第3話 富士川の合戦

「岸辺の水鳥が、一斉に羽搏はばたいたのだ」

 視線を空に向け、 忠度ただのりはささやくように言った。平家軍潰走のきっかけとなったその羽音が、知盛にも聞こえるようだった。


「運命と云うものに音があるなら、わたしはそれを聴いたのだと思う」

 忠度の表情に静かな諦念を感じた知盛は、思わず身体を震わせた。


「……忠度どのは、詩人うたびとであられる」

 やっとそれだけ言う。


 哀し気に、忠度は微笑んだ。


 ☆


 平家軍はいち早く富士川の河畔へ布陣した。

 これに先立ち、忠度は更なる進攻を提案していた。頼朝率いる叛乱軍は総兵力では平家を上回るが、その多くは未だ各街道からの集結途上にある。

「このまま全速で渡河し、行軍中の頼朝本陣を急襲するのだ。今なら兵数は、ほぼ互角ではないか」


 だが侍大将の上総守かずさのかみ忠清ただきよは頑強に反対した。総大将、維盛の後見役を務める忠清が維盛を危機に晒すことを恐れたからとも云われるが、確かに、攻撃に手間取った場合、源氏の別働軍に腹背を衝かれる恐れはあった。


「それでも、勝機は今この時しかない」

 忠度は尚も進軍を主張した。


 それに対し忠清は頑迷ともいえる態度でそれを退け続ける。

「我が軍は諸国駆り集めの兵ばかり。ここは富士川を防壁として東国の者どもを食い止める他ないと存ずる」

 さらに、清盛から兵権を委ねられたのは自分であるとして、忠度の策を一蹴してしまう。そして維盛ら他の将も忠清の意見に従った。

 立ち尽くす忠度は、陣中で孤立した。


 富士川を挟んだ両軍の睨みあいは数日にわたって続いた。すでに源氏にくみする豪族は揃って到着し、戦場の主導権は完全に源氏方に移っている。もはや敵の総攻撃を座して待つしかない忠清と維盛には、明らかに焦りが見え始めていた。

 やはり敵が少数のうちに決戦しておけば、と云う声すら陣中に聞こえている。

「何をいまさら」

 忠度は口惜しさに歯がみした。




 雲のない星空がやや白んで来るころ、川の水面から霧が立ち昇りはじめた。

 それはやがて岸辺の芦原あしはらすら見えないほどの濃霧となり、忠度の陣屋にも緩やかに流れ込んできた。


「霧か……」

 細かな水の粒子を含んだ空気が、ひんやりと頬を撫でる。

 目を覚ました忠度は素早く身体を起こした。仮眠をとりながらも、彼は甲冑を着たままだった。

 武士もののふとしての勘が、武装を解くことを拒んでいたのだ。


 耳を澄ますと、川に近い辺りでざわめきが聞こえる。

「敵ではないな。此岸か」

 間もなく夜が明ける。この深い霧も含め、朝駆けの奇襲を敢行するには良い頃合いである。だがそれは源氏方にとっても条件は同じだった。

「維盛卿へ伝令を送れ。敵襲に備えよ、と」


 だが暫くして戻って来た伝令は、ひどく息を切らせていた。

「総大将は、本陣におられません」

 まさか、と忠度は立ち上がった。

「どうやら上総守さまと最前線へ向かわれた由」


「馬鹿な!」

 総大将の維盛みずから抜駆けし、奇襲に出ようというのだ。功を焦り血迷ったとしか思えなかった。おそらく夜襲なら比較的安全だとでも考えたのだろう。

「上総守ともあろう者が浅はかな」


「全軍に伝令。直ちに戦闘の用意をせよ!」

 忠度は叫んだ。


 忠度麾下の軍兵はすでに完全武装し整列している。彼らもまた主将と同じく軍装を解いていなかった。そこは常に忠度に従い、平家随一の戦歴を誇る彼らである。漆黒の具足で固めた軍団は、白い霧を衝き前線へ向け動き出した。



 駆ける忠度軍の前方で喊声が起きた。同時に、雷霆いかずちと紛うばかりの響きが地から沸き上がり、彼らの頭上を通り過ぎて行った。

「な、何だ?!」

 忠度ですら思わず目を閉じ、首をすくめた。


 それが水鳥の羽搏きであると気付いたのは、やや後になってからだった。何千羽とも思える水鳥が一斉に飛び立ったのである。

 そして、その理由はただ一つ。


「来るぞ!」

 川の流れの中に、馬の駆ける水音が混じる。平家軍の奇襲に先んじて源氏方が総攻撃をかけて来たのだ。


 忠度の前を半裸で丸腰の男が逃げていった。平家軍の多くは、武装を解き居汚く眠りこけていた。

 舌打ちした忠度は太刀を振り上げた。

「逃げるな。逃げて死ぬのなら、闘って死ね!」

 戦場で鍛えた大音声で全軍を叱咤する。


 そこへ敵方から声があがった。

「平維盛を討ち取ったっ!」

 忠度は息を呑み、瞑目した。総大将が討たれたならば、戦さは万事休すである。平家方は一気に崩れ立った。


 こうして、闇夜のような濃い霧の中での戦いは終わった。

 河原には源氏方のときの声だけが何度もあがった。


 ☆


 維盛の討ち死には、源氏方が意図的に流した虚報だった。しかし深い霧の中では、事の真偽を確かめる術もない。源氏の戦術勝ちであったろう。


 殿しんがりを務めた忠度は子飼いの将兵の多くを失った。全滅も覚悟した頃、頼朝は急に軍を退いた。そして鎌倉に戻り、そこを本拠とする。

 これには不足する兵糧の問題もあったが、性急な平家打倒よりも、東国武士を傘下に収める事を優先するという現実的な判断だった。



「ではこの宗盛が東夷あずまえびすどもを討ち果たしてご覧に入れる」

 朝議の場で宗盛はそう宣言した。維盛が失敗したことを利用し、自らの権力基盤を固めようとする下心があるのは明らかだった。

 本来なら清盛の嫡子、重盛の系統が平家棟梁となるべき処を、弟の宗盛が不当にその座を占めているという批判があったからである。

 ここで大きな武功をあげて、その声を黙らせるつもりだったに違いない。


 だが彼の取巻き以外にそれを真に受ける者はいなかった。宗盛は事あるごとに自慢げに出陣を吹聴するが、そのための兵が集まる目途すら立たない有様だった。



 そんな中、平家にとって遥かに重大な危機が訪れた。

相国しょうこくがお倒れになりました」

 蒼ざめた顔で佑音が報告する。


 相国、平清盛は病に倒れた。

 それは古来に類を見ない程の凄惨な熱病であったと、書物は伝えている。



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