力と代償ー3ー

 だけど、その瞬間は来なかった。

 僕がそれに……いや、それが僕に触れた瞬間――。

 ざあっと、一瞬で――まるで、今まで見ていたものが書割だったかのように視界の全てが千切れて後方へと流れ去る。

 暗い風景の中、断片的な幾つかの映像が目の前に走り――。

 次の瞬間、僕は真っ白な折り紙で織ったような、四メートルほどの紙の船の上にいた。空は曇りで、辺りには霧が出ている。左右を見れば二十メートルほどの川の中央にこの船は浮いているようだった。岸の近くには、背の高い葦も生えている。


 この前と同じだ。

 すぐにその事実を理解し、背後を振り返る。

 前回と同じなら、そこにおわしますのは――。

瀬織津比売せおりつひめ

 純白の古風な旅装束に身を包んだ女神。

 だけど今日は、少しいつもと違った様子だった。

 視線を追って周囲を見れば、川岸が随分と遠い。川幅が広がっているようだった。どこか違う場所に流れている?

 そう気付いた時には、霧で朧だった陸の稜線が消えた。

 潮の香りが強くなる。

 波が高くなる。

 真っ直ぐな水平線がどこまでも続いていた。

 どうやら、船は海へと流れ出しているようだった。

 ふと、なにかの予感を感じて再び背後に視線を向ける僕だったけど、そこにはもう誰もいなかった。

 急に心細さを覚え、視線を前に向ける。

 さっきまで居られたあの御方と同じ格好で、でも、明確に違う存在感を持った御方が立たれていた。

 より強い慈愛と厳しさを湛えている表情。

 正にも負にも、より強く振れた御霊。

 罪や穢れを、呑む海の女神。

速開都比売はやあきつひめ

 御名を唱えると、その御方の口元が微かに綻び――。


 気が付いた時、唯さんにきつく抱き締められていた。どうやら、今回は倒れてしまったらしい。

「……あ」

 唯さんは、僕が起きたことに気付くと、顔を僕の胸に埋め――。そのまま少しだけ泣いた。

「格、身体が冷たい」

 腕や首、それに顔をぺたぺたと唯さんに触れられる。

 そうなんだろうか?

 自分では、体調が悪いとは全く思えない。

 冷えてる自覚も無い。

 ……ああ、でも、確かに触れられ続けていると、唯さんの掌が随分と熱く感じた。冷え切った身体で温めのお湯に触れると熱いと感じるあれだろうか?

「ごめんなさい。でも、こういうの、これっきりにしよう。薫には私から言っとくから」

 涙声の唯さんに、あやすように頭を撫でながら訊いてみる。

「なにがあったんですか?」

「急に頭が割れそうなぐらい、ゴチャゴチャしたのが見えて……目も頭も追いつかなくて吐きそうになってたんだけど、格があれに触れた瞬間、なにもなかったみたいに消え去って……。でも、格が糸が切れたみたいに、柱に寄り掛かりながらも崩れ落ちて……」

 鼻に掛かった声。

 ふと、唯さんの時の状況を思い出した。

 あのときの僕も、確かに軽く意識をどこかにやっていたようだったし、そういうものなのかもしれない。立ったまま寝ることも夢を見ることも普通は出来ないんだし。霊的ななにかに触れることで、あの夢に迎えられているんだとしたら、然もありなん、だ。

 学校の全体朝礼でも、二~三人は貧血で倒れるし、そんな感じじゃないのかな。

「息が止まってて、体温があっという間に低くなっていって、心臓に耳を当ててもどこにも音がしなくて――」

 正直な感想としては、本当だろうか? と、疑う気持ちの方が強かった。

 唯さんも急な事態に気が動顛していたと思うので、正確に呼吸や脈拍を計れなかった可能性もあるし、逆にもし心肺停止状態なら、こんな簡単に回復はしないはずだ。

 唯さんが落ち着いたのを見計らい――とは言っても、表情は沈んだままだったが。

 立ち上がる。

 微かに頭の奥が重いような鈍い痛みがあったが、眩暈などは感じなかった。

「大丈夫ですよ。なにも問題ありません」

 しかし、完全に疑いの眼差しを向けられている。

 ふむ。

 一拍だけ考えた僕は、唯さんの手を引いて立ち上がらせ――、初めて僕の方から唯さんを抱きしめてみた。

「い、いたる⁉」

 小さな絶叫を聞いて、パッと手を離す。

「ね? 大丈夫でしょう?」

 唯さんの顔を覗きこんで尋ねてみるけど、それには、思いっきり不満そうなしかめっ面が返ってきた。

 唯さんの頭に手を乗せ、髪の流れによって撫でる。

 くすぐったそうに首を竦めたのを見てら「帰りますか」と、僕は唯さんに告げた。

 最後に一瞥した大黒柱は、先ほどまでの威厳はもう無く、くたびれ、乾き、今にも崩れ落ちてしまいそうだった。艶、というか、瑞々しさはもうそこにはない。無機的な物体として、そこにある。


 あらましを高橋さんに報告し、取り敢えずはここはもう大丈夫だと告げるけど、凄く難しい顔をされてしまった。

 僕等を疑っていると言う表情じゃない。むしろ逆に――。

「身体に異常ないか、確かめよう。脱いでみな」

 高橋さんが医者の宣告のような威厳を持ってそう言った。

 しかし――。いや、高橋さんの車は、広めなので脱げるだけのスペースは確保されるだろうけど……。

「本気ですか?」

「ちょっと薫! セクハラだよ⁉」

 色めき立った唯さんの顔に、ようやく言ったことの意味を理解したのか――まあ、以前の唯さんの呪いも服の下だったし、妥当といえば妥当な判断でもあるのだが――、ちょっと気まずそうにしながらも、短く叫ぶ高橋さん。

「そういう場合か!」

 ふむ。

 確かに、自分では見えない場所に資料にあったような傷跡が出来ている可能性もあるしな……。

「まあ、上だけなら」

「え⁉ いいの?」

 驚きが先行しているものの、どこか嬉しそうな声の唯さん。

「なんで唯さんがそんな声を出すんですか?」

「いや……なとなく」

 急に萎んだような唯さんを、汚物を見るような目で見た高橋さん。

「まあ、下は家ででも見てもらえよ」

「はい?」

 ちょっと呆れたような高橋さんのその言に、小首を傾げると、割り込んできた唯さんに発言を遮られ、シャツの裾を捲くられた。

「い、いいから、ぬ、脱ぐならさっさと脱ぐ!」

 無造作に上着を脱ぐと、二人が息を呑む音が聞こえて来た。自分で見る限り、特に異常は見当たらないのに、なぜそんな反応なのかと最初はいぶかしんだ僕だったけど――。

「お前、それッ!」

 高橋さんが僕の左肩を指差しているのに気付いて、そういうことか、と、納得がいった。

「はい? ああ、これは違います。生まれつきの痣なんですよ。学校の健診でも、成長と共に消えていくものって言われましたし」

 妊娠中の母体になにかのストレスがかかると、こうなることはままあるらしい。僕の左肩から背中の半分ぐらいには、べっとりと墨をぶちまけたような痣が生まれつきある。

 まあ、少し痣が濃くなっているような気がしたけど、それはあえて口にはしなかった。言ってどうにかなるものでもなさそうだったし、それなら、余計な心配はかけたくなかったし。

「あ、ああ、それなら……」

 少し気圧されたような顔の高橋さん。

 唯さんも、痛々しそうな顔をしている。

 ふむ。

 難しいな。これまで特になんの問題も無く付き合ってきた身体的特徴にこんな顔をされてしまうと。

 もしかして、不機嫌になっているのだろうか、僕は?

 あんまりはっきりした感情が湧くことはこれまで無かったんだけど……。


 高橋さんは腕を組んで何事か考えている様子だったけど、頭をガシガシと掻いて、ほう、と、溜息をひとつ吐いてから、少し黄昏た様子で呟くように言った。

「オレたちは、軽く考え過ぎてたのかもな」

 と、言われても、なぁ。

 元からある痣でこういう顔をされても、僕としては上手く反応し難い。

 ――と、僕のそんな思考を読んだのか、高橋さんが苦笑いで手を振った。

「いや、お経を上げてもらってもどうにもならなかったものを……あ――、その、ノーリスクでなんとかなるかも、なんて考えてた自分自身に、ちょっとな」

 暫く、僕よりも難しい顔をしていた高橋さんだったけど、なんか、すまん、と、頭を下げ「てか、唯も状況を詳しく言っといてくれよ」とか、ちょっと無茶なことを言ってから、鍵を回し車のエンジンを掛けた。

 上着を着なおす。

 唯さんは、僕が身だしなみを整えると僕の右腕に抱きつき、高橋さんをバックミラー越しに見た。

「ねえ、薫。私も、私の時があんまりあっさり片付いちゃって、そも、調子に乗っちゃってたけどさ。もうこういう話は――」

 高橋さんが肩越しに振り返って苦笑いを浮べた。

「オレもバカじゃねぇよ。……来栖、悪いな。イロイロ引っ掻き回しちまって」

「いえ、大丈夫です」

 どうにも、上手くいかないものだと思う。僕としては、なにも問題ない――全くの零じゃないかもしれないけど、大騒ぎするほどのことでも無い――とおもうんだけど、なんというか、二人との温度差みたいなものが。

 まあ、変に波風を立てても仕方が無いので、それ以上僕はなにも言わないでいた……。



 その日の、夢は霧の中にあった。

 自分がどこにいて、どうしているのかが把握出来ない。

 ここまで導いてきた御方は、しかし、どこにもどなたの気配も感じられなかった。

 心の深い部分から恐怖を覚えた時――、目が覚めた。


 このままではいけない、と、内なる声がする。

 ふ、と、本当に自然に自嘲が漏れた。

 どうにも……。

 物事を始める時にはあの二人の方が楽観的だと思ったのだけど、終わってからの事態の受け止め方に対しては、どうやら僕の方が楽観的過ぎたみたいだ。

 唯さんの寝息を聞きながら、布団で再び横になり目を瞑りけど、もう夢には呼ばれなかった。

 こんなのは、初めてだった。

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