第4話 知盛の出陣

 入道相国、平清盛は突如として高熱を発した。その様子を平家物語ではこう伝えている。

『臥し給える所、四、五間が内に入る者は熱さ堪え難し』

(看病のために近くに寄るだけで、清盛の身体から発する熱で耐え難いほどだ。)


『石やくろがねなどの焼けたる様に、水迸って寄り付かず。自ずから当たる水はほむらとなって燃えければ、黒烟こくえん殿中に充ち満ちて、炎渦巻いてぞ揚がりける』

(身体を冷やすために水を掛けようとしても、まるで焼けた鉄に水滴を落としたように弾かれ、まれに留まった水も炎となって燃え上がり、その煙が殿中に満ちた。)


 人の身体がこれほどの熱に耐えうる筈が無い、そう嗤うのは容易である。だがそれは、あまりに表面的と言わざるを得ない。

 真の問題は、この当時の人々が清盛はと考えた事にあるのだ。

 これが為政者である平家への隠された思いだとすれば、その後の平家没落の理由も容易に想像がつく。

 民心はすでに平家から離れていたのである。


 ほどなく清盛はこの世を去る。その遺灰は、日宋貿易の拠点とするため清盛が築いた攝津国つのくにの人工島、経ヶ島へと埋葬された。


 ☆


 沈鬱な雰囲気が堂内に充ちている。正面には宗盛。その傍らには一族の重鎮である時忠と、清盛の正室、二位尼にいのあま時子が並ぶ。


「平家にあらずんば人にあらず」

 かつて、そう豪語した時忠もさすがに顔色が冴えない。

 もとより、文武ともに何ら目立った功績の無いこの男は、時の権力者に擦り寄ることで現在の地位を得ていた。

 つまり権勢の衰微を感じ取る能力は人並み外れていると云っていい。その男にして、現在の平家の状況は危機的以外の何物でもなかった。


「東海道において、再び賊徒が蜂起した。新宮行家という者である」

 宗盛が口を開く。新宮十郎行家は頼朝の叔父にあたる。源三位頼政の乱に際して以仁王の令旨を各地の源氏に伝えたのがこの男である。

 現在は頼朝と袂を分かち、僧籍に在る頼朝の 義圓ぎえんを擁し、東海地方に独自勢力を築こうとしている。


「追討軍を編成せねばならん。よって、総大将は維盛。副将は薩摩守とする」

 これは前回、大敗を喫した二人である。

「雪辱の機会を与えてやろうというのだ。感謝するがよい」

 堂内がざわつき始めた。雪辱といえば響きは良いが、仮にもし敗れるようなことがあれば、彼らの宮廷人としての生命は完全に断たれるだろう。

 誰もが宗盛の悪意に気付いていた。


「いや。維盛どのは負傷されて、ただ今療養中ですが」

「忠度さまも先の敗戦のとがで、宗盛さま御自身が謹慎を命ぜられたのでは」

 人々は堂の片隅にひっそりと控える忠度を見た。

 む、と宗盛は口を曲げた。

「ならば特別に許す。忠度どのを大将に……」


「お断りする。皆も知る通り、わたしは総大将などという器ではない」

 忠度は傲然とした態度で目を細めた。


「で、では、誰ならば良いと云うのだ。言ってみろ!」

 周囲からの醒めた視線に耐えかねたように、宗盛は甲高い声で喚く。忠度は微かに笑みを浮かべたように見えた。


「されば、左兵衛督さひょうえのかみ知盛を推薦いたす」


 ☆


「すまん。つい、その場の勢いでな」


 愉し気に笑う忠度を知盛は睨みつけた。

「嘘を吐け。絶対に計画的だっただろう」

「まあ、少しはな。あそこまで上手く行くとは思わなかったが」


 そこで忠度は酒を一口含んだ。

「うん、美味い。やはり美人が傍にいると、酒の味まで違うものだな」

 嬉しそうな佑音の隣で、知盛は、はあっとため息をついた。

「面倒を押し付けてくれたものだ。なあ、叔父上」

 ふっ、と忠度は笑う。


「だが問題は今回の敵は比較的に小勢だということだ」

 すぐに忠度は真剣な表情になった。知盛も頷く。


「それが何か。大軍勢より、ましじゃないですか?」

 佑音は首をかしげる。

 苦笑した忠度は、ぐいっと杯を干した。

「だから、増援を出す必要はない、と言いやがるのさ」


「おれの手勢だけで向かえと、そういう訳なのだな」

 小心者の宗盛らしいやり口だった。どうしても自分以外の者が功を成すのが許せないらしい。加えて、ただ単に戦を知らないという事もあるだろう。

 東国は源氏の者が多く住む。これから続々と新宮行家の陣に加わる者が出るに違いない。


「今でこそ、敵はまだ少数だが、やがて何倍もの兵力になるやも知れぬ。どうだ。それでも征くか」

 目じりを下げて忠度は問いかけた。但し、もう答えは分かっているが、という顔だった。


「まあ、やってみるしかないだろうな」

 知盛は杯を手に嘯いた。

 

 ☆


 出立間際になって軍に加わった集団があった。率いるのはまだ少年のような男である。

「清経どの。合力、感謝する」

 知盛は頭をさげた。清経も恐縮したように身を縮める。

「いえ、わたしなど何の力にもなれませんが、どうぞよろしく」


 平清経は清盛の嫡子重盛の子で、維盛の弟である。横笛の名手として知られるが、決して武人とは言えない。慣れない甲冑で身動きすらままならない様子に、知盛は密かにため息をついた。


「宗盛め。陋劣な真似をする」

 戦さに慣れない清経を追討軍に加えたのは、ただ知盛を牽制するために違いなかった。また、兄の子である清経も自分の障碍しょうがい物としか見ていないのだろう。



「さあ、行きましょうか、大将軍さま!」

 先陣で明るい声を上げたのは佑音だった。甲冑姿にも関わらず身軽に騎乗すると、知盛に向かって大きく手を振った。


 慣れない呼び名に苦笑いを浮かべながら、知盛は采配を高く掲げた。


「出陣!」

 

 こうして知盛は源平合戦の表舞台へと上っていった。



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