序章ー2ー

 山というのもおこがましいような小高いだけの、でも、丘と言うには切り立った高台の上にある小さな神社。周囲に広がるうっそうとした鎮護の森。そこが、僕に与えられた檻だった。

 父母がどういった人で、なにをしているのか、僕は知らない。

 最初からずっと、ここで死なない程度の生活をしていた。

 保護者と言って良いか分からないけど、生活費を用立てるらしい祖父母は、しかし、僕を視界に入れるのを最初から極端に嫌っていた。だから、もう何年も姿を見ていない。郵便貯金の通帳の数字以外の接点は、とっくの昔に切れている。

 いつどこで耳にしたのか覚えていないけど、奔放な父母の交遊の結果、もしくは不倫の罪が僕で――、しかも、幼少期に祖父母に懐かなかったから、こうするのは仕方が無くて当然だと、何処かの誰かが言っていた気がする。

 ……まあ、どうでもいいことだけど。


 人と違う生活をしていることには、小学校に入ってすぐの頃に気付いた。だけど、正直、それにもあまり関心がなかった。年が同じで、たまたま近い場所に生きているだけの他人と会話を交わしたり、グラウンドでサッカーなんかをするのにたいした意味があるとは思えなかったし。

 そうして普通の人とねじれの位置にあるままに七年が過ぎ、僕は今年の春には中学二年になっていた。

 もっとも、時間が経っても、背丈以外に大きく変わったものはなかったけど。


 近くに大きくて由緒正しいお寺があるから、こんなちっぽけな神社に来る物好きはほとんどいない。鎮護の森も、杉の巨木ばかりで動物はほとんどいなかった。

 話し相手はいないが、そもそも話す程のなにかを内に持っていなかったので、特にそれをどうこう思うこともない。

 どこかの偉い人が言ったように、時間という物は相対的なものらしい。哲学的意味でも。

 昨日と同じ今日があって、今日と同じ明日がある。

 その事実に感じることは何もない。

 ついさっき、見知らぬ女の人に話しかけられるまでは、そう……思っていた。


「あの……。すみません」

 賽銭箱の前にいる人が、不意に声を上げた。

 六月に入ったぐらいから、その女の人が毎日ここに訪れてきているのを僕は知っていたけど、どうせ個人的な願望――願掛けかなにかだろうと思ってそのままにしていた。

 この神社にご利益があるのかどうかなんて僕は知らないし。特にお守りかなにかを売っているわけでもなかったし。占いなんて出来もしないし。

 だから、最初、僕はその呼び掛けが僕に向けられたものだと気付けなかった。とても珍しいことだけど、同時に二人の人間が神社に参拝しに来たものだと思って。

「あの!」

 と、さっきよりも大きな声が響いた。

 ガラスの嵌っていない粗末な格子戸の隙間から外を窺うと、視線が重なる。いつもの女の人以外の人影はどこにもなかった。

 そこでようやく、彼女は僕に話しかけているということに気付いた。

 理由は――、今も分からない。

 なんでその時だけは立ち上がり、両の扉を大きく開いたのかは。

 声を掛けた人は、彼女の前にも何人か居たのに。


 賽銭箱を挟んで向かい合った時、その女の人は戸惑った顔をした。

 なぜ自分から話し掛けたのにそんな顔をするのか分からなかったから、彼女の顔を見たまま僕は小首を傾げる。

「あ……いえ、すみません。お着替え中でしたか?」

 問われて、意味が分からなかった。

「なぜですか?」

「いえ、その、神主様は普通、和服……といいますか、あの」

 訊き返すと、しどろもどろになって女の人がポツポツと喋った。

 ああ、と、改めて自分の格好を見れば、ごくごくありふれたチノパンに真っ黒なTシャツを一枚着ただけのラフな格好だった。和服云々以前に、神職特有の白っぽい色調でさえ無い。

「すみません。僕はここに住んでいますが、特に神職の人間というわけではないのです」

 あ、と、声を上げた後、気まずそうに女の人は下を向いてしまった。

「その、すみません、私、てっきり……」

 さっきと比べれば、とてもか細い声でそんなことを言っている。

「なにか、御用でしたか?」

「はい、ええと……その……」

 不思議な人だな、と、思う。

 自分から話し掛けたくせに、随分と話し難そうにしている。気まずくなるかもしれないなら、声なんて掛けなければいいのに。


 さやさやと、森の中を弱く這うように漂う風。

 小さなお社に当たって空へ吹き上がる。

 普段の夏の青々とした木の香りの中に、微かに香水が混じる。


 風を見送った後、長い沈黙が終わり、彼女は意を決したように口を開いた。

「診ていただきたいものがあるんです。よろしいですか?」

「僕で宜しければ」

 僅かに肩の力を抜き「上がっても良いですか?」と、彼女が訊いたので無言で頷く。

 賽銭箱の右側の段差の前で靴を脱いだ彼女は、僕の隣に並んだ。

 大人の女性だけど、僕の肩ぐらいまでしか身長はない。

 小柄なのかな?

 二十歳ぐらいの女性に知り合いが居ないから、比較出来ない。

 でも、少し子供っぽいような気はする。

 丸顔で、今は伏目がちで――心細いのか瞬きが多く睫も揺れているけど、多分普通にしていたら大きな目に、淡い色の口紅を引いた唇。髪はボブカットなんだけど、眉の上までの前髪も、首の後ろの首の中程までの長さの髪も、大きな鋏でひと断ちしたような直線で――。古風な尼さんみたいなんだけど、幼い顔立ちと相まってどうしても、クラスで髪型失敗したと騒いでいる子のように見えてしまう。

 良く見れば、左目の下に色の薄い泣き黒子が三つある。まるでオリオン座のベルトみたいだ。

 身体つきも、なんだか全体的にこじんまりとしている。


 隣に立ったまま、中々堂内に入ろうとしない彼女を左手で促すけど――。

 ああ、そうか、敷物か。

 と、六畳ほどの室内を見て彼女が立ち止まったままでいる理由に気付き、先に入ってさっきまで自分が座っていた座布団を、文机を挟んで反対側に設置しなおして、どうぞ、と、促した。

「ひとつしかないんですか?」

「ええ、ここには僕しかいませんし、訪ねてくる人もおりませんから」

 さっきまで僕が使っているもので申し訳ありませんが、と、多少使い古した感のある座布団を勧め、彼女が座ったのを見届けてから扉を閉めた。

 カシャン、と、木の扉同士がぶつかった音に肩を震わせたその女の人に「なにもしませんよ」と、告げる。異性に興味がないわけではないけど、そこまでお付き合いをしたいとも思っていない。無理やりなんて、尚更。

 もっとも、他人からの自己申告の信用性が、彼女にとってどこまでかは怪しいものだったけど。

「はい」

 そう返事した女の人も、やや居心地が悪いのか縮こまって周囲を見回していた。

 まあ、全てが木で出来た六畳ほどの部屋の中には、奥の御神体の入っているという祭壇と、座布団、それに文机以外に物はないんだけど。

「こんなところにお独りで?」

 彼女が部屋を観察し終えるのを待っていたら、唐突にそんなことを言われて――。

「す、すす、すみません! こんなところだなんて失礼ですよね! 修行ですか?」

 同意する前に、とても慌てた様子で早口で捲くし立てられた。

 失礼もなにも、ここの右手側にある寝室だって四畳程の刑務所のような作りの部屋なので、彼女の見立てに誤りはないと思うけど。

 それに……。

「修行?」

 意味を掴みかねて訊き返す。

 どこか拗ねてるような様子で、僕の方じゃなくて僕の左側の壁を見ながら彼女は言った。

「その、神様に仕える禁欲生活とか……」

 訊かれている意味は理解出来た。しかし、ああいう修行って意味があるのだろうか? 得られるモノも自己満足だけのような気がするけど。

 いや、そもそも、どうして僕がそんなことをする必要があるのだろう? 超常の力になんて興味は無いんだけどな。

「僕は無神論者ですが」

「えっ?」

 正直に答えたら、ギョッとした顔をされた。

「あー、……え?」

 一拍後にへらっと笑った彼女は、僕の話を聞き逃したのか、小首を傾げて頭を掻いたので――。

「僕は無神論者ですが」

 もう一度言ってみたら、凄い剣幕で迫られた。

「い、いえいえいえいえ、聞こえています! はい、それはもうばっちりと、でも、え?」

 尋常じゃないほどにうろたえられていたので、ようやく僕も気付いた。神社に住んでいる以上、神様を信仰しているように見えてしまうのだろう。神職じゃないと言う僕の最初の答えも、宮司なんかの資格を持っていないという風に捉えられたのかもしれない。

 でも、僕の場合は……。

「家族から宛がわれたのは、これだけだったんです」

 偽る理由も必要性も感じなかったので、素直に答える。

 途端、女の人は目を見開き――それから少し口の端を歪め、すっと近付いていた距離が離れたような、そんな他人の顔をした。

 僕と接した人がよく見せる表情だったけど、今日はそれを見続けたくない気分になる。

 理由は分からない。

 でも、僕は僕自身の気分に素直に従って話題を変えた。

「それで、診て欲しいものとは?」

 彼女は、すぐには答えなかった。

 迷っているというより、後悔しているのかもしれない。どうしてだか分からないけど、普通の人は僕が正直に僕の状況を話すと――さっきの彼女のような表情をした後――急に距離を置きたがる。

 その意図にも理由にも興味はない。ただ、そういう事実があると認識しているだけ。

 だから、止まった彼女との会話もそういうものだと割り切っている。

 帰るというなら、引きとめる気はない。必然性がないのだし、そうするだけの理由もない。


 声を出すタイミングを計れずにいるのかな? と、長い沈黙を疑問に思い始めた時、微かに震えながら彼女が声を上げた。

「あの……誰にも言わないで欲しいんですけど」

 改めてみれば、それほど暑くもないのにひたいにびっしりと汗をかいている。

 声が重い。

 話していない時も唇が震えている。

 これから話すのは、彼女にとっては余程の事なのだろう、ということは理解出来た。

「はい、承りました」

 そもそも日常的になにかを話す相手が僕にはいないのだから、ついうっかりという可能性も量るに値しない。

 僕の同意を聞き届けた彼女は、しばらくこくこくと俯いたままで頭を振っていたけど、すぐにその動きを止め、膝の上においていた自分自身の手をきつく握った。

 また時間が掛かりそうだな。

 だけど、そんな僕の予想はすぐに裏切られた。

 詰めていた息を大きく吐いた彼女は、おもむろにジャケットを脱いで無造作に床に置き、ブラウスの裾を捲り腹部を露にした。

 腰に行く前の、引き締まった腹部、臍の左側にべったりとなにかを塗りつけたような……いや、爛れているのだろうか? 左の側筋全体において、赤黒い色の肉が盛り上がり、撚れたような皺が走っている。表面は、出血はしていないようだが乾いていない光沢がある。動脈が走っているのかと一瞬思ったけど、彼女の緊張による震えが拍動に見えただけだったらしい。

 素人目に見ても、重症と分類するのにいささかの躊躇いも感じない傷だった。

「病院へは?」

 質問した瞬間、食い気味に言葉を重ねられた。

「やっぱり、貴方には見えるんですね?」

 言葉の意味はすぐに理解出来たけど、彼女の説明を沈黙で促す。

「ここの町医者だけじゃなくて、大きな病院にも掛かりました。でも、これを見えるお医者さんはいらっしゃらなくて……。それに、計器で計れるモノではないようで……」

 さっきよりも震えが酷くなっているような気がした。

 それも症状のひとつなのかと思い――出来ることは無いかもしれないけど、大丈夫ですか、と、僕を見ずに自分自身の足に目を落としたままの彼女に尋ねようとした所、彼女は少しだけ視線を上げて僕を見た。

 僕の疑問が伝わったのかは分からない。

 でも、まるで大丈夫ですとでも言うかのように彼女は自分の胸を抱くようにして腕を組み――、でも、なぜかブラウスの裾は下ろさずにいた。

 心が落ち着いたのか、肩の震えは引いてきているようだった。

「原因に心当たりは?」

 視線を完全に外される前に訊いてみるけど、首を横に振られただけだった。

 そして、再び彼女は真下を向いてしまった。

 この怪我? を、なんとかして欲しいのだとは理解した。

 でも、別に僕は神職に着いているわけじゃないし、そもそも霊感があるわけでもない。祈祷なんて出来ない。最初に言った通りの無心論者で、付け加えるなら多少の現実主義者だ。とはいえ、外科的な治療も所詮中二の僕には土台無理な話だけど。


 なんていったっけ? 前の国語の授業の諺で――ああ、そうだ、溺れる者は藁をも掴む、だ。

 当てがなにも無くなった時に、たまたま神社が目に入り、偶然にもそこには人がいた。

 多分、そういう状況なのだろう。

 無理だと話して帰ってもらうのが最善の選択のように思う。

 でも、まだ、本当に見ただけだしな。客観的事実を理解すれば、なにか分かるかもしれない。これが見える人が少ないなら、僕程度の意見もいらなくはない……ような気がする。

「触れてみても?」

 そう問い掛けると、彼女は大きな目で僕を真っ直ぐに見つめた。

 黒い綺麗な瞳だと思った。


 短くはない間があって――、首から力を抜くような動作で目の前の女の人は頷いた。

 彼女がいつでも逃げられるように、ゆっくりと手を伸ばす。

 怪我をしていない部分は、白くて綺麗な肌だな、と思った。それに、お腹もそうだけど腕も、その上にあるこじんまりとした胸も、肩も、やわらかい曲線のシルエットだった。

 彼女が太っているってわけじゃない。むしろ、細めだと思う。

 ただ、異性をこんな近くでまじまじと見ることがなかったから、ふわふわとした雰囲気が……その、なんというか、今抱く感情じゃないのかもしれないけど……。

 目の前の女の人を可愛いと思った。

 そして、そういう感情を抱いたのは、初めてのことだった。

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