紅の知将、西海を征く

杉浦ヒナタ

第1話 祇園精舎

 祇園精舎の鐘の聲、諸行無情の響きあり。

 沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理を表す。

 奢れる者も久しからず、

 ただ春の夜の夢の如し。

 

 (平家物語「祇園精舎」より)


 ☆


 平安朝の末。男は奈良の都、南都を見下ろす小高い山の上に立っていた。もちろん彼がこの有名な辞句を知る筈も無い。『平家物語』が成立したのは、彼がこの世を去った後の事だからである。


 しかし、戦乱に焼き払われた仏都を見下ろす彼は、まさにそれを身に沁みて感じていたのではないだろうか。仏の世界を顕現したと言われる南都。その数百以上の伽藍はすべて灰燼と帰し、平家の赤い旗印だけが揺れている。


「戦さのためとは云え、無残な事をする」

 穏やかながら理知的な雰囲気を持つその男は、固く唇を引き結んだ。


 時の太政大臣である平 清盛の四男、 知盛とももりというのが彼の名だった。

 後に、平家最後の名将と呼ばれるこの男だが、綺羅星の如き平氏一門の内にあって、和歌や管弦の才、容姿においても特筆すべき処はなく、いまだ無名の貴公子に過ぎない。まして彼の将才を知る者は居なかった。


重衡しげひらさまが、これを命じられたと聞き及んでおります」

 知盛の背後から低く声がした。抑えているが、若い女の声である。知盛は怒りを含んだ顔でその声の主を睨んだ。


 簡易な鎧を纏った戦装束の少女が鋭いまなざしで彼を見返す。やや小柄な知盛と同じ程の背丈だが、さすがに線が細い。後ろで束ねた長く美しい黒髪と、意志の強さを示す大きな瞳が印象的だった。


「たとえ事故だとしても、許されることではありません」

 あくまでも少女の口調は固く鋭い。


「分かっている」

 知盛は短く答える。重衡は彼のすぐ下の弟である。性格は明るく、戦上手であるが、少しだけ短慮な所があった。


「重衡さまに悪意が無いのは知っています。でもこれは……」

 少女は言葉を詰まらせ、焼け野原となった南都を見下ろした。

「酷すぎます」


 少女は平家の一族で伊賀氏の娘、佑音ゆうねという。彼女の母親が知盛の乳母であったので、知盛の乳母子めのとごにあたる。

 普段からお互い遠慮の無い間柄ではあるが、今日の知盛は何故か苛立ちを抑えられなかった。

「これは戦さだ。知った風な口をきくな」

 つい強い口調になった。先程の自分の述懐と矛盾するのも承知の上だった。


「……すみません。余計な事を申しました」

 あきらかに不承不承、佑音は頭をさげる。知盛は苦いものが胸に充ちた。


 まだ薄く立ち上る煙が風に流されて来る。焼けたのは伽藍だけではない。人が生きながら灼かれた、おぞましい匂いが鼻を衝いた。


 ☆


 知盛の父、平 清盛が太政大臣に任ぜられ平氏の栄華は頂点に達した。

 だがその一方で平氏に対する反感が強まり、各地で不穏な動きが見え始めたのもこの頃である。幾度も平氏打倒の陰謀が語られては露見し、首謀者は処刑された。


 夜な夜な内裏に出現するぬえを退治した事で有名な 三位ざんみ頼政よりまさ。この老人もまた平氏に対し深く恨みを抱いていた。

 朝廷の主要役職はすべて平氏に連なる者たちで占められ、源氏では僅かに頼政ひとりが高位にあるだけだった。京における源氏の棟梁と言っていい頼政は忸怩じくじたる思いだったに違いない。

 

 ついに頼政は皇子 以仁王もちひとおうを擁し、平氏打倒の軍を起こしたのである。それと同時に、以仁王の令旨を全国に送り、反平家への蜂起を促した。そして、ここ南都もいち早くそれに応じたのであった。


 仏教をはじめとする宗教勢力といえば非暴力の平和的な人々、というのは、この当時にしても全く当てはまらない。寺社はそれぞれ僧兵、神人じにんといった武装集団を抱え、互いに抗争を続けていた。それは各地に蟠踞ばんきょする豪族たちと、何ら変わるところはない。


 頼政の乱が失敗に終わり、事後処理のために南都入りしたのが重衡である。これは、頼政に加担したうえ、清盛の送った詰問使を惨殺するという暴挙を行った南都に対する膺懲ようちょうの意味合いが大きい。


 もし降伏するなら罪は問わない、という清盛に対し南都は街道の関所を僧兵で固めることで答えた。


 兵力で圧倒する重衡は関所こそ突破したが、寺院ごとに分散し頑強に守る南都 大衆だいしゅに思いのほか手こずった。やがて日は落ち南都は闇に包まれた。

 こうなっては地の利は南都側にある。


「火をいだせ!」

 重衡が命じたのも云わば当然の事である。兵たちは手近な建物を破壊して篝火とした。

 だがその火が周囲に燃え広がったのだ。燃え上がった炎は風を呼び、風は更なる炎を呼んだ。旋風に煽られて火炎は高く噴き上がった。


 南都が劫火に包まれるのに時間は掛からなかった。


 ☆


 京に戻った知盛は、書物を抱え部屋にこもった。

「誰も通してはならん」

 宿直とのいに言い置き、兵書を開く。以前に注釈を書き込んだ部分を見直し、新たに何事か書き加えていく。一心不乱にその作業に没頭していく。

 ふと気配を感じ、彼は書物から顔をあげた。


「何をしている、佑音」

 知盛の傍らで寝そべったまま本を読んでいた佑音は、意外そうに彼を見上げた。猫のようにお尻を上げ、ぐぐっと背中を伸ばす。


「何って。見てのとおり本を読んでいます。知盛さまも読みますか、源氏物語」

「いや、源氏はいらない。って違うぞ。そうではない、いつの間に入って来たのだ」

 やれやれ、と佑音は首を振った。

「わたしが刺客なら、知盛さまは三回は死んでいますよ」


 軽く舌打ちした知盛は、得意げな佑音の額を指ではじく。佑音は悲鳴をあげた。

「やめてください。痛いじゃないですか」

 額を押え、口を尖らせる。


「馬鹿。おれを狙うような輩はいない。おれは只の部屋住みだ」

 自嘲する知盛の頬を、佑音はそっと細い指先で撫でた。

「いつまでも、そうであれば……本当に良いのですけれど」

 それこそ世が平らかである証しなのだ。あんな南都のような事は、もうたくさんだった。


 知盛は佑音の手をとり、その指を口に含む。佑音は哀し気に笑った。

「相変わらず、知盛さまは傷つくと、すぐ本に逃げ込んでしまうのですね」

「……それは佑音もだろう」

 手を引かれた佑音は、そっと身体を寄せ、知盛の腕に抱かれた。


 ☆


 以仁王の令旨は、すでに爆発寸前だった東国に火種を放り込む事になった。

 伊豆に幽閉されていた源頼朝が、当地の豪族北条氏らの支援を受け平家打倒を高らかに唱えたのである。

 源氏嫡流である頼朝の挙兵をうけ、関東の諸豪族は次々と彼の麾下に加わっていく。ついには看過できないまでに、その勢力は膨れ上がっていった。


 事ここに至り、平清盛は征討軍の派遣を決めた。

 嫡孫、維盛これもりを大将軍、薩摩守 忠度ただのりを副将軍として急遽、東国へ下らせたのだ。

 

 東西の大軍は富士川を挟んで対峙した。


 



 

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る