第16話 義仲、京の闇に沈む

 闇の中に、ふたつの白い裸体が絡み合う。

 女の肢体からは桜花のような匂いが薫りたち、突き上げるたびに漏れる甘やかな声に義仲は耽溺した。

「……」

 やがて声にならないうめき声とともに、義仲は女の中に精を放った。


 澄み切った夜空に、ゆっくりと月は傾いていく。


「やはり、怯えていらっしゃるのですね」

 巴は、寝息をたてる義仲の頭を胸に抱きしめた。


 ☆


 京に関東源氏の大軍が迫る。

 木曾義仲は手勢を街道ごとに分散して配置した。もともと千騎に足りない総兵数であるため、一つの方面は数百にしかならない。


「それぞれで存分に戦え」

 出陣を前に義仲は申し渡した。同じような状況ながら、敵の総大将だけを狙おうとした知盛の戦術とは根本的に違う。ただ数倍の敵を迎え撃つというだけで、そこに戦略などというものは無かった。

 もちろん、主将の義仲を討てばそのまま瓦解するであろう木曾軍と、頼朝が依然として鎌倉を動かない源氏軍とではその軍の構成が違う。

 他に取るべき策は無く、決して義仲が無能であったと云う訳ではない。


「橋板を取り除け」

 京を流れる宇治川。それに架かる大橋を渡れないようにするのである。かつて何度も行われた常道の戦法だった。源頼朝に派遣された範頼は、水量の増した宇治川の流れを目にして、主力を率い他の方面へ迂回していった。


 しかし後続の義経は骨組みだけになった橋を見てせせら笑う。

「橋がなければ、泳いで渡ればいいではないか」

 誰ぞいないか、振り返り呼び掛けた。


 進み出たのは畠山重忠である。彼は若いながらも、豪勇と知略で知られていた。

「ならば。このような川を渡るには、強き馬を川上にたて、弱き馬や徒歩はその下を進むものにござる」

 彼の下知に従い、屈強な馬を次々に川へ駆け入らせる。


 そのなかで二人の騎馬武者が急流をものともせず対岸を目指していった。当代屈指の名馬「池月いけづき」を駆る佐々木四郎高綱と、それに劣らぬと云われる「磨墨するすみ」に騎乗する梶原源太景季である。

 わずかに佐々木高綱が早く対岸に上がり、宇治川の合戦一番乗りの栄誉を手にした。これが世に言う宇治川の先陣争いである。


 一方、畠山重忠は対岸を目前にして馬を射られてしまった。止む無く半ば泳ぎ、半ば歩きして、ようやく岸の手前までたどり着いた。

 その彼の横を甲冑姿の武者がうつ伏せで流されていく。

「あれは見覚えのある兜だが」

 重忠は武者の襟首をつかんで引き起こす。やはり彼の知り合いだった。

「おい、しっかりせい、大串次郎」


 大串次郎は重忠の烏帽子子である。二、三発、思い切り頬を張ると、大きく咳込んで蘇生した。

「これは重忠どの。実は足を滑らせまして」

 えへへ、と笑う。

「すみませんが、岸へ上がるのを手伝ってもらえませんか」


「死にかけていた癖に、仕方のないやつだ」

 そう言うと重忠は大串次郎を片手で岸へ抛り上げた。

 甲冑姿の大串は高々と宙を舞う。

 ごろごろ、と岸を転がった彼はすぐに立ち上がると刀を抜いた。刃を真っすぐに立てると兜のひさし、真っ向に押し当てる。

「宇治川の徒歩立ちの先陣は、大串次郎重親!!」

 得意げに叫ぶ。


「なんと調子のいいやつだ」

 しばらく呆れていた重忠は苦笑いして、岸へと這いあがった。

 それを見ていた周囲の武士たちも大笑いしていたというから、関東の源氏方にはどこか余裕があったようだ。


 ☆


 木曾軍は全方面で崩れ立った。

「法皇を押えるのだ」

 今更ながら、義仲は院へ馬を向けた。しかしその邸の周囲は、既に源義経によって警固されていた。義仲はすべてにおいて後手に回っている。


 戦いつつ北陸道を目指す義仲の手勢は徐々に討ち減らされた。やっと追手を振り切った義仲は周囲を見回す。

「たった五騎か。残ったのは」

 その中に巴もいた。薙刀を脇に手挟み、ほとんど手傷らしい傷は負っていない。だが兜を脱ぎ捨て、大きく息をついている。さすがに疲労の色が濃い。


「巴、そなたは木曾へ戻れ」

 義仲の言葉に巴は顔をあげた。刺すような視線を義仲に向ける。

「われらはこれより今井兼平と合流し、最後のひと戦さをしようと思う」

 巴は薙刀を強く握り絞めた。


「わたしはお連れ下さらないのですか」

 返答次第では、という殺気が巴の身体から放たれた。

「ま、待て。そうではない。巴よ、お前には山吹やまぶきのことを頼みたい」

 巴は唇を固く引き結ぶ。山吹とは義仲と巴の娘である。出陣にあたり、木曾に残してきたのだ。

「しかし……」


「頼む。山吹にお前の父は勇敢に戦って死んだのだと伝えて欲しい。それが出来るのはお前だけだ」


 義仲の涙を見て巴の顔が歪んだ。

「泣くな。お前の父は泣き虫だったと、わたしに言わせるつもりですか」

 叱咤しながら、巴の頬にも涙が伝った。

「さらばです、義仲どの」



 そこへ源氏の一団が追いすがってきた。御田おんだ 師重という武士で、荒武者ぞろいの東国でも、特に大力で名高い。

「木曾義仲と見た。大人しくわが刃にかかれ!」

 

 静かに巴が前に出る。

「このような端武者、わたしが相手します」

 まず師重に馬を並べた。伸ばしてきた男の手を掴むとぐい、と引き寄せた。関節が外れる鈍い音が響く。


「むむっ」

 それだけで動きを封じられた師重は激痛に呻いた。足をばたつかせ抵抗する男を、巴は鞍の前輪に押し付ける。

 そして。


『ちっともはたらかさず、くびねぢ切って捨ててんげり』(平家物語「木曾最期」)


 ふうっ、と巴は息をついた。


 巴は一度だけ義仲を振り返った。

 そしてそのまま、北へ向かい走り去っていく。以後、彼女の名が歴史に顕れる事は、二度と無かった。



 義仲は合流した今井兼平と共に駒を並べて戦い、泥田のなかで首を打たれた。



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