同衾計画? ー8ー
学校では必要最低限の事しかしない。
というか、席について居ればたいていの事は早足に通り過ぎていく。
成績は問題ない、というより、かなり上の方にいるので勉強面での補修は不要。また、教職員は、特殊な事情を知っていて、腫れ物を扱うように、特別なお願いも手伝いもなにも僕には持ってこない。
小学校からそのまま上がる中学校なので、クラスメイトで話しかけてくる者ももういない。
部活も委員会も、参加しない特権と義務を僕は持っている。
だから、家に帰りついたのは、十六時よりも少し早い時間だった。
どうしようかな? と、悩んだのは短い時間で、昨日の夜に唯さんと寝室の割り振りを決めたのを思い出し、掃除から取り掛かることにした。
まず、ロフトを雑巾で水拭きし、カビを出さないように次いで乾拭きをする。ロフトに載っている物は少なかったので、簡単に箱の配置を調整すれば場所の確保は容易に完了した。
次いで落下防止の柵の状態を確認し――、特に傷んでいる部分もなさそうだし、軽く押してみてもたわむことも無く、僕の体重ぐらいは問題なく支えてくれそうだった。
最後に寝室から布団を運び、自室の整備は終了した。
あと、することと言えば――。
夕飯はどうしよう?
僕だけなら残り物でも問題なかったんだけど、家主でもある唯さんにそれを出すのは躊躇われた。
ううん、材料があるからカレーというのも手抜きかな。ジャガイモとベーコン炒め物に、鰯の一夜干しをグリルで炙ってマヨネーズを付け合せにして、あと……。
考えながら台所に立つ。
自分ひとりじゃないということ、食べる相手がはっきりとイメージ出来るということ、多分、それが理由なんだと思う。一昨日のように、なにも悩まずに料理が出来ないのは……。
今度、苦手なものじゃなくて好きなものも訊いておこうかな、そんな事を考えながら僕はようやく手を動かし始めた――。
日がどっぷり暮れてから、チャイムが鳴ってインターフォンから声が響いてきた。
『格、帰ってる? 私』
声だけで分かったから、誰何せずに玄関へと向かう。待たせたくなかったから、エプロンは外さずにそのままドアを開けた。
「おかえりなさい」
ぱちぱちと目を瞬かせた唯さんは、急に無表情になって僕の胸を右手で家の中へ通し戻し、左手で後ろ手にドアを閉めた。
鍵を気にしていない唯さんに代わって、僕が施錠する。シャンと、錠が落ちる金属音が響いた。
会社でなにかあったのかな? そう推理した僕は、唯さんの顔を覗きこむべく、しゃがもうとしたけど……。
僕の推理はすぐに裏切られた。
「ふぁー!」
密室になった瞬間に破顔して、玄関で唯さんが叫んだから。
目を細め、思いっきりニヤニヤしている唯さん。
会社で悪いことは無かったみたいだったけど、これはこれで異常のような気がする。
「どうしました?」
「ごめん、ちょっと不覚にも……萌えた」
萌えた?
上手く行動も理由も理解出来なかったけど、大人の女性は、なにか色々と大変らしい。ストレス社会とか、そういうモノのなにかだろうと判断する。
「……今だけちょっと、ルール破っても良い?」
しばらく様子を窺おうしたけど、どうにも宙ぶらりんの状況に所在無げに立っていた僕に向かって、真顔で唯さんが問い掛けてきた。
なにをされるのかは分からなかったけど、唯さんがしないと昨夜宣言したものの中に僕が嫌なものは特にないので、すぐに返事した。
「はい、どうぞ」
言うが早いか、通勤鞄を放り投げた唯さんにハグされた。
たしたしたし、と、小さな唯さんの手が僕の背中を何度も弱く叩いている。
唯さんからは、微かにスミレの香りがした。髪の香り? いや、それだけじゃないのかな。ファンデーションとか、そういう色々なものも混ざってこの香りになっているような気がした。
こじんまりとしていて、可愛らしい唯さんにこの香りはあっているな、なんて思った。
「うん、大丈夫、ありがとう。チャージは完了した」
顔を上げた唯さんは、いつもと同じように照れた顔ではにかんでいる。
……次の機会に、なにがチャージされるのか訊いてみようと思う。
あ!
さっき無造作に顔をぐりぐりと押し付けていたからなのか、唯さんの前髪が乱れていた。
唯さんはよく僕に触れてくるので、僕がそうしても問題ないだろうと判断し、乱れた髪を手櫛で撫でるように梳いてみる。
黒髪は艶やかだけど、少し細いようにも思えた。
くすぐったそうに首を竦めた唯さん。
上目遣いに大きな目で見つめるその表情は、可愛かった。
髪が直った後もしばらくそうしていると、なんの前触れも無く、かぷっと首筋を甘噛みされた。
いきなりの行動の意味を理解出来ずにいると、無理して作ったのが見え見えな仏頂面で唯さんが素っ気無い調子で口を開こうとした――実際は、声はかなり甘かった。
「過剰にチャージされるとこうなります」
「そうですか」
成程、確かに食べられた――まあ、噛まれたが正しいけど――、な。昨日の夜の警告も、あながち間違いではなかったらしい。
鎖骨周りの紅い痕は、二つになった。ひとつめも、まだ消えていない。
撫でるようにそこに触れると、キュッと胸の奥が縮むような……不思議な初めての感覚がした。
「食事出来てますけど、すぐに食べます?」
「うん、それでだいじょーぶ。私、ひとりの時も普通はご飯食べてからお風呂入ってたし」
ステップを踏むような軽やかな足取りでリビングへと入る唯さん。半歩後ろから僕も続いてリビングに入ると――。
「あ! でも、着替えてからで良い?」
トトト、と、小走りに寝室に入り込み、半分ドアを閉じて身を隠した唯さんが訊いてきた。
「はい」
僕に反対する理由はひとつも無い。
だけど、唯さんは即答する僕を、どこか試すような目で見ている。
「……ねえ? 格、寝室って、鍵かからないんだよね~」
「はい、知っています」
「覗く?」
ニヤッと、少しいつもと違った調子で――意地悪く笑った唯さん。
だけど「なぜですか?」と、質問とその行動を行う意味を訊き返すと、戸惑ったように顔を赤くして俯き「覗かないでよね!」と、小さく叫んでドアを乱暴に閉めてしまった。
ふむ?
なにか僕は間違ったんだろうか?
もしかしたら、山と言えば川と答えるような、そんな周知の暗黙のルールがあるのかもしれない。
唯さんの機嫌を見計らいつつ、機会を見て尋ねてみようと思う。
数分後。
ガチャっと寝室から出てきた唯さんは……。下着の上にちょっと透けてる薄いのを一枚被っただけの――。
流石に、僕も、これには焦った。
僕は常識をあまり知らないけど、明らかに見てはいけない姿だと即断出来る。
口元を押さえて視線を逸らした僕。
ワンテンポ遅れて唯さんがちょっとボーっとした顔で自分の格好を再確認し、横目で様子を窺う僕を真顔で見て――しまった、目が合った――、叫びながら寝室へと戻っていった。
「間違ったー!」
更に一分後の唯さんは、上はゆったりした首の広く開いているシャツを着て、下は昨日寝巻きに使っていたハーフパンツを履いている。
さっきのことは、見なかったことにすればいいのかな? と、考えていると、僕が扱いに悩んだその話題を切り出してきたのは唯さんの方からだった。
「そっかぁ、もう、夏だって家の中で下着でいれないのかぁ」
今までも、そうしていたらいけないのではないだろうか?
僕の場合は、吹きさらしの格子戸だったから、外から見える前提だったので家の中でも外出着でいたし、寝るとき以外はラフな格好をしないのが普通だと――あくまで個人的な判断だけど――、思っていた。
僕の視線と思考に気付いたのか、唯さんは真面目な顔でちょっと分からない言い訳をしてきた。
「あ! でも、そうしてた時は、ちゃんとカーテン引いて、だよ?」
返す言葉に迷っていると、まるで自分自身に言い聞かせるように言い訳を重ねていた。
「うん、見えてない、見せてない。……格以外には」
「僕は良いんですか?」
「うん」
即答した唯さんは、ごくごく自然な動きで夕飯の席に着き――。
食事が始まって、その話題を忘れた頃に、もう一度頷いた。
「……うん。格なら、いいんだ」
食事を終えた後、洗い物を始める僕。
唯さんは、リビングの窓側へと移動してロフトを見上げ、ポツリと呟いた。
「ロフト、綺麗になってるなぁ……」
昨日の夜の時点で唯さんも同意したはずなんだけど、どこか他人事みたいだ。
「帰ってきてすぐに掃除しました」
皿洗いの片手間に答えると、背後から不満そうな声が降ってくる。
「嫌味なぐらい仕事が速いよね、格は」
「はい?」
水を止めて肩越しに振り返ると、声だけじゃなく、唯さんの表情も不機嫌だった。
……あれ? 一緒に寝れないと主張したのは、僕じゃなくて唯さんだったはずなのに、その反応はおかしいんじゃないだろうか?
訝しむ僕を他所に、腕組みをした唯さんは難しい顔で唸りだした。
「あー、んー……ん、んんう」
ふらふらと、若干千鳥足で――ちなみに、夕飯に酒はつけていないので、酔ってはいないはずだ――、僕の方へと近付いて来る。
首を傾げる僕。
唯さんは、物凄く真剣な調子で悩んでいたけど、ふと視線をエアコンのリモコンに移し、ポンと、手を打って明るい表情になった。
「あ! そうそう、真夏とか真冬は、その、さ。空調もアレだし、その、やっぱり、そういう必要な時期は、同じ寝室ね」
「はい、何月ぐらいからそうしますか?」
六月はもうすぐ終わる。
今はまだそれほど寝苦しくはないけど、七月も後半になればタオルケットを掛けずに寝ても汗が酷くなる。夏休みに入った頃かな、と、勝手な予想を立てていると……。
「しち…、六月末になったら、すぐに、かな~。ほら、気温よりも湿度とかが」
視線を合わせようともせずに唯さんは、ぶっきらぼうを装いながらも甘えた声を出した。
はたして、数日ロフトで寝ることに意味はあるのだろうか?
もっとも、こういう疑問は口にしない方が唯さんは喜ぶので、僕も敢えてそれ以上は質問をせずに同意した。
「了解しました」
仁王立ちした唯さんが、満足そうに頷く。
だけど、その一拍後には少し不安そうな顔で僕に尋ねてきた。
「ねえ、格。私って、自分に甘いと思う?」
「そんなことありません」
僕が即答すると、嬉しいけれど完全には喜びきれていない顔をして――。
その表情に対する疑問を僕が口にする前に、完全に顔の緊張をどこかへと消し去った唯さんが、今度こそ満面の笑みで呟いた。
「格もそう言ってくれるんだから。いいよね。……さい、の……る……恋、したって」
後半はかすれて聞こえにくかったけど、唯さんが笑顔になってくれるのなら、それだけで僕はよかった。
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