灌頂卷~六道の果て

 細く続く道の両脇には、丈高い草が生い茂り、行く手を覆い隠している。

 葉桜は小さくため息をついた。しかしそれは途の困難さにではない。

「このような所にお住まいなのですか、……建礼門院さま」


 かつては寺院に属するぼうだったのだろう。しかし取り囲んだ壁は崩れ落ち、その屋根には名も知らぬ草まで生えている。人の住まぬまま長く打ち捨てられていたのは明らかだった。

 ただよく見れば所々補修した痕が見える。建礼門院がここを居所と定めた時に、誰かが手を入れたものだろう。

 辛うじて人が住める状態である事に、葉桜は少しだけ安堵した。


 建礼門院とは、平家の最盛期を築いた平清盛の娘であり、壇ノ浦に沈んだ先帝、安徳天皇の母御である。

 安徳帝の後を追い海に身を投げた彼女は、無情にも源氏の武者に掬い上げられた。その後、落飾し、都からも遠いこの小原おはらの地に庵を結ぶ事になったのだった。


 従者を塀の外に待たせ、葉桜は戸口に立った。

「どなたか、いらっしゃいませんか」

 声に応じ、尼僧姿の老女が出て来た。その顔を見た葉桜は声を失った。老婆と見えたその女性は、葉桜もよく知る人だった。

大納言だいなごんのすけのつぼねさまではありませんか」


 老いさらばえたように見えるその女性は葉桜と同年代のはずだ。なぜなら、彼女の亡き夫は、三位中将  重衡しげひらなのである。

 重衡は忠度ただのり知盛とももりらと共に平家を支えた名将の一人である。一の谷の敗戦で捕虜となり、かつて南都攻略の将であった事から、仏敵として斬られたが、その死は敵味方の双方から惜しまれた。


「ああ。これは葉桜どのか?」

 大納言佐局は驚きの表情を浮かべた。しわばみ、艶のなくなった顔には、確かにかつての美貌をうかがわせるものがあった。

「お久しゅうございます、大納言佐局さま」


 涙を浮かべた大納言佐局はそっと顔をそむけた。

「このように老いさらばえてしまいました。恥ずかしい次第にございます」

 葉桜はこの女性が過ごした辛く厳しい暮らしを思い、胸に痛みを覚えた。


「建礼門院さまはおいででしょうか」

 葉桜は言葉を絞り出した。


 ☆


 建礼門院徳子は床に伏していた。

 病にやつれ、老いがその肌にも刻み込まれていたが、かつて国母であったという気品は失われていないように葉桜は感じた。

 柔らかな笑みを浮かべた建礼門院は、葉桜を見てうなづいた。

「忠度さまとのお話しは、わたくしも聞き及んでおりましたよ。かしがまし…と仰って忠度さまを追い払われたとか」


 葉桜は顔が赤くなった。あの一件を院にまで知られていたとは思わなかった。

「宮中とは、他人の恋の噂よりほかに、楽しみが無いものでしたからね」

 ほほほ、と大納言佐局も笑った。

「本当に、あの頃は愉しかった……」

 閉じた建礼門院の目から涙が伝った。


 自分も涙をぬぐい、葉桜は来訪した用件を切り出した。持参した包みを建礼門院の方へ差し出す。

「ある方から、これを建礼門院さまへお渡しするようにと」

 

 大納言佐局がそれを開ける。中はちいさな直衣のうしだった。

「ああっ!」

 建礼門院が悲鳴のような声をあげた。

「そ、それは。……こちらへ、早く」

 起き上がろうとする建礼門院の背中を、あわてて葉桜が支えた。


 ……ああ。建礼門院は、その直衣を胸に抱くと、今度は大きく息を吐いた。

「この直衣は、もしや」

 大納言佐局も涙を流している。

「陛下のものです」

 それは、壇ノ浦に沈んだ安徳天皇が日頃、着用していたものだった。



 我が子の形見として手元に残しておいたこの直衣だったが、建礼門院は出家の儀を執り行った際、阿闍梨への御布施としたのである。

「あの頃にはもう、私の身の回りには価値のあるものなど、何も無く」

 身を切る思いで、最後に残ったこの直衣を手放したのだった。

「それがこうやって戻って来るとは」

 建礼門院はそのまま泣き伏した。


 ☆


 それからまた月日が過ぎた。

 建礼門院は大納言佐局に命じ、枕元に置いた観音像の御手と自分の手を細長い布で結んだ。もはや建礼門院の命の灯が消えようとするのを止める術はなかった。あとは観音菩薩の導きに依るほか無いのだった。


「ただ一つ心残りは、もう一度……」

 言いかけて建礼門院は口をつぐんだ。かすかに首を横に振る。

「止めましょう。今際の際に思う事ではありませんでした」


 低く呼ばわる声が門口から聞こえた。

「何でしょう、このような時に」

 大納言佐局は立ち上がると庵の外に出る。そこには修験者姿の男が立っていた。

「あなたは」


 男は建礼門院の枕元に座った。

 そっと、そのやせ細った手をとる。

「よいのですか、このような場所に来て。見つかったら大変」

 言葉とは裏腹に、建礼門院の口元がほころんだ。一気に十数年も若返ったような笑みだった。


「構うものか。兄が妹に会いにきたのだ、徳子」

「知盛兄さま」

 知盛は何度もうなづいた。


 壇ノ浦の合戦のあと姿を消した知盛は野に隠れ、生き残った平氏を支援してきたのだった。源氏に睨まれないよう細心の注意を払い、建礼門院の生活を支えてきたのもこの知盛だった。



 その後まもなく建礼門院は世を去った。

 天上人ともいえる宮中世界から、修羅道、餓鬼道という、文字通りの六道を経た彼女は、やっと安息の場所へたどり着いたのかもしれない。



 平家一門は、彼女の死をもって歴史の表舞台からその姿を消した。



 ―― 了 ――

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紅の知将、西海を征く 杉浦ヒナタ @gallia-3

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