第6話 別れ
店内は暖色の照明でほんのりと明るくて、適度な
運命とも呼べる不思議な再会を果たしたふたりは、近くの喫茶店へ入り、ふたり向かい合って席に座ると、お互い恥ずかしそうな笑みを浮かべる。テーブルにはふたつの湯気が立ちのぼり、どちらかが
「あの日から、学校生活は楽しめた?」
この質問は不必要なものだったかもしれない。だってそのまぶしい笑顔をした彼女が青春を
彼女は返事の代わりに満面の笑みを見せると、大きく
「そっか……それは良かったな。やっぱキミは俺とは違ったんだ」
グラウンドの片隅で
「全部お兄さんのおかげだよ」
彼女はかわいい笑顔のままでそう言った。でも、俺はそんなに笑えない。
「それは違うよ。俺はなにもしていない」
そう、俺はあの日話しかけただけだった。だからしてもないことに感謝されると少しむず痒い感覚に陥る。
「違わないよ? だって私お兄さんに会ってなかったらずっとあのままだったよ?」
「いや、遅かれ早かれそう言ってくれる人はあらわれたと思うよ」
「私はあれから生きてきたけど、そんなこと言う人いなかった!」
「だったとしても自分で解決してたと思うよ。だいたい言葉ひとつじゃ人なんて変わらないし」
彼女は俺の言葉に「確かにそうかもしれない」と言って、少しのあいだ目をとじると納得したようにうなずく。そして彼女は「だから」と言って続ける。
「私はお兄さんに言ってもらえたから変われたんだよ」
「さっきも言っただろう。言葉一つじゃ人は変わらないって」
「違うの! 私はお兄さんという存在を知って、そのお兄さんから言葉をもらえたから変われたんだよ」
彼女は力強い声で言うと、真剣な眼差しでこっちを見る。俺はその眼差しにこれ以上反論することもできず黙ってしまった。
その俺の様子に満足げな彼女は、熱そうなコーヒーにゆっくりと口をつけ、落ち着いた口調で「ところで」と切り出す。
「お兄さんの方はどうなの?」
この問いに「どうとは?」と聞き返してみたものの、この「どう?」の意味するものを俺は分かっていた。でも、それに対する適切な回答をまだ用意できていない。
「学校生活の話。あの日言ってた青春はちゃんとできたの?」
俺はこの問いに素直に答えることができない。
もしも、ここで俺がぼっちであることを明かしてしまうと、『私は変われたのに、あなたはまだ孤独のままだと』心を痛めてすごく気を使わせてしまうだろう。優しそうな彼女なら特にだ。
だから、俺は答えに迷って、考えて、言葉を選んだ。そして、思いつく中で一番
「まあ、ぼちぼちかな」
しかしその答えに不満顔の彼女は、そんな曖昧な表現では満足はしてくれない。
「ぼちぼちってどんな感じ?」
彼女はやや疑いをはらんだ目で俺を見る。俺はその視線から目を逸らしながら、適当な言葉で間をうめる。
「ぼちぼちはぼちぼちだよ。ぼちぼちっつうか、まあまあって言うか。俺は全然大丈夫だから気にすんな」
そう言うと彼女はよりいっそう不満げになる。
「それはこの目をしっかり見て言って! それは嘘じゃないんだよね?」
彼女は自身の大きな目を指さし、俺の目をしっかりと見つめていた。
その目は透き通って青く揺らめく綺麗な水面のように見えて、瞳の中にはみっともない俺が映っていた。どう言っても全部見透かされそうで、つい「全然だった」と言いたくなる。言ってしまえば同情してくれるかもしれないし、なにか手伝ってくれるかもしれない。でも、俺がそう告げたら彼女はたぶん悲しむことになるだろう。
ならば、答えることはたったひとつ。
俺は大きく息を吸い込むと自信満々に言ってやった。
「嘘じゃない、本当だ! ちゃんと輝かしい青春はできたから全く問題はない!」
思った以上に吹っ切れて大嘘を言えたもんだから、俺は清々しい気分になる。
しかし、目の前の彼女は納得どころか不信の目をしていて、すぐに厳しい口調で返ってきた。
「嘘つき! なんで嘘つくの?」
「嘘じゃないよ、だって……」
「だって何? 週に一度スーパーのおばちゃんとしか話さない日々がお兄さんにとっての青春なの? 大学と家を往復するだけの日々のどこが青春なの?」
全部お見通し、というよりかはあのおばちゃん喋りすぎ……
俺は返す言葉がなく黙りこむと、彼女は訴えかけるように言う。
「私だってお兄さんを助けたいの! なんで拒絶するの?」
「だって俺はお前を助けてなんかいない! あの時も言っただろ、匿名だって」
「匿名でもちゃんと私を救ってくれた人は目の前にいるんだよ、なんで私の番をさせてくれないの!」
「匿名だからお前はわざわざお返しをする必要なんてない。匿名にギブアンドテイクなんてそもそも存在してないんだよ」
「お兄さんまた難しいこと言ってる!」
少し彼女は怒ったような声音で言った。
「辞書でも調べてくれ! とにかく俺はお前を助けたとも思ってないし、恩義を受け取るつもりもない、いいね?」
そういうと、彼女は押し切られたのか「じゃ、じゃあ……」と少し視線を落とす。
「すっごい不満だけど、恩義はあげないことにするし、あの日のふたりは私の心にしまっとく」
「あの日のおまえと同じで聞き分けが良くて助かるよ」
俺が挑発的にそう言うと、俯いたままだった彼女は何かを決断したかのように顔をあげた。
彼女は恥ずかしそうな表情をするととんでもないことを口にした。
「で、でも、今この目の前にいる二人の男女で関係を作るのはいいんだよね?」
「は…………えっ?」
彼女がいきなり予想外のことを言いだし、俺は驚きのあまり言葉がうまく出てこない。
「いや、良いに決まってるもん。だってお互い初めましてが、助けてくれたことでつながりあっただけだもん!」
「だから、あの日のことは……」
「そっちじゃなくて、さっきのこと」
そこで俺がなぜここにいるかを思い出した。彼女と話し、昔のことだったり考えているうちにすっかり抜けていた。とはいっても、あのみっともない方法じゃとても助けたとは言えない。
「さっきのことも、俺は助けてなんて思っていない」
「絶対助けてるよ! なんでお兄さんは私との関係を否定しようとするの?」
「それは……」
「私の何が悪いの? 教えて欲しい! 変えられるところは変えるから」
「いや、お前は悪くない。俺が悪いだけだ」
「じゃあ、助けたお礼を受け取ってよ!」
恩着せがましいと勝手に決めつけて、美人の前に引け目を感じて、俺のこじれた信念が彼女からの恩義を拒絶していたが、そこまで迫られると受け取らざるを得ない。
「…………分かった。助けたお礼だけは受け取ってやる。ただし安いものだ! あんなの助けたうちに入らない! 100円以下だ!」
「分かった! 100円以下ならなんでもいいね!」
「ああ、いいさ!」
彼女はゆっくりと息を吸った。
そして、下を向きながらしっかり息を吐くと、顔を上げその吸い込まれそうな大きな目で見つめ、ゆっくり微笑みながら口を動かす。その頬は朱く染まっていた。
「私の青春をあげます」
「…………え?」
今なんて言った? 私の青春?
ふと俺の脳裏によぎったその言葉の意は、到底ありえない意味を示していた。きっと何かの言葉のあやだ。
「ごめん。よくわからなかったけど、そういう商品があるの?」
そう言うと彼女は顔を真っ赤にして手で覆う。
「なんでこんな恥ずかしいことをもう一回言わないといけないんですか! もう一度言うのでちゃんと聞いてくださいね」
彼女は今度は早口でとても恥ずかしそうにしながら言った。
「私の青春あげるので、付き合ってください」
「えっ!」
俺は驚きのあまり、店内に響く大きな声が出た。
周りの客の視線がチクチクと刺さり居た堪れなさ感じる。だけど、彼女はそんな周りの視線になんて目もくれずに俺の目だけ見ている。
「私、あの日からお兄さんに青春をあげたくて必死だったんですよ! 青春は、おしゃれが重要だから、頑張って可愛くしようとして、お金も必要だからいろいろバイトもして。まあ、おしゃれにしてもそんな可愛くはならないし、お金だってまだ二十万くらいしか貯まってないですけど……」
彼女が色々ととんでもないことを口走っているのはさておき、一つだけ男として絶対に訂正しておかなきゃならないことがあった。
「いや、お前は最高にかわいいよ!」
「えっ? いきなりなんなんですか? えっ……」
彼女は上ずった声で驚くと、彼女は耳まで真っ赤にしてあたふたしていた。
「俺はコンビニで初めて見た時天使に見えたんだ。もはや顔さえ見るのが恥ずかしくて、お前のいるところ避けまくったくらいだから」
俺がそういうと今度は目を真っ赤に腫らし、朱く染まる頬には滴がつたった。
「えっ? 何か悪いこと言った?」
急に泣き出してどうすればいいかわからず慌てる俺に、彼女は大きく首を振った。
「いいえ、その、憧れのお兄さんに可愛いって言ってもらって、嬉し泣きって言うか……」
彼女の流す嬉し涙はとても美しかった。だからこそ俺は……
ひどく後ろめたさを感じた。
だって俺はこれから彼女には悲痛な宣告をしなければならないのだから。
彼女は
「じゃあ、お、お付き合いもいいですか?」
彼女の顔は真っ赤で、俺の言葉を不安そうに待っていた。だから俺はその表情から逃げずに、彼女をまっすぐ見て、努めて冷静に話した。
「いや、俺はお前とは付き合えない」
そういうと彼女の顔から一瞬で、明るい笑顔と美しい涙が消え、残ったのは青ざめた表情だった。これまで全ての表情が可愛かった彼女の中で一番可愛くない表情だった。
「え? なんでですか? なんでダメなんですか? ほんとに悪いところあったら教えてください! 顔やお金は無理ですけど、性格とか格好とかならいくらでも合わせますから。本当になんとかならないんですか?」
彼女は怯えたような顔をしながら慌てて言葉をまくしたてる。その彼女の必死さに心はぐらぐらと揺れ動くが、俺は歯を食いしばり表面上だけでもと冷静を取り繕う。
「じゃあ一つだけダメな点を言う」
「な、な、なんですか?」
彼女はビクビクしながら俺の言葉を待っていた。強い緊張感で聞いているのを感じてこっちも緊張する。
俺は拳を握りしめ覚悟を決めると、喉から言葉を
「おまえの男の趣味! こんなひねくれたぼっちを選ぶその趣味が嫌いだ! もしその趣味が直せたならその時考えてやらないことも……」
話している途中にいきなり、パシーンと大きな破裂音のような音が響く。一瞬何が起こったか分からなかったが、すぐに頬がヒリヒリし音の正体に気づく。
彼女は目を赤くし、俺の目を睨みつけた。
「なんでそんなこと言うんですか! なんでお兄さんはそんなに自分を卑下するんですか! 勝手にあなた自身の価値をあなたが決めないでください! 私の感情を勝手に否定しないでください!」
「それは……」
「もういいです! お兄さんなんて知らない!」
彼女は突如立ち上がると、カバンと伝票を持って足を踏み出すから、俺は伝票だけでもと抑えた。その手を見て彼女はひどく悲しそうな
彼女が外に出るのを見送ると、俺はその場で頭を抱えた。
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