第26話 戦いの帆が上がる
宗盛の船団を収容した知盛は愕然とした。
「半数も残っていないではないか」
多くの者が自らの所領へ逃げたか、そのまま源氏に寝返ったらしい。
しかしそれも無理はない。総帥が真っ先に逃亡したのだ。諸国から駆り集められただけの彼らに、踏み止まって戦うほどの忠誠を期待する方が間違っている。
やがて、
「早速ですまぬが、一緒に来てくれ」
知盛は教経を伴い、宗盛の船に乗り込んだ。
「屋島では思わぬ不覚をとったわ。それにしても源氏のやり方は汚いのう。とても武士のやる事とは思えぬ。やはり東国の田舎者よ」
宗盛は酒杯を呷りながら、へらへらと笑っている。屋島失陥が中四国の豪族へ与えた影響にはまったく気づいていないらしい。
「なぜ一戦も交えず逃げ出したのです」
硬い口調で問う知盛を気にする様子もなかった。まあ一献、と酒の入った瓶子を知盛に差し出す。
「仕方があるまい。背後を襲われ、てっきり包囲されたと思ったのだ」
知盛が杯を取ろうとしないため、宗盛は不機嫌そうに口を尖らせる。
「背後を警戒するよう申し置いた筈。当然、監視の兵は置かれたのでしょうな」
宗盛は視線を避けるように顔をそむけた。
「しつこいぞ。もう良いではないか、すでに終わったことだ」
「……何が良いのだ宗盛。それに、何も終わってなどいない」
殺意の籠った目でその姿を見詰める知盛。その袖を教経が引いた。明らかにほっとした表情の宗盛を残し、船室を出る。
二人は小舟に乗り換え、知盛の軍船に向かった。
「すまん。おれが屋島を離れたばかりに」
二人きりになった時、教経は肩を落とし知盛に詫びた。しかし教経が各地で源氏船団の拠点を襲撃していたからこそ、源氏は屋島へ攻め寄せることが出来なかったのも確かな事である。
「いや。責任を感じるべきは、お前ではない」
屋島失陥の原因は全て、総大将である宗盛に帰せられるのは明らかだった。
福原と四国の屋島。両岸の拠点を失ったことで、平家は瀬戸内の制海権を完全に失ったのである。もはや鎌倉を直撃することも、夢の彼方となった。
「戦略を捨て、戦術に徹するなど本意ではないが致し方ない。ならばそれなりの戦いをするまでの事だ」
知盛は壇ノ浦周辺の絵図面を拡げた。船団の配置と海流の向きを、細かく朱筆で書き入れていく。
「速戦即決。これしかない」
☆
現在、平家水軍の主力を率いているのは
この重能は古くから平家に仕え、亡き清盛からの信頼も篤かった。その所為もあって、平家劣勢となっても変わらず忠義を尽くしている。
だが嫡子の
重能は寝返るのではないか。そんな噂が平家の陣中に流れ始めた。
「いっそ、今のうちに斬った方が宜しいのではないですか」
噂について知盛に尋ねられた佑音は小さく答えた。知盛は眉をひそめる。
「それは何か証拠があるのか」
「重能さまは頻繁に使者を送っておられます。もちろん、ご嫡子の教能さまにです」
「だが使者を送っているというだけで斬る事はできん」
「ならば逆に、教能さまを味方に引き入れようとしている、とお考えですか」
知盛は苦悩の表情を浮かべた。
「まず、あり得ないだろうな」
それは知盛も認めざるを得ない。誰が好き好んで、こんな落ち目の一族に味方しようとするだろう。本人に問い質しても、源氏方に付く相談をしているとは言うまい。重能の持つ水軍は貴重な戦力なのである。下手な事をして合戦前に失うようなことはできなかった。
「だが重能を斬っても、その配下は敵に回る。結局は同じことだ」
奴らが裏切るのを織り込んで戦うしかない。知盛は言い切った。
「そこまで覚悟なさっているなら、これ以上は申しません」
あきらめた佑音は海上に浮かぶ船団に目を移した。
大小取り交ぜた船の上で、平家の紅の幟が初春の風に揺れている。
「これから戦いが起こるとは思えないほど、穏やかな光景なのですけれど」
佑音は寂しげに呟いた。
☆
夜明けとともに、甲冑を身に着けた知盛は船の甲板に立った。
すでに平家方の主だった将領は小舟を漕ぎ寄せ、指令が発せられるのを待っている。その姿を見渡した知盛は寂寥とした思いを抑えられなかった。
常に総大将を務めてきた
残ったのは数人の侍大将の他には、能登守教経と、いまだその動向が定かならぬ阿波重義のみだった。
一連の戦さで平家が喪ったものは、あまりに大きかった。
知盛は大きく息を吸い込む。
「かつて西楚の覇王と呼ばれた
将領たちは黙ってその言葉に耳を傾けている。
「これは朝敵を討ち果たすための戦いである。よいか、主上が我らと共にある限り、我らは必ず勝つ。神仏の加護は我らにあるのだ」
知盛は声に力を込めた。
「皆の者、力の限り戦え。そして運命の糸を手繰り寄せるのだ。よく戦さする者にこそ天神地祇は恩寵を与えるだろう。命惜しむな、名をこそ惜しめ」
おおうっ、と一斉に喊声が上がる。
「船を進めよ!」
知盛は鋭く軍配を振った。
海上を埋めた軍船。その甲板に一斉に帆が上がり、櫂が漕ぎはじめられた。
こうして平家水軍は、のちに壇ノ浦の合戦と呼ばれる最後の戦いに向かう。
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