第13話 沈みゆく月
豪胆で権謀術数に長け、およそ一筋縄でいく男ではない。のちに源義経を手玉にとり、頼朝とも互角にわたり合う。まさに政界に棲みつく妖怪と云っていい。
「ほう。平家の者どもが都を出ると」
しゃがれた声が、その太い喉から響いた。
「しかも、このわしを人質としてか……宗盛の考えそうなことだ」
ぽん、と扇をもう片方の手のひらに叩きつけた。
それだけで、後白河の前に平伏した男はびくりと身体を震わせる。
「法皇さまには、即刻、比叡山へ御移り遊ばされますよう」
顔を伏せたまま、その男は言上する。
「それは……誰からの申し条じゃ」
後白河は片方の唇を吊り上げた。笑みとも蔑みともとれる表情で促す。
「はっ。わが主、平時忠でございます」
後白河は声をあげて笑いはじめた。
「時忠め。ついに平家を見限って、わしに擦り寄って来おったか。まったく。獅子身中の虫とは、あ奴のような者の事を言うのであろう」
「追手が参ります。お早く」
悠然と後白河は立ち上がると、汚いものを見るような目で時忠の使者を見下ろした。
「よかろう。案内せよ」
「へぇ」
法皇の許に放っていた間者から報告を受けた佑音は、顔をしかめて知盛を振り返った。
「だそうですよ、知盛さま」
「いっそ手間が省けた、というべきだろう」
知盛も時忠の保身に対する執着と、手回しの良さには呆れるばかりだった。
「結果は同じですけど。何だか
まるで時忠と同じ事を考えていたようで、心底不愉快なのである。知盛も佑音の伊賀家を使い、後白河法皇へ宗盛の計画を伝えようとしていた。もちろん法皇へ媚びを売るためではない。むしろ逆である。
「あんな男と一緒に戦えるものではないからな」
「扱いに困るのは、時忠さまと宗盛さまだけで十分です」
「うむ」
知盛は苦笑した。厄介者が勝手に出て行ってくれるなら、それに越したことはないのだ。
☆
平家が旧都の福原(現在の神戸市付近)へ退いたあと、木曾義仲は比叡山に逃れていた後白河法皇を伴い入洛した。
当初はその軍事力を背景に朝廷を圧倒していた義仲だったが、次第に朝廷の顔色を伺うようになった。官位を与えるのは朝廷の専権事項であるため、義仲といえど法皇に対し無体な事が出来なくなったのである。
「木曾義仲に朝日将軍の称号を与える」
平伏した義仲はやや不満げな顔をした。武家において最も高位なのは、坂上田村麻呂以来、征夷大将軍と思われていたからである。
「なぜ、征夷大将軍ではないのだ」
かつて知盛も征夷大将軍に就いた事はあるが、その時は何の実権もなく、まさに名ばかりだった。しかし現在の義仲は、木曾のみならず北陸諸国の兵を率い、それに相応しい実力がある筈と自負していた。
「平家の残党を討ち滅ぼすのだな。さすればその時こそ、征夷大将軍の座はそちのものだ」
後白河法皇は残忍な笑みを浮かべた。
義仲はそれに従うしかなかった。
「必ずや、平家を討ってご覧にいれる」
その長身を屈めて義仲は誓った。
こうして木曾義仲は後白河の術中に嵌り、朝廷の走狗に成り下がった。
入洛する前に、義仲は鎌倉の頼朝に共闘を申し入れたことがある。北陸道と東海道それぞれから攻め上り、京を攻略しようとしたのである。しかし頼朝はその申し出を断った。あくまでも源氏の直系である自分が単独で平氏を追わねばならないと考えていたようだ。
頼朝は木曾軍の様子を横目で見つつ、着々と西進する準備を整えていたのである。
「死に体の平家など、一戦して叩き潰してくれる」
しかし集まった兵を見て義仲は愕然とする。そこには、京へ侵攻した時の半分ほどしか居なかった。
「どうやら京での略奪を目的とした者が主だったようです」
部将の今井兼平が申し訳なさそうに頭を垂れる。消え去ったのは、ほとんどが途中で加わって来た各地の豪族達だった。彼らは思うさま略奪を働くと、すぐに逃散してしまったらしい。
「全軍をあげて福原を攻める」
苦々しい表情で義仲は配下の将に告げた。急襲して打撃を与え、すぐにまた京へ帰還するしか他に方法がない。その間、京は軍事的空白地となるが、もはや致し方なかった。
「これが我が軍の最精鋭ということだな」
義仲は巴に笑いかけたが、それはどこか虚ろだった。
☆
平家は一度、清盛の在世中に福原へ遷都したことがある。その時に建造した御所がそのまま残っているはずである。
宗盛はそれを当てにしていたらしい。
「なんじゃ、この有様は……」
かつて福原御所と呼ばれたその建物は、壁は落ち、建物の奥まで見通せる程になっていた。もちろん建具なども残らず失われ、もはや廃屋でしかなかった。
「わずか数年で、ここまで」
絶句した宗盛は、その場に膝から崩れ落ちた。
「寝転んだまま星が見られますね」
佑音は天井を見上げた。屋根板も多くは剥がれ、雨露をしのぐ役にも立ちそうにない。
「気をつけろ。雨に濡れて床が腐っている」
足をとられかけた佑音の手を、慌てて知盛が引く。
うぎゃ、という声に振り向くと、教経が抜けた床に腰まではまり込んでいた。
「ほら。ああなるからな」
「分かりました」
「おい、笑ってないで助けてくれ」
ふたりで教経を引き上げると、まだ大丈夫そうな場所を選んで腰を下ろした。
「もはや平家の威光も通じなくなったようだな」
狩衣の木屑を払いながら、教経は息を吐いた。この荒れようは明らかに人の手に依るものだ。
「これから苦しい戦いになるだろう。西国も決して味方とは言えない」
仮にも御所であったこの屋敷。その目を覆うばかりの荒廃が、現在の平家の在り様を如実に表している。
「ここでは駄目だ」
知盛は顔をあげた。敵を迎え撃つには福原は京に近く、地の利も悪い。
「逃げるのではない。まず反撃の拠点を設けなければならん」
「どこにです?」
「四国の屋島だ。あの小島は後背が自然の要害に守られている。そこに瀬戸内の水軍を集結し、水上要塞を築き上げるのだ」
教経と佑音にも、大小の軍船が舳先を並べるその光景が頭に浮かんだ。
「すごい。……壮大な計画です」
思わず声をあげる佑音。教経も何度も頷いた。
「源氏が陸を支配するなら、我らは海から制するのだな」
「ならば、その前に瀬戸の両岸の豪族どもを討ち平らげておかねばならないぞ」
教経の言葉に、知盛も頷いた。
「そうだな、教経。まずは軍船と兵糧の供給元を確保しなければ」
むざむざと敗れはせん。そう呟き、知盛は沈みゆく月を見詰めた。
「まだ、月は輝いているではないか」
こうして知盛と教経は、のちに『六箇度合戦』とよばれる、瀬戸内地方平定の戦いを開始する。
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