第27話 能登守教経の最後
左右の舷側に据えられた櫂が一斉に上がり、白い水滴を奔らせた。
瀬戸の水面を斬り裂き、平家の船団は動き始めた。規則的に打ち鳴らされる太鼓の音に合わせ、並んだ水夫が櫂を漕ぐ。
短期間とはいえ知盛と教経が鍛え上げた水軍である。美しいまでに整然と、方陣、いわゆる魚鱗の陣を組み、一糸乱れず進んでいく。
やがて彼方に源氏の船団が見えて来た。
「数だけは多いですな」
腕組みをした
「その数が最大の武器だ。よって、我らは一気に敵の心臓を突かねばならん」
知盛の表情には怖れも侮りも浮かんでいない。ただその目は、敵陣に何かを捜すように鋭く細められている。
「そう言えばあの小娘の姿が見えませんが、どうしました」
その視線に気付いた恒河沙は首を傾げた。専用の快速船で常に戦場を駆け回っている佑音だが、決戦を控えたこの数日は見かけない。
知盛はちらりと恒河沙を見た。僅かに焦りの気配がある。そこに恒河沙はひやりとしたものを感じた。
「あそこだ」
知盛は海の彼方、源氏の船団を指差した。
「まさか……」
恒河沙は絶句した。あの娘はどんな事があろうと、決して知盛の許を離れないだろうと、どこかで信じていたのだが。
「やはり、あれの兄が」
「寝返ったなら、それでもいいのだが」
ぽつりと知盛は言った。
「それは、どういう意味ですか?」
恒河沙の問いに知盛は答えず、ただ彼方の源氏船団を見詰めた。刻々と両者の距離は縮まりつつあった。
依然として知盛の表情は晴れない。
☆
やがて、互いの喊声すら聞こえるようになった。早くも先頭を進む船からは、何本かの矢が放たれて来ている。
「どうします」
「まだだ。……まだ動くな」
知盛は短く答える。だが彼自身、我慢の限界に達しているのは明らかだった。無意識の裡に、太刀の柄に手を掛けては離している。
「何だ、あれは」
迫り来る源氏の大船団。その右翼中央付近を進む一艘の大船から、突然、白煙が噴き上がった。源氏の侍たちが狼狽えているのがはっきりと見える。
「……!」
訝し気にざわめきが起こった船上で、ついに知盛は太刀を抜き払った。そしてその切先を高々と掲げる。
あの煙こそ、彼が待ち続けたものだった。
「恒河沙、紡錘陣を組め。あれが源九郎義経の乗船である。陣形を変えつつ、全速で突っ込むのだ!」
応、と叫んだ恒河沙は陣太鼓手に合図を送る。規則的に鳴らされていた太鼓の調べが一転した。谷を奔る急流のように滔々としたものに変わる。
ざっ、と櫂が激しく水を切る。
それまで方陣を組んでいた平家の船団は、整然とその陣形を紡錘形に変えて行った。大型船を先陣に並べ、源氏の船団にクサビを打ち込むように猛進する。
目指すは源義経ただ一人。
「進め、力の限り漕げっ!」
進路をふさぐ源氏の小型船に舳先から突っ込み、その船体を木っ端みじんに打ち砕く。めりめりと音をたて引き裂かれた源氏の船は、乗せた侍もろとも海の藻屑と消えた。
「義経っ!」
知盛は敵の船上に立つ小柄な男を見据え、咆哮した。
☆
東国武者の強悍は、つとに有名である。相手の船に乗り込んでの白兵戦では平家は分が悪い。知盛は義経の船に対し横腹を向けた。乗船する弓兵を有効に使うためであった。一斉射によって義経の周囲の者たちは次々に倒れた。
しかし、その両者の間に別の大船が割り込み、知盛と義経の船は引き離された。
「知盛さま!」
若い女の声に知盛は振り向いた。煤で顔を汚した佑音が船を漕ぎ寄せて来る。義経の船を捜し出し、そこに煙玉を放り込んで目印の狼煙を上げたのは佑音だった。
平家が見事、義経を討ち取ったなら、彼女がその最大の功労者という事になるだろう。
「よくやった、佑音」
しかし佑音は首を横に振った。
「わたしが船に乗り込んで義経を討っていれば……」
「全ての功績をお前に独り占めさせるものか。それより、まず顔を拭け」
知盛は冗談めかして言うと、手にした布を佑音に抛った。義経の乗る船は百人ほどは乗船可能だ。さしもの佑音といえどそんな事が出来よう筈もない。
「義経を追うぞ、佑音。おれのそばに来い」
知盛は船縁から手を差し伸べた。佑音の船は漕ぎ手を射殺され、もはや自慢の速度を出す事は出来なくなっていた。
引き上げられた佑音は、そのまま知盛の胸に飛び込んだ。
「これからは、どこまでも一緒ですよ。知盛さま」
知盛はうなづき、強く佑音を抱きしめた。
「知盛さま。あれを」
恒河沙が控えめに声をかける。その指差す方を見た知盛は、思わず唇をかんだ。
忠誠を疑い後方に控えさせた
それは四国の水軍が、平家から源氏へ寝返るという宣言だった。
「間に合わなかったか……」
知盛は静謐ともいえる声で、腕の中の佑音を見た。
一筋、涙が頬を伝った。
数的劣勢を優秀な操船と果敢な突撃で補ってきた平家軍だったが、主力の裏切りによって、その目論見は完全に潰えたといえる。
平家の軍船は各個に包囲され、乗り込んで来た多数の東国武者によって一方的に殺戮されていった。
ひとり奮戦を続けていた能登守教経は、義経を目前にする所まで迫ったが、次々に現れる源氏の新手を前にして遂に矢尽き刀折れた。
教経の左脇腹に激痛がはしる。見ると太刀の切っ先が背中から腹部に向けて突き出ていた。振り返った教経。そこでは、恐怖に目を吊り上げた男が太刀を握り震えていた。
続いてもう一振りの太刀が彼の身体を貫いた。
「……ここまでか」
教経は血を吐き、呟いた。
左右から太刀で貫かれた教経は、その東国武者たちの腕を掴むと両脇に抱え込んだ。凄まじいまでの力で、動く事すら許さない。
「貴様らでは義経の代りにはならないが、贅沢は言うまい」
瀕死の傷を負った教経は血の気を失った顔で幽かに哂った。
そのまま倒れ込むように、平教経は海原に没した。
☆
平家最強と呼ばれた能登守教経。彼の最後により、事実上壇ノ浦の合戦は終結したと云ってもいい。
だが知盛にはまだ、すべきことが残っていた。
それは平家の最期を見届けることだった。
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