第25話 義経、屋島を奇襲する

 源九郎と通称される義経は、かつての源氏の惣領、義朝の末子に当たる。

 父義朝が討たれた際、まだ幼かった義経は鞍馬寺に入れられたが、やがて出奔した。

 次に義経が現れたのは陸奥だった。奥州王とも呼ばれる藤原秀衡を頼った義経はそこで成人するのである。


 もちろん源氏の正統ではあるのだが、この男を生粋の武士と呼ぶのはどこか憚られる。それは義経の用いる戦術が当時の武士の発想上に無いことにあった。


 正々堂々の一騎打ちを美とする意識(西洋の騎士道にも似たものがあるが)、これが義経の心裡には欠片もない。


 近代的な機動部隊とも共通する、奇襲を目的とし騎馬を軍団として運用するという戦術は、体格に恵まれず、個人的武勇に頼る事が出来ない義経の画期的な発明と言っていい。

 しかし当時の常識とはかけ離れていた為、他者には理解不能だったのだろう。


 なかでも不評だったのは、個人の功名は軽視し、軍としての成果を重要視する、義経の姿勢そのものである。


『一所懸命』という言葉で象徴されるように、戦さで功名をたて、褒賞によって領地を得るのが当時の武士の生き方である。このままでは、鎌倉武士の功績はすべて大将の義経ひとりに帰する事になる。


「これではまさに一将功成りて万骨枯る、ではないか」

 軍監として同行した梶原景時が義経に対し猛反発したのもこの一事に尽きる。

 そしてその危惧が、事あるごとに義経との衝突を招くのだった。



「何いっ、御曹司の姿が無いだと!」

 叩きつける雨と風の音、絶え間なく鳴り続く雷鳴をも圧するほどの怒号が、軍議が行われている広間に響き渡った。


「くそっ、あの小僧め。またしても我らを出し抜こうと云うのか」

 声の主は軍監、梶原平三景時である。顔を真っ赤に染めて床を拳で殴りつけた。沿岸豪族から船を集め、やっと屋島へ向かう体勢が出来た頃だったのだ。


「船を出した、……この風雨の中を」

 死ぬつもりか、あの男は。

 畠山重忠は呟き、身体を震わせた。彼ら東国の武士は総じて海に不慣れである。ただでさえ船を嫌う者が多い。

 このような嵐の海に乗り出すなど、正気の沙汰とは思えなかった。


 義経には伊勢義盛、武蔵坊弁慶。佐藤継信、忠信兄弟ら、陸奥以来の者達のみが従ったという。

「みな、無事に辿り着ければよいが」


 重忠は、共に鵯越ひよどりごえを駆け下り一の谷を奇襲した義経の事を、決して嫌いではなかった。反りが合わないのを感じながらも、その軍才に魅了されていたのである。


 源氏の船団が福原へ留まっていたのは理由がある。平家軍は一の谷で壊滅したとはいえ、その艦隊はほぼ無傷で残っている。

 一部は九州の押えとして西に向かったが、能登守平教経が残りの艦隊を率い瀬戸内東部を遊弋している。不用意に屋島へ近付いたため鹵獲、撃沈の憂き目に合った源氏方の船は数えきれない。


「しかし、たった数隻で何が出来よう。愚かものめ」

 景時が吐き捨てた。血走った目で一座を見渡す。

「我らはわれらで、出陣の支度をするのだ。よいか、各々がた」


 ☆


「ほら見ろ、ちゃんと着いたじゃないか」

 青白い顔で義経は顔を歪めた。どうやら笑ったらしい。だが、すぐに船べりから顔を突き出し嘔吐する。

「ひでえや、地獄かと思いましたぜ」

 伊勢義盛がやっと顔を上げて答える。他の者たちも酷い船酔いで、甲板に突っ伏したまま動く気力も失くしているようだ。


「ここは一体どの辺りでしょうな」

 義盛は海岸を見回すが、砂浜も松林も霧の中にかすんでいる。

 福原を発した船団は一艘も失われることなく、浜辺に乗り上げていた。それだけは、ほとんど奇跡と言ってよかった。


「多少、東へ流された。ここは阿波との国境くにざかい付近だな」

 妙に断定的に義経は言った。

「分かるんですかい?」

 義盛の当然の問いに、義経は不思議そうな顔をした。まるで訊かれた意味が分からないかのようだ。

「なぜだ。進んだ方向を憶えていれば、おおよその方角は知れよう」

「それは……まあ、そうですが」

 あれだけの暴風雨のさ中、船がどっちに向いているかなど分かる訳がない。義盛は首を振った。


 そういえば一の谷でも、道なき道を進んだにも関わらず、義経率いる別動隊は正確に平家の陣屋の裏に出た。どうやらそういう才能が義経にはあるらしい。

「この大将の頭の中身は渡り鳥か。それとも本当に天狗なのか」


 義経には鞍馬山の天狗と共に修行したという噂があった。それもあながち嘘ではないかもしれない、伊勢義盛は吐き気と笑いが同時に込み上げてきた。


「では出発だ。この山を越えれば平家の拠点、屋島が見えるはずだ」

 義経はひとり意気揚々と馬に跨る。

「お、おぉ……」

 その後には、船酔いで死人のような顔色の部将たちが続いた。


 ☆


 平家が屋島に設けた仮の御所。行在所あんざいしょと呼ばれているのは、急遽補修し建増しを行った土地の有力者の屋敷だった。


「山の中腹に、灯りが見えるぞ」

 夜警を務める兵が、屋敷の背後にそびえる山を見上げた。他の兵も集まり目を凝らす。

「寺がある辺りだ。人魂じゃないのか」

「止めろよ、冗談じゃねえ」

 笑いながらも不気味そうにそれを見上げている。

 不意にその灯りが動き始めた。一つひとつその数を増やし、横に拡がっていく。

「あれは、まさか?!」


 轟っ、と音をたて松林が燃え上がった。



「早く。早く船へ」

 平家の総帥宗盛は、安徳帝と建礼門院を急かし、御座船としている大型の唐船へ退避する。とにかくこの男は逃げる事しか頭に無いようだった。乗り込むと同時に船を出させた。


「こんな時に居ないとは。教経め、役に立たない奴だ」

 自分が屋島周辺の源氏水軍討伐を命じておきながら、宗盛は騒ぎ立てた。沖合まで出たところで、宗盛はやっと息をついた。


 総大将が真っ先に逃げ出したことで、屋島の平家軍はひとたまりも無く潰走を始めた。とにかく我先に船に飛び乗り、残された者に構わず岸を離れようとする。残された者は泳いで船に取りすがり、幾つもの小舟が転覆した。


「離せ、もう乗る事はできんのだ」

 先に乗船した者は、舷側にしがみつくものを刀で薙ぎ払った。その結果、小舟の内には切断された指や手首だけが多く残されることになった。


 ☆


 宗盛が教経の船団と合流し、奇襲したのが少数の義経軍であったと知った時、屋島は遅れて渡海した源氏の船団によって、すでに占拠されていた。



 こうして、百人に満たない義経軍の前に、屋島はあっけなく陥落したのだった。

 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る