第18話 一の谷開戦す
笛や琵琶、または和歌で名を成す者が多い平家一門の中にあって、この通盛は恋愛で世に知られていた。
絶望した通盛は、ついに今生で最後の文を和歌と共に送ったのだ。
わが
小宰相もさすがに、突き返すに忍びなかったのだろう。そのまま衣装の合わせに挟んでいた。それを上西門院の前で取り落としてしまったのだ。
それを読んだ上西門院は通盛の心情を哀れと思い、小宰相の代りに返書を書かれたのである。それに添えられた和歌が残る。
ただ頼め細谷川の丸木橋ふみ返しては落ちざらめやは
誠意をもって待てば彼女は貴方の手に落ちるかもしれませんよ、と。
上西門院の口添えも有ったのだろう、ついに小宰相は通盛に心を開いたのだった。その後ふたりには子供こそないが、仲睦まじさは洛中にも知れ渡っていた。
「もう船が出る。はやく行きなさい」
通盛は小宰相を促す。鎌倉軍が福原へ迫っているのを受け、女子供は屋島へ移る事になったのである。
だがそう言いながらも、通盛は妻の手を握ったままだった。小宰相もそれを強く握り返す。ふたりは涙を拭いもせず、互いの顔を見詰めていた。
「どうか、ご無事で」
やっと小宰相は言うと、従者とともに湊へ向かった。
安徳帝をはじめ、女官たちが大型の唐船に乗り込んでいく。
一の谷側の大将としてその指揮を執っていた忠度は目を疑った。宗盛が嫡子清宗と談笑しながら、桟橋を船に向かっているのだ。
「待て、宗盛。どこへ行くつもりだ」
呼び止められた宗盛は、さも意外な事を訊かれたように首をかしげた。
「どこへ、ですと。おや、この船は屋島へ向かうのではなかったのか」
何の屈託もないその答えに、忠度は頭から血の気が引くのを感じた。
「お前は平家の総帥ではないか。それが戦場を離れるというのか」
「だから、わしは主上を守るのだよ。屋島でな」
忠度の右手が自然と佩刀に伸びた。これは敵前逃亡として斬るべきではないか。彼は何度も自問した。
「忠度。戦さは卿らに任せると言っておる。さっさと持ち場へ戻らぬか」
傲慢な声が船上から降って来た。時忠が唇をゆがめ、忠度を見下ろしている。
では、われらはこれで。と宗盛は薄笑いを浮かべ、船へ乗った。
☆
源氏の別動軍を阻止するために三草山へ送った師盛らの敗報が届いた。
「夜襲を受けただと。あれだけ油断するなと言っておいたのに!」
思わず知盛は声を荒らげる。彼には珍しい大声に、重衡と佑音は振り向いた。
富士川でも、倶利伽羅峠でも平家軍は奇襲によって敗れ去っている。源氏がその戦法を好むというより、平家には戦さは昼日中にお互い名乗り合って始めるもの、という意識が抜き難くあるのか。
「落ち着けよ、知盛。総大将がうろたえてどうする。後背に回られることは想定していたのだろう」
重衡は固い表情ながらも穏やかな声で言った。やっと知盛の肩から力が抜けた。
「それで、師盛たちはこちらへ向かっているのだな」
気を取り直し知盛は伝令に問うた。敗兵を収容し大手、搦手に振り分ければまだ戦力として計算できる。
だが伝令は黙り込んでいる。暫くして、そっと顔をあげた。
「いえ、潰走したまま明石方面へ。そこから屋島へ向かうのだと」
「福原でなく、屋島へだと?!」
今度は重衡が声をあげた。立ち上がったまま愕然としている。知盛もやはり言葉を失っていた。
「なぜ屋島なのだ」
繰り返し重衡が問いかける。
「それが、時忠さまが事前に申し伝えておられたようで」
「なるほどな。それは気付かなかった」
知盛の声には、苦笑とも自嘲ともつかぬものが混じっていた。
「最初からそのつもりだったのだな、奴らは」
墨を含ませた筆をとると、知盛は絵図面を黒く塗りつぶした。
そこへ佑音が駆け込んできた。表情は明るい。
「教経さまが、意識を取り戻されました!」
知盛、重衡、そして通盛は、急いで教経が伏せる陣屋の一角へ向かった。
死の淵に瀕していた教経だったが、その病状は峠を越えた。やつれ落ち窪んだ眼窩のなかで、瞳は力のある光を放っていた。
「薬師によると、半月ほど養生すれば元通り戦場に立てるだろうとの事です」
佑音は教経に水を含ませてやりながら伝える。
「よかった、よく頑張ったな教経」
通盛は弟の手をとり落涙した。
「……知盛」
小声でささやいた重衡は知盛の袖を引いた。振り返った知盛は、重衡に続いて部屋を出る。
「まずは安堵したが、源氏は半月も待ってくれまいな」
重衡の言葉に知盛も頷く。
「ああ。この戦いは、教経抜きで勝たねばならん、と云うことだ」
☆
大手の生田口、搦手の一の谷へ源氏軍が襲来した。大手は大将の源範頼、梶原景時、搦手は土肥実平がその主力である。
防柵を挟んで激闘が行われたが、生田口の知盛、重衡、一の谷に陣する忠度ともに固く守り、源氏の大軍を跳ね返し続けた。戦況は膠着状態となった。
奮戦を続ける知盛だったが、陣中に悲鳴のような声があがった。
「後方に煙が上がっております!」
振り返った知盛は目を瞠った。一の谷の方角から凄まじいまでの黒煙が上がっている。
「まさか、西の手が破られたか」
知盛は忠度の浅黒い顔を思い浮かべた。それにしても早い。源氏主力はこちらの筈である。歴戦の忠度がこうも簡単に打ち破られるとは信じられなかった。
煙に驚いたのは忠度も同じだった。
「なぜ後方に。敵、いや……失火ではないのか」
福原の沿岸に敷いた長大な陣、その中央部が突破されたとは知盛、忠度ともに考えもしなかった。そこは急峻な崖が続いているからだ。
岩場を縫うように細い道が続く。それは獣道というのが近いかもしれない。人が歩くのも覚束ない、ましてや騎馬が通るなど想像すら出来ないものだ。
源義経率いる数十騎はその道を抜けてきたのである。東国の騎馬術は、西国武士のものとは大きな懸絶があった。
「この辺りは誰の陣だ」
目の前には急造の陣屋が建ち並んでいる。それらは全て義経の獲物に見えた。
「時忠殿の書状によれば、おそらく能登守ではないかと」
図面を取り出した僧形の巨漢、武蔵坊弁慶が答える。義経は、ききっ、と歯を剥き出して笑った。
「おおう、能登守教経かよ。これは酷い処へ出たものだな、ええ?」
義経は、さっと右手をあげた。
「よし、みな焼き払え。開戦の狼煙を上げるのだ!」
この奇襲によって一の谷の戦いは新たな展開を迎える。それは平家にとって終焉の始まりだった。
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