序章ー4ー

「はッ! ……あ、ッツ」

 いつのまにか止まっていた息を吐き、新鮮な空気を吸う。

 呼吸が大きく乱れている。微かに頭の奥が鈍く痛んだ。

 どのぐらいの時間、息をしていなかったんだろう?

 臨死体験? ……いや、そういうものじゃないことは分かっているけど、他の表現も浮かばない。

 あの世? 三途の川? いや、それは仏教だけの話だったっけ?

 あれは、いったいなんだったんだろう。

 今日まで、夜の眠りの中でしか見ていなかったあの世界は……、ただの夢じゃなかったってこと、なのか?


「あの? 大丈夫ですか?」

 膝を折って荒い呼吸をしている僕を不審に思ったのか、心配そうというよりは怪訝そうな声が上から降ってきた。

 なにかしたわけじゃないし、それは彼女自身も分かってくれていると思うけど……まあ、唐突にお腹に触って息を荒くする人物は、確かに信用されないか。

 大丈夫です、と、顔を上げて答えようとして――目の前にある小さな臍と、きゅっとした腰のすぐ上にあるお腹に違和感を覚えた。

「消えてる」

 理解は、自分自身の呟きの後に来た。

 酷く爛れたようなあの傷は、もうどこにもなかった。最初に見た患部は寄生しているようにやや盛り上がっていたので、剥がれ落ちたのかと思って床も確認してみるけど、どこにもそんな痕跡がない。僕の手も、どうにもなっていなかった。

 ただ、触れただけで消えていた。

 そういうモノだったのかな?

 気味悪い外見をしているから、誰も触れない。憑いていた人も、人に相談しにくい。だから悪化する。でも、本来は弱いもので――軽く触れるだけでもどうにかなってしまうような、そんな……霊的ななにか。

 いや、変な疑似科学っぽい論理はよそう。呪いを払うインチキ教祖になんてなりたくない。


「はい?」

 かなりテンポが遅れて、女の人が視線を下げる。

「あ!」

 暗かった表情が、一瞬で華やいだ。

 自分の手であれが付いていた部分をさすり、異常がないのを確認し――僕の顔を真正面から見て、満面の笑みで叫んだ。

「や、やった! え? ほんとに!? 嬉しい! ありがとー!」

 今日は、初めてのことづくしだ。矢継ぎ早に起こったことを、上手く理解し、整理出来ない。

 例えば、誰かとこんなにも話をしたこと然り、さっきの怪我の痕……のようなものが消えたこと然り、目の前の女の人が全力で僕を抱きしめていること然り。


 彼女が冷静になりのに要したのは、四~五分。

 突然、背中に回された腕の力が緩んで、視界の端に映っているうなじが赤く染まり、最初とは若干声色が違うけど、同じようにつっかえながら彼女は話し始めた。

「あの、すみません……。その――」

 ゆっくりと、彼女の体温が離れていく。

 その顔を正面から見れば、真っ赤に茹で上がっていた。

「ありがとうございます。……えっと、あ! すみません、お名前もまだでしたよね」

 照れているのか、さっきよりも、いや、最後の方は今日一番の早口で言い切った彼女。

「いえ、こちらこそ、なにもお出ししていなくて――」

 と、知識としてはおもてなしというのを知っているものの、ここにあるものといえば、水ぐらいで、しかも、コップは自分の分しかなかった。

 自分のコップに井戸水を汲んで出すというのは、逆に失礼に当たるまいか?

「すみません。お出しできるようなものも、ないですね……家には」

「ひとりで住んでいて、さみしくないんですか?」

 彼女が気を悪くした様子はなく、逆に、きょとんとしたやけにニュートラルな表情で尋ねられてしまった。

「物心ついた時からそうでしたので、さみしいと感じたことはないですね」

「物心ついた時から?」

 僕の言葉の冒頭を復唱し、しばらく何事かを考えている様子だったけど、不意になにかを閃いた顔になり――。

 どうしてか、凄く不安そうに身を捩った。

「えっと、あの、失礼でしたら申し訳ないんですけど……えっと」

 足とか、指先が漫ろだ。

 そして、言いかけて止まった言葉は、それ以上出てこなかった――。

 そういえば、名前を訊かれて答えていなかったな、と、思い出し、彼女が僕の名前を呼ぼうとしているのだと気付き、足を正座に戻して一礼して自分の名を告げた。

「あ、名前、まだでしたよね。すみません。僕は、来栖 格。格闘技の格と書いていたると読みます」

「私は、長谷川 唯です。普通のはせがわに、普通のゆいです」

 どうもご丁寧に、とでも言うかのように、目の前の女の人も深々とお辞儀を返してきた。

 ただ、顔を上げた時には、やっぱりどこか不安そうな表情が覗いている。

 長谷川さんの唇が、言おうか言うまいか迷うように、不安そうに動き――。一度キュッと口を窄めてから、意を決したように大きな声を出した。

「それで、あの……来栖さんは、ひと、ですか?」

 最初の勢いは、最後まで持っていなかった。語尾が物凄く窄まっている。

 そして、僕の方はと言えば、訊かれている意味を理解するのに少し間が必要だった。

 僕が、ひと……?

 成程、言われてみれば、確かに鋭い意見だ。これまで生きていて、僕は自分自身のそこを疑問に思ったことはなかった。妖怪とかだから、こうした生活が苦にならないのかもしれないな。そして、さっきのああいう気味の悪いモノを払えたりするのも、普通の人が立って歩くように、僕と言う存在にとってはごく自然なことなのかもしれない。

 でも――、自分が人間か否かは、どうやって確かめればいいんだろう?

 ……い、いや、馬鹿か僕は、この春の終わりに学校で身体測定と健康診断をやったばかりじゃないか。

「確かめてみますか?」

「――えっ?」

 問い掛けた瞬間、長谷川さんの身体が微かに強張るのが分かった。が、逆に丁度良い具合に、肩を竦めた反動で持ち上がった彼女の手が目の前の中空にあって――。

 長谷川さんの右手を両手で優しく取って、自分の胸の中央に乗せる。

 心臓の上にある自分じゃない人の体温に、なんだかとても不思議な気持ちがした。

 まるで、僕の鼓動に合わせたようなリズムで、彼女の表情が柔らかくなっていく。

「ちゃんと人でした」

 時計の秒針が一周するぐらいに、僕の拍動を辿った長谷川さん。照れているのを必死で誤魔化しているような顔で、はにかんでいる。

「それはよかったです」

 僕が返事すると、長谷川さんは手を引いた分だけ顔を近付け、まじまじと僕の顔を――鼻同士がぶつかりそうな距離で見てから、付け加えるように言った。

「それと、ちょっとカッコイイですよね」

 それは、良く分からなかった。

 無表情で不気味と言われることは多かったけど、かっこいい、とは初めて言われた。

 どういう反応を返せば良いか判断出来なかったので、曖昧な表情を向ける。

 僕の態度が正解だったのか、長谷川さんは嬉しそうに笑っていた。

「すごく冷静で、落ち着いてるから、私、つい誤解しちゃったみたいです」

 ああ、確かにさっきの病巣はあまり気持ちが良いものではないし、見える人は顔を顰めるのが普通だったのかもしれない。

 まあ、僕自身が人からそういう表情をされることが多いので、なにを見てもあまり動じられないんだよな。もっとも、そういうグロテスクなモノに対して仲間意識があるわけじゃないけど。

 ちなみに、僕を落ち着いていると評した彼女は、やや落ち着きがないような気もする。感情表現が豊かなので、考えていることや気持ちが、すぐに前に出て来ていて。

「ずっとここに御独りで?」

 最初の質問に立ち戻った長谷川さん。

 もう答えた、そう思ったけど、聞き逃されていたのかもしれないので、一応、返事をする。

「そうですね」

「大変でしょう?」

「……比較が上手く出来ませんので」

 僕以外の中学生がどういう家に住み、どんな生活をしているのか、僕は知らなかった。断片的なものは、クラスメイトの会話から聞こえるものの、それを繋ぎ合わせて、普通の生活という物を想像する必要性もなかったし。

 普通の人というモノは、所詮、別の存在だと割り切っていた。

 先のことといわれても、漠然と高校へ進学する程度のことしか思い浮かばない。

「あの、なにかお礼を」

 話をそこに持っていくためのさっきの『大変でしょう?』という質問だったのだと、ここでようやく僕は気付いた。

 大変な部分を言えば、その物品を調達してくれたのかもしれない。

 だけど――。

 一拍だけ僕は考えてから答えた。

「大丈夫です。それに、自分になにが出来たのか、いまひとつ分かってもおりませんし」

「少しぐらいならお金も出せますし」

 その提案も、首を横に振って断る。

 お金は、あって困るものではないけど、今現在不足していて苦しい状況ではないので――しかも、見合うだけの労働を自分が行えたのかいまひとつ確信も持てなかったし――、その状況で金品を受け取ることには抵抗があった。

「でも、お礼――」

 困ったような顔をした長谷川さんが、膝立ちになって僕との間合いを詰めた。

 急に姿勢を変えて、よろけたのか、肩に手を乗せられた。

 視線が正面から絡まる。

 あ、と、短く彼女の声を聞いたような気もしたけど、気のせいかもしれない。

 彼女の表情が、既にさっきまでと違っていた。

 目が。

 大きな目がなにかを訴えるように潤んでいた。すっと表情が消えたような、生のままの無防備な表情で。

 磁石の二極が引き合うような――、そんな絶対的法則のように、彼女の顔が近付いてくる。長い睫、スッとした鼻、小さな唇。

 可愛らしい。

 少し前に感じていたその思いが再び湧き上がってきた瞬間、頬にキスをされた。

 軽く唇が触れただけのキスだった。

 それは、僕にとって初めてのことだったけど、そこまでの――例えば古典的文学作品に表現されているような、陶酔に近い感情と結びつかなかった。

 多分、僕は、触れているという事実以上のものを認識していなかったと思う。

 長谷川さんは、口付けした後もすぐには離れなかったけど、でもそれ以上なにもしてこなかった。数センチの距離に、彼女の顔の全てがある。

 論理的思考の結果じゃなかった。

 でも、なんとなく彼女が求めていることを察した僕は、唇の端に――、今度は僕の方からキスを返した。

 彼女からキスをされた時と同じだけ触れたままでいて……元の位置に顔を引くと、長谷川さんはくしゃりと破顔した。

 つられたように笑みを浮かべてみる。

 多分、少ししか、口角が緩まなかった。

 表情って苦手だな、と、心の中で愚痴ってみても、事実は変わらない。

 今日まではそれで良いと思っていたのに……。


 変わらない至近距離で、また、二拍ほどの間があって、やわらかに瞳で笑った長谷川さんが、唇同士を重ねてきて――。

 僕の鼓動を計っていたときよりも長い時間、そうしていて。

 最後に、こつん、と、彼女は僕の額に自分の額をぶつけ、それから離れていった。

「え、えへへ、ちょっと大胆になって見ました。……これっきりに、なりたくなかったんです」

 照れ笑いを浮べた長谷川さんは、とても大胆な提案なんですけど、と、前置きをした後で、期待に満ちた目を向けてきた。

「一緒に住んでみませんか? ここにこだわりがなかったらですけど」

 瞬きをふたつした後、僕は頷いた。

 実際問題として、空調の無いこの神社で夏冬を過ごすのは、かなり堪える。

 彼女がそれで良いなら、僕の方には特に断る理由はなかった。

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