祓戸大神ー3ー
その後、病院での検査が空振りとはいえないまでも、納得できるほどではなかったので、家に帰ってから、唯さんに手伝ってもらってパソコンでも調べてみることにした。そこで、あの夢の中で僕の唱えた名は、罪を祓う神様の御名であったらしいことが分かった。
日本の古い神話において、罪は、川に流され、海へと辿りつき、飲まれ、息吹を受け根の国へと送られ、流離って失われる。そう記述されている。
経緯はどうあれ――。
始めてしまったことは、きちんと終わらせなければならない。
紙の船が流れ出さなければ、留まることも出来たのかもしれない。あの神社に、ずっと。
でも、もうここまで来てしまっている。
最初は唯さんのノリに流された部分はあるけど、でも、はっきりと自分自身の意思で、今、僕はここにいる。どこにだって居れたのに、ここに。
身に起こった変化を、良いこととして受け止め、動き始めている。死んでないだけのあの日々には戻れない。
あの夢でも……。きっと海に止まることは出来ない。
舫を解かれた今、舫い杭のない大洋にこのまま居ては、流されてしまう。もっと遠い、もっと別の場所まで。
あの御方の領域の外まで。
そうしたら、きっと、もう、帰ってくることは出来ない。
多分、僕は速佐須良比売に御会いしなければならないのだと思う。
理屈じゃなくて感覚的に、でも、確信を持ってそう感じていた。
案の定、その日曜日の夜も、僕の夢はまだ不定形なままで漂っていた。
残念ながら、一夜明ければなんとかなっている類のものではなかったらしい。もっとも、それは自分でも分かりきったことではあったが……。
寝つきが悪いと言う状態を初めて自分自身で体験し――、確かにこれは身体に堪えるな、と、苦笑いが浮かんでしまう。
頭の芯の重さは、鈍い痛みに変わりつつあった。
眠れないまでも身体を休めるために布団でじっとしていようとは思う。けれど、目が覚めてしまうと、動かずにいるのは結構辛かった。意味もなく寝返りを打ってしまうし、夏場だから腹の上にタオルケットしか乗せていないのに、なんだか蒸れてるような気がしてしまう。
ふぅ、と、溜息を吐き、起き上がる僕。
唯さんは、規則正しい寝息をたてていて、目覚めた気配はなかった。
普段の表情も少し幼い唯さんだけど、寝顔はもっと無邪気で愛くるしかった。
慎重に、足音を忍ばせながら寝室を出て――、トイレを済ませた後、布団に戻る気もしなくて、明かりをつけないままキッチンでコップに水を汲む。
一口飲むと、水の冷たさのおかげか、頭の芯の鈍い痛みが少し和らいだ気がした。
そうしてゆっくりとキッチンで水を飲んでいると、きぃ、と、不意にドアが開く音がした。誰か、なんて分かりきっている。この部屋には二人しかいないんだから。
寝室の豆球の明かりしかない中、唯さんが不安そうな声で尋ねてきた。
「眠れないの?」
薄暗いキッチンで、唯さんの少し潤んだ瞳がおぼろげな顔で際立っている。
「ええ、まあ」
隠せるものでもなかったので、正直に僕は答えた。
「これまでは、そういうこと、なかったよね」
これだけ一緒にいれば、さすがにそういう体質? みたいなものにも気付かれてしまうか。もしかしたら、寝ている僕を起こそうとしたこととか、あったのかも。
出来れば、心配を掛けさせたくはなかったんだけど、な。
「そうですね」
肯定しながら僕は、ふと、唯さんについて考えてみる。
学校とかで見知った普通の人って、普通じゃないものに対する反発というか嫌悪感という物は非常に強かった。僕がもっと弱かったり、賢くなかったりすれば、虐められたのかもしれない。力の差を思い知らせると、そいつ等は、距離を置いた。教師も同様。というか、ただの大人で、なんとなくそういう仕事を選んだというだけの人に大した期待は無かったけど。
唯さんは、一緒にいて、僕に抜けている常識の部分とか……そもそも、最初の時点で変な力で呪いを払ったのに、ずっと側にいて、屈託無く笑って、抱きついて来ていた。
そうだな、僕はこの人のことが――多分、最初からずっと。
「唯さん」
僕が言おうとしていることの予想がついているのか、聞きたくないとでもいう風に耳に手で蓋をして、首を左右に振った唯さん。
そんなことぐらいじゃ、本当に聞こえないはずが無いので、僕は構わずに続けた。
「高橋さんの依頼、どれでもいいので、受けましょう」
「薫も、もう持ってこないって約束したんだよ⁉ それに先生も危ないって……」
僕と視線を合わせないままに、少しヒステリックに唯さんが叫んだ。ただ、唯さんは自分自身の声に肩をビクつかせ、最後はとても沈んだ声になってしまったけど。
こういう顔をさせてしまっている原因が自分だということが、少し辛い。
だからこそ、感情的にならないように注意しながら、努めて無機的に僕は返した。
「多分、このままでいた方が良くないです」
だけど、唯さんは落ち着くどころかさっきよりも興奮した口調で捲くし立ててきた。
「そんな逆療法みたいのじゃなくて! そう! お寺とかでお払いしてもらえば――」
「唯さん御自身の時は、それで効果あったんですか?」
言いかけた唯さんを微笑で遮る。
霊的なものという意味では、お寺というチョイスは病院へ掛かるのと同じような効果を期待してなのかもしれないけど、僕自身が神社に住んでいてそうした神通力と無縁だったこともあって、いまいち信用できない。
謝礼が、数万円とかいう話も、唯さんと前に見たテレビで知っていたので、なおさら。
「それは……ッツ! ダメだったけど……」
唯さんは、長い時間考えているようだった。
薄く目を閉じて眉間に皺が寄っている。唇を噛んでいるのか、小さな口は強く閉じられている。
多分、最悪の事態を想像しているんだと――いや、違うか。そうだな、この顔は自分を責めている時の表情だ。
辛そうで、憤りがあって、でも、それが僕に向いていない。
「唯さんがあの神社に来なくても、いつかはこうなってましたよ。大差ありません」
なだめるように言ってみても、本当に気落ちしたような声が返ってきただけ。
「大差ありすぎだよ。自分が原因なんだったら」
やっぱりそうか。
僕の変化は、唯さんの呪いに触れた瞬間から始まった。
まあ、確かにそれは事実なんだけど……。
ふうむ。
上手く説明出来ないな。
あの小さな神社で死んでないだけの人生を送る意味はなかった。否、いつかは僕もあの場所を離れるときが来ると思うし、それが今だったというだけ。唯さんと一緒に過ごせてすごく嬉しいと思っている。長いとはいえない時間かもしれないけど、その間にあったのは、悪いことよりも良いことの方がはるかに多かった。
とても一言で表せられない。全部を上手く伝えるには言葉が足りない。
まったく、僕自身が責める気が無いんだから、いつもみたいに楽観的に構えていればいいのに。
「死んじゃうかもしれないって、先生も言ってたの、覚えてる?」
唯さんは、多分、その悩みの中心の原因を口にした。あと――、そうならないまでも、重症とかそうした可能性が頭から離れないんだろうな。先生の話だと、あの力を使うたびに脳にダメージを与えるようだし。
「そうですね……これまでは、自分の命にも興味はありませんでした」
人はいつか死ぬものなんだし、そこまで命を惜しいと思ったことは無い。余命宣告を受けても、取り乱すことも無く、いつも通りに、はい、そうですか、と返す自信がある。
「でも、もう違うので、多分大丈夫です」
今までの考えが全く無くなったわけじゃないけど、唯さんと会えなくなったり、悲しませてしまうのは申し訳ないな、と、思うようには変化していた。
そのために、どうでもいい理由や場面では死ぬわけにはいかない。
高くは無いかもしれないけど、そこまで安い命ではないし。
「格みたいな人の大丈夫が、一番信用出来ないんだよ」
泣き笑いみたいな顔で唯さんは、トン、と、僕の心臓の場所に小さくパンチをして、いつもよりもずっと優しく抱きついてきた。
「僕はもう子供じゃないですよ。分別はしっかりとついています」
なんというか、ちょっと心配しすぎのようにも見える唯さんに苦笑いで告げると、上から言い聞かせるような――姉のような口調でたしなめられた。
「中学生は子供だもん」
もっとも過ぎる指摘に、数秒真顔になってしまった。
まあ、確かに法的にはそうか。
でも、僕は責任を人に押し付けるタイプじゃないんだけどな。
例えそれがどんなに想定外のことであろうとも、僕自身ですると決めた結末なら、しっかり受け止められるだけの覚悟はある。
ほんの少しの皮肉を込めて、良い子良い子するように唯さんの頭を撫でる。
「人を好きになる気持ちって、本当に理不尽で暴力的だよね。格に会う前は、もっと気持ちってセーブできるものだと思ってた」
ちょっとくすぐったそうに目を細めながら、唯さんはポツリと呟いた。
「……後悔していますか?」
一呼吸の間があって、唯さんは背伸びして僕の額にキスをした。
それは、最初にされた日以来の、随分と久しぶりのキスだった。
「それなら、こんなに苦しくないよ」
唯さんからの返事は、ほんの少しぐずるような鼻に掛かった声だった。
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