第9話 平家軍の壊滅

 宗盛の視野の狭さは度し難い。尾張を捨て置き木曾義仲を討てというのである。知盛は使者を引見しながら目の前が昏くなる思いだった。


「それでは、鎌倉をどうするつもりなのか」

 自分が軍を退けば、すぐさま源頼朝が西進して来るのは明らかである。あまりにも場当たり的な対処しか出来ない宗盛に加え、周囲にもそれを進言する者が居ない事に、知盛は慄然とした。


維盛これもりさまが全軍を率いて北陸へ向かわれました今、京畿には朝廷をお守りする軍が一兵もおりません」

 使者は涙を浮かべ訴える。

「これには建礼門院さまも、ひどく心を痛めておいでです……」

「徳子が」

 それまで無表情なまでに硬かった知盛の表情が動いた。


 建礼門院。名前を徳子といい、知盛の同母妹である。高倉帝の中宮となり皇子をもうけた。その高倉帝も平清盛と時を同じくして世を去った。残された彼女は出家し、いまは建礼門院と呼ばれている。

 決して華やかではなく、清楚で何事にも控えめな彼女は、帝位を継いだ皇子、安徳天皇とともに、ただ平穏な暮らしを望んでいた。


「近江路を北上し、比叡山を押えよう」

 知盛は決然と顔をあげた。

 木曾軍の詳しい動向は伝わって来ないが、京への進路として比叡山の麓を通る事は間違いない。


「妹の徳子さまの事になると途端に、他はどうでも良くなるのですね」

 佑音ゆうねが呆れたように言った。知盛の徳子に対する態度は、ほとんど溺愛といっていい。それをよく知る佑音は苦笑を浮かべた。


「なんだ。兄が妹の心配をして何が悪い」

 まるで子供のように知盛は口をとがらせた。彼にしても対鎌倉戦略を放擲し、近江から北陸方面へ全軍を集中することに忸怩たる思いが無い訳ではない。


「限られた戦力を分散せず、全力で各個撃破に徹するのもひとつの手だ」

 どこか言い訳じみた口調で知盛は言う。


「戯言を申しました。では即刻出立できるよう、陣中に触れましょう」

 知盛が一度行った決断を翻すことは無い。佑音は頭を下げ、本陣を出た。


「旅装を整えよ、北へ向かうぞ!」

 佑音は馬で陣中を駆け抜けながら、よく透る声で指令を下した。

 

 維盛と共に木曾義仲を討ち、返す刀で、西進して来るであろう源頼朝を防ぐ。これが知盛が考えた戦略だった。

 もちろん彼自身、これが非常に困難な策であることは熟知していた。だが、これを成功させなければ平家の将来は無い。そのためには一刻も早く維盛と合流することである。

 これは文字通り、時間との勝負だった。


 ☆


 北陸での戦況を伝える使者が知盛の本陣へ駆け込む。

「我が軍は加賀の国境、火燧ひうちケ城を陥とし、更に進攻中!」

 維盛の率いる平家軍は、木曾方に転じた豪族たちを次々に打ち破っているという。知盛はひとまず安堵した。


 京へ向かう街道を横目で見ながら、知盛の軍は更に北上する。

「叡山の僧兵は動かないようだな」

 馬を並べた教経のりつねは遠くに見える山を指差した。

 天台宗の総本山、比叡山は多くの僧兵を抱え隠然たる勢力を保持している。

 それがこの動乱に当たり、不気味な沈黙を続けている。知盛からの申し入れに対しても返答は無かった。


「当面は情勢を眺めているつもりだろう。われらが優勢とみれば、味方につくのは間違いないが……」

 知盛は表情を曇らせた。以前から宗盛が工作を行い、書簡などを送っているのだが全く効果は見られない。それどころか、却ってその傲慢な文面が比叡山の門跡の反感を買っている事を、知盛は知る由もなかった。


 教経は端正な表情のまま、唇の端を少しだけ上げた。

「知盛。おまえは頭が良いから考えすぎるのだ。所詮、運命の行く末など誰にも分かりはしない。思い残すこと無く戦い、足掻き、それで駄目であれば、そこまでよ。後悔などあろう筈がないぞ」


「言っている意味は分かりますけど、教経さまらしく馬鹿丸出しですね」

 横から佑音が口を出す。

「うるせい、この両面背中女め」

「み、み、見たのですか。いつ見たのです!」

 せせら笑う教経。佑音は救いを求めるように知盛を振り返った。


「違いますよね、知盛さま。この無神経男に言ってやって下さい。わたしはそんな、前か後ろか分からない体型ではないと!」

「あ、いや……まあ」

 知盛は口を濁した。


 ☆


 街道の前方から、折れた槍を杖突いた雑兵がよろめき歩いて来る。その数はひとり、ふたりと増えていった。

 先陣を行く知章ともあきらは行軍を止めさせた。


「どうした。何があった?!」

 馬から飛び降りた知章は、その雑兵を問い詰める。

 そのいらえを聞いた知章は顔色を失い、後方の知盛のもとへ馬を走らせた。



 しばらくの間、知盛は言葉を発する事が出来なかった。

「先日は勝っていると、使者が参りましたのに……」

 代わりに呻くように言ったのは佑音だった。しかし目の前の兵が伝えたのは、そのすぐ後に陥った平家軍の惨状だった。


倶利伽羅くりからとうげと申すところで、木曾軍の奇襲を受け……わが軍は全滅っ!」


 項垂うなだれる兵を下がらせ、知盛は佑音、教経らを見回した。その目に普段の鋭さはない。虚ろな表情で知盛は口を開いた。

「聞いての通りだ。これでわたしの策は破綻したな。どうしたものか」

 それは自分に問いかける口調だった。


「京へ向かってはどうだ。こうなっては、守るべきは陛下だ」

 さすがに教経の判断は早い。

 頷いた知盛だが、その目は北に向いていた。

「もちろん京へは戻る。だがその前にやる事がある」


 知盛はもう迷っていなかった。

「このまま全速で北上する」

「待て、今からでは間に合わんぞ」

 あわてて教経が止める。


 佑音も不安げに知盛を見詰めた。

 知盛が敗戦で理性を失うような男ではない事はよく知っているが、この報はあまりにも衝撃が大きすぎた。


「心配するな。木曾に一矢報いようとか、そんな事は考えていない。まず敗兵を収容しなければならん」

 知盛の瞳に、また鋭い輝きが戻ってきた。


「おそらく別動隊の忠度どのまで、そう簡単にやられはしないだろう。あわよくば合流し、共に木曾を防ぎつつ撤退する」

「ですが、忠度さまも打ち破られていたら」

 佑音が言うのは最悪の想定だった。しかしそこから目をそむける事は出来ない。


「その時は逃げるさ。叔父上でさえ勝てない相手だ。それに……」

 知盛は、少し哀し気な笑みを浮かべた。


「京で最後の一戦をするための戦力は保持しておきたい」

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