終章ー1ー

 報酬は――たった二回で二十万と少しを稼いでいた。ブラックバイトが多い現代において、かなり好条件で破格のバイトである。

 もっとも、受けられる人は限られるんだから、妥当と言えば妥当な線だとも思うけど。

 これまでの報酬を全額貯金してもよかったんだけど、日頃の感謝と、あと、ひどく個人的な目的があって、高橋さんにお願いして小旅行を手配してもらった。ああいう、怪しげな廃屋とかをなんとかする仕事なら、逆に安くて良いホテルの当てもあるだろうと踏んで。

 そして、その予想はバッチリと当たっていた。

 山間のあの町から、比較的近い海辺のホテル。スウィートとはいかないけど、二人で使うには充分に広い部屋。三階の窓には、水平線が綺麗に映っている。

「つっかれたー」

 部屋に着くなり、唯さんがベッドに飛び乗った。

「まだ移動しかしてませんよ」

 笑いながら僕はボストンバックを棚に載せ、細々した品を確認する。……あと、ここ最近は霊的なものが矢継ぎ早に訪れてもいたので、絵の裏なんかに御札がないかとかも、ついつい確認してしまう。

「電車でも全力だったもん」

 背後から唯さんの反論が聞こえてきた。

 確かに、特急の二人掛けの席で終始はしゃいでいたし、そうなのかもしれないけど、なんだか本末転倒というか、メインディッシュにいく前に満腹になったような、ちょっと中途半端な感じがしてしまう。

「しばらく部屋で休みますか?」

 まだ午後になったばかりだったけど、二泊三日の旅だし初日は大人しくしているのもいいかなと思って訊いてみると、唯さんはきょとんとした顔で訊き返してきた。

「え? なんで? 泳ごうよ。折角来たんだから、もったいないし」

 唯さんは、最初の疲れた発言なんて忘れてしまったように、ピョンとベッドから跳ね降りて、僕の腕を抱いた。

 意味は違うけど、状態の変化としては、鳴いたカラスがなんとやら……みたいだ。

 とはいえ、僕の方も海に来た経験はほとんどなかった――小学校の宿泊学習で来た一回だけ――ので、海に興味もあったし。

「そうですね」

 と、僕は答え、結局はそういうことになった。


 七月も終わりに近付いてきた暑い日だったけど、普通の平日だからか、海に人は少なかった。天気快晴。絶好の海日和といえる。難点を言えば、日差しが強くて本当に焼かれてる気分になったことぐらいか。

 日光だけでへばりそうだ。

 まあ、僕も唯さんもどちらかといえばインドア派だしな。

 先に着替え――というか、ホテルの地下階にある更衣室へ入ったのはほぼ同じだったはずなのに、浜辺への直通路を抜けたのは僕が先だった。

 浜辺に親子連れはあまりいないようだ。サーフボードを持った人達が沖へと向かい、近い場所では夏休みに入った小学生達が大声を出して遊んでいた。

 無邪気だな、と、思う反面、自分が一昨年ああいう年だったということが、いまいち信じられなかった。

 まあ、昔から大人びているとは言われてたしな。それにそれを言うなら、今の同級生の中学生達も、自分と同い年だって言うことがいまいち納得出来ないし、そういうものなのかもしれない。

 そんな取りとめもないことを考えてはみるけど……五分経っても十分経っても唯さんは出てこなかった。

 二十分が過ぎ、流石になにかあったんじゃないかと不安になり始めると――。

「い、いたるいたる、いたる!」

 ハイテンションで名前を連呼され、そちらに視線を向ける。

「ビ、ビキニ、です。はい」

 いつもよりも赤い顔をした唯さんが、ちょっとぎこちない動きでポーズをとった。

 布の部分がピンクで紐の部分が黄色のちょっと幼い感じの水着だったけど、唯さんにはよく似合っていると思った。

「か、感想、は?」

 唯さんは、水着に着替えただけで、もういっぱいいっぱいという顔をしていた。

「ビキニと下着は大差ないですよね?」

「え? う、うん、そう」

 なぜか戸惑ったように返事する唯さん。

 唯さんの態度の変化がよく分からなかったけど、僕は訊かれたとおり率直な感想を伝えた。

「ビキニで海にいれるなら、部屋で下着でいても良いのかな、と、思いました」

「あ、そっか、なるほどー。……い、いたる? 今は、そのそういう話じゃなくてね? ま、まあ、でも、楽だし、格がいいなら、今度部屋でもそうしようかなって、は、その」

 唯さんは困ったような顔で、まるで言い訳みたいな台詞を口にしている。

 ああ、身体のことや似合っているかどうかの話か、と、ようやく合点がいった僕は、再び改めて唯さんの全身を眺める。

「しゅっとしたうなじが綺麗で、鎖骨から肩のラインにえもいわれぬ色気があり、胸も綺麗な形で、腰もキュッとくびれていて、お尻も太股も魅力的です」

 断言すると、唯さんは真っ赤になった。

「い、いたーる? そういうのは、いけないナンパ師みたいだからね? 私以外には絶対に言わないこと、約束」

「はい。これも唯さん専用なんですね」

 少しだけ口元を緩めて尋ねると、唯さんの顔に一層の朱が注がれる。

 ああ、もう、あっついなー、なんて口にしながらも、満更でもなさそうな唯さん。

 ――と、そこで唯さんの視線がビーチの大学生ぐらいの男女のグループに注がれた。

「もう。こういうの、社会人になったら着れなくなると思ってたのになぁ」

 改めて自分自身の水着を見つめながら、ちょっと複雑そうな顔で呟く唯さん。

「なぜですか?」

「女の人はそういうものなの」

 唯さんは怒った調子でそう言って、先に海の方へと駆け出してしまったので、僕は慌てて背中を追った。


「格は、さ。その、目移りとかしないの?」

 言われて周囲を見てみる。

 同い年ぐらいの女の子もいないわけじゃない。けど……。

「なぜですか?」

「いや、なぜって……」

 訊き返されて、露骨に焦った顔をする唯さん。

 ふむ。

 と、腕組みして一拍待ってみるけど、唯さんは明白な返事をしてくれなかった。

「僕は唯さんが売約済みでは?」

「……そうきたか」

 作った澄まし顔で念を押すように訊いてみる僕に、ジト目で返す唯さん。

 ふ、と、再び僕は頬を緩め――。

「それに、唯さん以外の人に魅力を感じませんし」

 と、続けた。

 驚いて真っ赤になって固まった顔が目の前にある。

 折角の海なんだしこういう時は……。

 旅館のパンフに載っていた男女がしていたように、唯さんの顔に水をかけ、僕は海の少し深い部分めがけて飛び込んだ。

 本気で泳いで逃げたわけじゃない。

 だから、唯さんに数秒後には捕まり――いつもみたいに抱きつかれてしまった。

 ギリギリしか足が付かない海中での抱擁は、お互いの体温がくっきりと肌で感じられ、ほんのりセンチで、でも、くすぐったくて温かかった。


 結局、午後の全部を海で過ごしてしまい、ホテルの部屋へと戻ったのは夕焼けになる一歩手前ぐらいの時間だった。

 遊びつかれたのか、部屋に着くなりベッドにダイブした唯さん。

 確かに泳ぐと体力を消耗するからな、と、思いながら僕は窓際の椅子に座る。日はもう半分ほど地平線の下にあるようだった。

 明日も晴れだと確信できるような夕焼け。

 西日が赤く部屋に差し込んでいた。

「ねー? 格ー?」

 少し眠そうな調子で呼びかける唯さんは、ベッドにうつぶせになったまま足をパタパタさせている。一直線に切りそろえたようなボブの髪は、まだ少し濡れている。灰色のキュロットスカートの端が、ひらひらと際どく揺れていた。

 もしかして、泳ぎ足りないのかな?

「はい?」

 相槌を打つ僕を一目見ただけで視線を逸らし、壁を見ながら唯さんは話し始めた。

「格は都合良く彼氏になったり、従姉弟になったり、器用に振舞うけどさー」

 さっきまで動かされていた足が止まった。急に部屋が静かになる。少し遠い海の音とか、クーラーの稼動音が不意に高くなった気がした。

「結局、本当はどう思ってるの?」

 少し拗ねたような声が、すっと心の奥に滲みる。

 続く言葉を待たずに僕は立ち上がった。

 逆光の中にいるから――、きっと、唯さんは僕の今の表情を見えていないと思う。多分、僕は今、本当に初めて自然に笑えている気がした。

「……私のこと」

 唯さんの口に残った最後の言葉が放たれる。

 どこか子供っぽい、尖らせた口と、いじけたように少し細められていた瞳。

 ベッドの顔の横に軽く腰掛け、唯さんが僕の目を見ようと顔を上げた瞬間に頬にキスを降らせた。

「い⁉」

 余計なことを言おうとした口を、唇で塞ぐ。

 最後に、最初したのと反対側の頬にもキスをしてから、ようやく僕は唇を離した。

「最初の日には、唯さんがしたでしょ? お返し」

 目を瞬かせている唯さん。

 いつもなら叫んでるほどに顔が赤いのに、今日はまだ沈黙を守っている。


 僕は……、急に少し気恥ずかしくなって、立ち上がり、夕飯の前に内風呂でひとっ風呂浴びてこようかと思いバスルームへと向かう。

 唯さんからは、どんな声も掛からなかった。

 後ろ手にドアを閉める瞬間、少し不安になり、決め台詞というか棄て台詞のような――いや、初めての告白なんだからしょうがないのかもしれないけど、少し難解な言葉を残してしまった。

「意味は――、自分で思い出して。約束したでしょ? 他ならぬ唯さん自身で」

 本当は、シンプルに好きって伝えるつもりだったのに。

 どうやら、僕もまだまだ子供だったらしい。


 初めて会った日から今日までで一番の奇声が背後から響いてきて――。

 ベッドで暴れるバフンバフンという音も聞こえてきた。

 ふふ、と、自然と笑みがこぼれた。

 ちょっと子供っぽい年上の恋人の悶える姿が目の前に浮かんでしまって。

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格と唯 一条 灯夜 @touya-itijyou

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