同衾計画? ー5ー

 衣擦れの音は料理中の音で聞こえなかったけど、水音ははっきりと聞こえて来た。

 なんというか……。

 昨日、いや、今朝までとまるで違う、豊か……といったら変かもしれないけど、ひとりの時とはまるで違うものの多さに軽く眩暈がし、だけど、その生活の中心にあって、僕とはまるで違う個性を持った唯さんに、少し安心感も感じていて……。

 自分の中で起こりつつある変化に戸惑いを覚え、それを誤魔化すように無心で僕は料理に集中した。


 それから――。

 料理を作り終え、皿に盛っても唯さんは風呂場から出てこなかった。

 流石に、のぼせているんじゃないかと不安になった頃……。

「お、おまたせー」

 僕にくっついている時とは別次元で赤くなった唯さんが、よろけながら出てきたので、僕は慌てて水を飲ませ、椅子に座ってもらった。

 唯さんって、普段からのぼせるほど風呂に入るのだろうか?

 大丈夫なのかな、と、訝しんでいると、余計不安になる声が聞こえて来た。

「格、流石だね」

 ちょっとのぼせ気味の唯さんが、くてっと椅子に座ったまま、感心している。

 そして、皿を運んでいる最中の僕の返事を待たずに、ふふっと笑って続けた。

「主婦みたい」

 そうなんだろうか?

 現代日本において、自炊は珍しいこと……なのかな? 確かに、中学校で同級生の会話に聞き耳を立てていても、そういう内容は聞こえてこないし。

「ねえ? 格? これって知ってる?」

 肉じゃがを指差した唯さん。

 自分で今作ったので、当然、料理名もレシピも知っている。

 僕が頷くと、ニッコリと笑って唯さんが付け足した。

「肉じゃがって、女性が男を落とすワザのひとつなんだよ?」

「そうなんですか?」

 そういう場合、同じ材料でカレーも出来るし、味に飽きないように同じ材料を効率的に使えるメニューだから、節約をアピールしているのだろうか?

「もう、年下のくせに、焦らすのと惚けるのが上手いなぁ、格は」

 急に元気になり首に飛びついてきた唯さんは、その場でピョンピョン飛び跳ねている。

 ふうむ。

 いや、唯さんのように表情や感情が変化しやすいのが普通だってことはわかっている。伊達に十四年間も生きていないんだし。ただ、変化するプロセスや、振れ幅について、同じ機能が自分の中にあるって気がしない。

 だから、少し、相手の反応をどう受け止めていいのか分からない時がある。

 これまでは、それで全く不自由しなかったけど――。


 テーブルに向かい合って座り、揃っていただきますをして夕飯に取り掛かる。

 唯さんは、終始ハイテンションで美味しい美味しいと連呼していた。

 自分で作った肉じゃがを頬張ってみる。

 普通の、いつもの味だった。

 唯さんのようにハイテンションになれない自分に、少し不安というか、申し訳ないような、そんな気持ちを少し感じてしまい……。

 それが絶対に顔に出ないように、いつもの表情を僕は貼り付けていた。


 私が片付けておくから、と、唯さんに風呂場へと押し込まれ、服を脱ぐ。脱いだものをまとめている場所は――。どうやら、唯さんは洗濯機にそのまま着ていたものを放り込んだようなので、僕もそれに倣う。

 唯さんのアパートの風呂場は、……なんだか恐縮してしまう。

 昨日までの五右衛門風呂の倍近い浴槽に、淡いクリーム色の広い洗い場がある。ちなみに、浴槽にお湯は張ってなかったので、シャワーで済ませた。


 シャワーから上がっても、食器の洗浄や細々したことは全然終わっていなかったので、すぐに手伝いに入る。

「私、ダメダメだー」

 あんまりそう思っていなさそうな声で、洗い物と明日の準備の手伝いを諦めた唯さんが、僕のあばらの下ぐらいに手を回して背中に抱きついた。

 だけど、流石に米を研いだり、皿の油汚れを綺麗に落としたりしていると、振り回されてしまって――。

 結局唯さんは、キッチンとの仕切りになっている台――おそらく本来の用途は食事テーブルなんだと思うけど、唯さんはリビングのテーブルで食事をしているので、半分以上お菓子置き場になっている――に、椅子を持ってきて座った。

 ただ、座りはしたけど、なぜかそわそわした調子で肩を揺すったり、頬杖をついて、やっぱり止めて、時計を見て、爪先を見たり、と、全然大人しくしていなかった。

 気にはなるけど、声を掛けるたびに肩を震わせてなんでもないといわれると、それ以上訊けなくなってしまう。

 もしかしたら、なにか重要な用件があるのかもしれないけど、もじもじしたまま唯さんは視線を右左にするだけでなにも言ってくれなかったから、先に明日の準備を始めることにした。

 リビングの上のロフトから、ハンガーごと制服を探し出して梯子を下りる。鞄には教科書類が――分厚い資料なんかは学校のロッカーに入れてあるので、基本、鞄の中身は入れ替えない――もう詰まっているので、そっちは明日、適当なタイミングで取り出せばいいと判断する。

 でも、制服はどこかに掛けておかないと皺になるし――。

 制服をつるす場所を探していると、驚いたような声を背後から掛けられた。

「え? 学ラン? もしかして、格って高校生だったの?」

 しまった、使わない上着までうっかり持ち出してしまっている。衣替えも終わっているのだから、開襟のワイシャツだけでいいのに。

 降りたばかりの梯子を上って学ランを仕舞い直し、半袖の開襟シャツだけを持って再び梯子を降りる。

 僕は、降りながら返事をした。

「違いますよ」

 そうだよねー、と、どこかのんびりとした調子で返した唯さんに「東中の二年です」と、僕は付け加えた。

 答えた瞬間、唯さんが椅子からずり落ちた。

 腰を強かに打ったのか、小さくない音がしたけど、彼女は全く痛がっていなかった。床に落ちて、座っていたはずの椅子の足を背凭れのようにしている唯さんに駈け寄るけど、彼女は目を大きく開けたまま中々反応を返してくれない。

 抱き起こした後、目の前で手をヒラヒラさせると、ようやく彼女は現実に戻ってきたみたいで――。

「……え?」

 唐突に発せられた、どこか間が抜けたような声に向かって、小首を傾げてみせる。

 なにが『え?』なのだろうか?

 椅子から落ちた状況を飲み込めていないのかと思い、それを説明しようとするけど、唯さんに機先を制されてしまう。

「いやいやいやいや、ちょっと! 格! 一緒に住むって決めた時、気を使うなって言ったけど、からかってって意味じゃないんだぞ」

 顔は笑っているけど、声は笑っていなかった。

 不意に生じた温度差に、どことなくチクリと胸が痛んだ。

「はい、客観的事実ですが」

 なにが不審なのか分からない僕は、ありのままを告げるのだけど、唯さんはジトーッと、湿度の高い視線で僕を見続けている。

 なにか、気に入らないことを僕が言ったのだろうか?

「しょーこは?」

「はい?」

「格が中学生って言う証拠」

 据わった目で僕を見ながら、不機嫌なのを隠そうともせずに言う唯さん。

 状況を飲み込めないながらもポケットの財布から学生証を抜いて渡すと、引っ手繰るようにしてそれを見た唯さんは「二年!?」と、大声を上げた。

「はい」

 ふらっと、眩暈を抑えるような仕草をした後、再び学生証に目を落とし、次々と読み上げていく。

「……中学生」

「はい」

「しかも、十四歳」

「そうです」

「誕生日五月二十日で、AB型……」

 僕のプロフィールを口にする毎に、露骨に唯さんは落ち込んでいった。

 原因が分からないけど、とりあえず慰めるために掛ける言葉を探す僕に、いいから、とでも言いたいのか、右の掌を目の前に突きつけ、困った様子で話し始めた。

「私ね。……ええと、その。社会人だよ?」

「はい、最初にスーツを着ていらしたので、そうだと思いました」

「……二十三歳だよ?」

 話の成り行きが見えず、念を押すようなその質問に曖昧に頷いてみせる僕。

 だけど、そんな態度が彼女の逆鱗に触れたのか、怒鳴られてしまった。

「十歳近くも上なんだよ? ありえないでしょうが!」

「あの……。やっぱり、ご迷惑でしたか?」

 感情の起伏についていけなくて――もっともそれは今に限らず、あらゆる場面で誰に対してでもそうだったが――、一番簡単な解決方法を提案しようとした。

 迷惑と言われるなら、このまま出て行けば済む話だ。

「ちが、ちがーうの、そういうのじゃないの。違うんだけど~……」

 鼻声になりながら首を横に振り――、最後に、力尽き果てたようにガクッと首を落とした唯さん。

「なにその落ち着き。全然中学生に見えないじゃない」

 非難している声なのに、力が無い。

 それに方向性も少し曖昧で……ここには僕と唯さんしかいないので、間違いなく僕に向かって言っているはずなのに、独り言のようにも聞こえてしまった。

「まあ? 確かに言われてみれば、顔立ち幼いなーとか、いや、まあ、好みの顔だけどさ。要所要所で引っ掛かる部分はあったんだよね。でも、そんな超然とした存在感だと……てか、ああいう場所にいる人って、アニメとかだと若く見えて実は物凄く年寄りとかもいるしぃ。そういう……むしろ雰囲気言葉遣いその他諸々から、年上かもなんて最初思ったし――」

 訥々と話し続ける唯さん。

 口を挟む隙は無かった。

 そもそも、挟める言葉を、僕は持ち合わせていなかった。

「だから確認しなかったし、私も変な呪いで焦ってたしッ!」

 急に苛立ったように声を荒げ、次の瞬間――。

「ふええ」

 冗談みたいな泣き声を上げたけど、目の端には本当に涙が少し浮かんでいたので、反射的に肩を抱き寄せて背中をさすっていた。

「違うの。格は悪くないの。ただ、その、なにも確かめずに、薫に唆されるがままこういうものを慌てて準備してタイミングを待ってた自分自身が、ちょっと」

 唯さんは僕の手を優しく解いてから立ち上がり、しょげている顔で椅子に座りなおすと、小さな箱をぽんと無造作にテーブルに載せた。

「なんですか?」

 その箱に手を伸ばそうとすると――。

「い――っ! いけません! 十四歳にはまだ早いです! 私だってまだなんだから!」

 これまでにないぐらい俊敏な動きで、僕がパッケージの商品名を読む前に再びそれをどこかに隠してしまった。

 うん? と、僕が小首を傾げると、唯さんは警戒心の強い野良猫みたいな顔で威嚇していたけど……。

 急にハッとした顔になり、慌てた様子で叫ぶようにして僕に尋ねてきた。

「私、犯罪者になる?」

 質問の意味が分からずに首を傾げると、おずおずと切り出した唯さん。

「誘拐、とか?」

「家族はこの八年間見ておりません。仮にあの場所に僕がいなくても気付かないと思います」

 僕の返事にちょっと悲しそうな顔をした後、なんだか口を波打たせるようにふにゃふにゃと動かし、微妙な顔で、多分最初に言おうと思ったのとは違うであろう台詞を口にした。

「でも、その、未成年者を……こう、手篭めにしたとあっては、さ」

「手篭め?」

 分からない言葉を訊き返すと、ぷい、と、僕の質問に答えないままで唯さんはそっぽ向いてしまった。

 だけど次の瞬間、逸らした視線の先でより重大ななにかを見つけたらしく、慌しく僕に向き直ってから――低い声で呟いた。

「キスしちゃってる、私」

「はい、割とたくさん。鎖骨周辺に証拠もありますよ?」

 補足すると、ガン、と、テーブルに唯さんは頭突きした。

 多分、キスは百回には届かないけど十回以上は間違いなくしたと思う。いや、された、が正しいか。自発的なのは、一回だけだったし。

「ちなみに、ファーストキスだった?」

 突っ伏したままでテーブルに向かって言っているからか、くぐもった声で訊かれた。

「はい、唯さんもですか」

「うん。私、モテなかったし」

 さっきと同じようにくぐもっているけど、声の調子は明らかに弾んでいた。

 たっぷりの間を開けてくいっと上げられた顔は、なぜかにやけていたし。

 難しいな。女性心理とは。変化が早くて、全く理解が追いつかない。

「い、いや、ゴホン。問題がすり替わっているよ、格」

 ちょっと偉そうに咳払いして、威厳を出したつもりなのかもしれない唯さんが、少し緩んだ頬を無理して引き締め、努めて真面目な様子で路線修正した。

 裁判の判事を真似たのか、バンバンとテーブルを叩き――まあ、実際は駄々っ子のようにしか見えなかったけど――キリッとした顔で唯さんは宣言した。

「ちょっと同居計画を一部見直そう」

 唯さんの前の席に向かい合って座る。

 じっと唯さんが僕の顔を見ていたので、ふと疑問に思って訊いてみた。

「僕は老けて見えるのですか?」

「格は、背が高いのと雰囲気で相手をそう思わせるんだよね。十四歳って分かったら、くっきりした目鼻立ちとか、つやつやしたお肌とか、納得出来るもん」

 年齢不詳ということだろうか?

 いまひとつぴんとこなかったけど、唯さんはこの話題を引っ張る気はないみたいで、早々に本題に入ってしまった。

「まず、寝室は別ね。ドキドキ同衾大作戦は延期です……あと四年ぐらいは」

 きっぱりと断言した唯さんに、当然の疑問をぶつけてみる。いや、いつ始まったか分からない謎の大作戦についてではなく、現実的な問題を。

「今からですか?」

「い~た~る~、分かってないよ~、彼氏いない歴イコール年齢の年上女の純情なめるなよ~? 隙なんて見せたら、食べられちゃうんだからな~。こう、ぱくっと、一瞬で」

 成程、それはちょっと困るかもしれない。自分の命に興味はないけど、今夜亡くなるとなったら、多分良い気分にはならない気がするし、なにより唯さんにも迷惑が掛かる。

 もっとも、言っている唯さんに狂気は無さそうなので、なにかの婉曲的表現だと思うけど。

「ロフトの部分を掃除して布団を敷けば、そこを僕の寝室に出来ると思います」

 一番最初に僕が提案した部屋割りに戻って、意見を述べると、うん、それしかないね、と、今度は即座に頷いた唯さん。

 ただ、問題は――。

「この時間から掃除しますか?」

 ここに越して来て以来、使わないものを置いていただけというロフトは、埃が多かった。だからこそ、ごく簡単な問答の後、唯さんの強い希望を優先する形で夜からの掃除を諦め同衾に切り替えたんだし。

 現在時刻は二十一時を過ぎている。

 近所迷惑にはなりはしないだろうか?

「……しょーがないかぁ。今日は私がダイニングの椅子で寝るから」

 力なく言った唯さんの言葉を遮る。

「それはダメです」

 僕の言葉に対して、むー、と、謎の呻き声を上げた唯さんは、子供みたいにグーに握った両手を振り回している。

 だけど、僕が毅然とした態度を続けると、真顔に戻って申し訳無さそうに話し始めた。

「いや、でも、話を持ちかけたのは私なんだし、恩義があるのも私なんだし、やつあたっちゃったけど、確認不足も結局は私のせいなんだし――」

「どうしても一緒は嫌なんですか?」

 いつまでも続きそうな言葉を遮って問い質してみると、ふむふむ、ふむ、と一応は僕の言い分に納得し、考えるような仕草をした唯さん。

 でも、急に雰囲気を変えて僕の肩をがっしりと掴んで言った。

「……格は、私の理性をいったいどうしようとしているの?」

 すごい顔で訊き返されてしまった。

 喜びながら怒っているような、相反する感情がせめぎあってるような顔。

 でも、訊かれている意味が分からなかった。

 だから、そのまま首を傾げて見せるけど、唯さんは難しい顔をしたままだった。

「っていうか、格はどこまで分かっていてここについて来たの?」

 どこまで?

 どこまでって……なんの距離が?

 分からない部分を、でも、どう分かっていないと伝えたらいいのか分からずに答えあぐねてしまう。

 僕を見守っていた唯さんは、いつまでも返事が無いことから多少は察してくれたらしく、少し考えた後、これしかないか、と、諦めたような顔になり――とても緊張した様子で話し始めた。

「ううん……ちょっと待ってね。格は、その、私のこと――、好き?」

 好き。

 ふむ、好き、かぁ。

「分かりません」

 正直に答えると、唯さんが崩れ落ちた。

 やっぱりかぁ、とか、そっかソコ言ってなかったよね、とか、舞い上がってたのは確かに私の方かぁ、なんて言葉が、ほとんど拾えないぐらいの声でぶつぶつと聞こえてくる。

「自発的に、能動的に感情を抱くっていうことが、これまでありませんでしたので」

 付け加えると、余計彼女を悩ませて閉まったらしい。

 唯さんは、物凄い勢いでブンブン頭を――というか、上半身を振っている。……悶えてる? なにをしているのかと、なんのためにしているのか、その両方が理解できなくて僕は固まってしまっていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る