を総大将とした。

 


「どうだ、教経の具合は」

 知盛は佑音を呼び止め、小声で訊いた。水桶を手にした佑音は暗い顔で首を横に振った。

「まだ熱が下がりません。もしや清盛さまと同じ病ではないでしょうか」

「……ああ」

 清盛の壮絶な死に様を思い出し、知盛は呻く。


 緒方惟義と河野四郎は予想通り攻め寄せて来た。それを激戦の末に討ち払い、福原へ戻った教経は、突然高熱を発して倒れたのだ。

 意識を失い、涸れた声で譫言を呟く教経は誰が見ても死の一歩手前だった。


「しかし……痛い。こんな時に教経が」

 平家最強、とはまさに教経のためにある呼称である。事実、彼が先陣を切った戦さでは兵の士気までが違う。今の平家軍には絶対に必要な男だった。


「やはり、戦いが続いてお疲れだったのでは」

 佑音は不安げに教経の伏す方を見やった。

 気候が穏やかな瀬戸内とはいえ、真冬の連戦だった。教経の他にも同様な症状を見せるものが出ていた。


 最強の手札を使えぬまま、知盛は源氏の大軍を迎え撃たねばならないのだった。

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