第16話 一抹の奇跡を信じて


 隣同士で並んで座り、電車でふたり揺られながらどこかへと向かう。なんてことない時間だけど、私にとってすごく温かくて大切な時間。


 でも、隣に座る彼の顔を見て、私はお兄さんが何を考えているのか分からなくなってきた。


 あの日苦しい顔をしながら絞り出すように口にした『あの日のことを忘れてくれ』の言葉は、私を突き放すためにわざと言ったんだと思ってるし、本気じゃないと信じている。


 だけど、頭で分かっていてもその言葉は私の全てを否定されているようで、心は張り裂けるように痛かった。


 だって、今の私は『あの日』から始まっていて、『あの日』は私の全てだから。


 お兄さんに否定されたことが悔しくて捨て台詞ゼリフのように吐いた『忘れたくても忘れられないデートにする』の言葉も、結局は口先だけの言葉にしかならなくて、あの時私はすでに失望していた。


 そして、約束をすっぽかしてしまった。


 これだけ激しく降りしきる雨は、私の心を完全にノックアウトするのに十分すぎる雨だった……





 違う!


 私はこの降りしきる雨を見て少しほっとしてしていたんだ。だって、私は雨のせいで失望して、雨のせいでお兄さんと別れてしまったと言い訳できるから。


 お兄さんと話すことなく、全てを雨のせいにして目を瞑ることができるから。


 私はお兄さんに会うのが怖かった。


 お兄さんにこれ以上『忘れてくれ』と言われて、私を否定されるのが怖かった。だからお兄さんに合わないまま世界が、全てが終わってしまえばいいと思っていた。


 そして、お兄さんが部屋に入ってきたとき私は覚悟した。


 約束をすっぽかした上に、こんな子供みたいに駄々こねて、みっともない格好をさらしていて、これからお兄さんは私を怒って、私を否定するんだ。そう思うと、目が痛いほど涙が出て、とにかく早く楽にして欲しいと思うようになった。


 一思いに私の胸を貫くその鋭利な言葉を口にして、楽にさせて欲しかった。


 だから私はお兄さんが否定の言葉を、別れをの言葉を口にする前に、私から言わせようとした。ほんとに私は最低な女だ。



 なのにお兄さんは……



 私はまた電車の横にいるお兄さんの横顔をチラリとみる。するとお兄さんもこちらを見ていたようで、目があってからすぐに逸らす。そして私はお兄さんに分からないように頬を緩めた。


 はたから見れば、まるでおもちゃを買い与えられて満足している子供だ。


 お兄さんは、こんな私の手をとって連れ出してくれたんだ。


 お兄さんとしてはいち早く別れて罪悪感の苦しみから解き放たれたいはずなのに、お兄さんは私を諦めなかった。


 でも、なんで?


 そして、わからないことはもう一つあった。私は気になって仕方なくて、その疑問をつい口にする。


「お兄さん! なんでイーランに向かっているんですか? こんな大雨ですよ!!」

 

 後ろを振り向くと、流れる景色にも激しく雨が打ち付けている。とてもイーストランドのような遊園地に向かうような天候ではないし、現に私だって行くのを諦めた場所だ。


 でも、お兄さんの方を向いて訴えかけるように言っても彼は「うるさい」とひとこと言うだけだった。


 お兄さんの中ではこんな時に『うるさい』ブームが来ていたらしい。


 たしかに、部屋で怒鳴るように発した『うるさい』と、カフェで私が『振られるなら別の場所がいい』と言った時に発した『うるさい』は、彼が私を本気に怒っていて怖かった。だけど、それ以降のうるさいは、あの優しいお兄さんのいう『うるさい』だ。むしろ可愛くて、私は嫌ではなかった。


 でも、うるさいと一蹴いっしゅうされてしまうと本当にどこに向かっているのか見当がつかない。お兄さんは近くにある大型ショッピングモールに向かうのかと思っていたけど、いよいよ分からなくなってきた。


 でも、私は不満じゃなかった。


 お兄さんに振り回されて、お兄さんに染められるなら私はそれで幸せだから。



* * *



 結局私たちはイーランの近くにあるそこまで大きくないショッピングモールへと向った。そして昼ごはんを食べたり、服を見たり、ゲームセンターに行ったりしてから、今は有名チェーンのカフェに来て一息ついている。時刻は十六時半。


 ふたりはお互いにブラックコーヒーを頼み、カップに口をつけるとふたりとも苦そうな表情をする。


 特に私はブラックコーヒーは苦手だけど、今日は全てお兄さんと同じものと決めていたら、パスタだって同じよくわからない名前のものを頼んだし、今朝のカフェオレだって同じ。だから、このブラックコーヒーだって同じ。


「そういえば昼のパスタ美味しかったですね、えーとペカなんとかでしたっけ」


「ペスカトーレだよ。美味しかったね」


 彼は優しく微笑みながら、返してくれる。今日のお兄さんの行動は柄にもなくイケメン感がある。


「あと、服も買ってもらっちゃいましたね。お兄さんセンスなさすぎて揉めましたけどね」


「しょうがないよ。ぼっちの俺には服のこととか分からないし」


 さすがに、お兄さんが持っていた真ピンクのスカートに白のTシャツの組み合わせを着る勇気は無かった。


「でも、本当いくらかお支払いしましょうか? 私だって財布あるんですよ?」


「いや、今日は絶対に払わせないから」


 『それは最後だからですか?』私はそう言いたい気持ちを必死に抑えて、誤魔化したようにからかう。


「お兄さん、柄でも無いことを言いますね」

  

「うるさい!」


「あとゲームセンターも結構楽しいものなんですね。私あまり行ったことなかったんですよ」


「俺が全部ボロ負けだったから、楽しめたのか心配だったけど。それなら良かったよ」


「ええ、ほんとお兄さん弱すぎです。もっと特訓してきて……」


 お兄さんはもっと特訓をしたらどうするの? 誰が相手をするの? 私の心の中の声が、私の口を止めた。そのことをお兄さんは不思議そうに「どうしたの」と尋ねるので、誤魔化すついでに思い切って頼んでみた。


「あの、お兄さん! 最後……じゃ無くて、今から私と一緒にプリクラ撮ってもらえませんか?」


 私はゲームセンターに行った時、必死にプリクラとお兄さんの顔を交互に眺めて、撮りたいアピールしたのに全く反応してもらえなかった。


 わざと避けているようにも思えたから、頼みづらかったけど、今日のお兄さんなら案外「いいよ」と言ってくれたりと期待もしてみたけど……


「ごめん、それはできない……」


 と断られてしまった。


 私は思い出を形に残すことさえできないことを悲しく思い、少し涙が出てきたのを必死にぬぐう。だって、残りわずかしかないお兄さんとの時間を泣いて終わりたくなかったから。


 それから、ふたりにはわずかながらに温かいひとときが流れた。

 

 そして、残された時間はあと十分を切ったところで、お兄さんが唐突に立ち上がると「行こう」と手を差し伸べた。


 今日何回も差し伸べてくれたその手は、大きくて、握れば温かく包みこんでくれそうな手をしている。でも、私はすぐに手を引っ込めて膝上でズボンを強く握った。


「まだ、あと十分あります! ちゃんと約束守って下さい……お願いします!」


 でも、お兄さんは手を引っ込めることは無く、差し出したまま「行こう」ともう一度言う。でも、私は諦めない。


「約束しましたよね! しかもあと十分じゃないですか、それくらいは許して下さい!!」


 私の頬にはいっぱいの涙がつたい、目を腫らし、顔を歪めながら大泣きしていたと思う。みっともない私。でも、それでも譲れなかった。だけどお兄さんは……


「うるさい! 早く行くよ!」


 そう言うと私の腕を掴み、無理やりに引っ張った。



 私はそこで全てが終わったのだと、直感ながらに理解した。



 もう二度と会えない、目の前の温かいお兄さん。



 私はお兄さんを想い、顔に手を当て涙を拭いながら歩く。目から流れるようにつたっていく涙は、拭っても拭ってもとても間に合わず、歩く足もだんだんと力が入らなくなっていき、ついにはしゃがみ込んでしまった。


 私が崩れ込んで立ち止まっていると、前を歩いていたお兄さんは、私の目の前で腰を下げて背中を差し出す。そして「いいよ」とひとことだけ呟いた。


 私は、あふれる涙を拭うので精一杯で、差し出された背中へと身体を預ける。


 そのお兄さんの背中は大きくて、暖かくて……


 お兄さんの背中にいる間、私は涙をこぼさないように必死に目を閉じた。だけど何粒もお兄さんの首元に涙を落としたと思う。たぶんそれは気持ち悪くて不快なものなのに、彼は文句の一言も言わずにおぶっていてくれていた。


 私はお兄さんに揺られている間、お兄さんとの楽しかった日々を思い出す。でも、あまりにも短すぎてすぐに終わってしまうから、また巻き戻して一から見直した。そして、一周するごとに涙がまたあふれていき、そのたびに視界はぼやけていく。







 ふと気づくと、私は暗くて何も見えない空間で、道の真ん中に一人で立っていた。前を見ると、道は二つに別れていて左側には眩しく光り輝く道が続いている。そして、右側には薄暗い道が見通し悪く続いていて、そこにはお兄さんが立っていた。


 だから私が右側に足を動かそうとすると、お兄さんは「こっちに来るな」と言う。そして、前から歩いて来たお兄さんに肩を強く掴まれて、右側の光眩しい道へと強く押し出される。


 私を突き放したお兄さんは「こっちに進んだほうがいい」と涙を流しながら呟く。


 そして、私が振り向いて「そんなことない!」と叫んだ時には、暗闇もお兄さんもすでに無くなっていた。


 辺りはとにかくまぶしくて、くらんだ目が慣れていくと、その道の周りにはたくさんの人が見えて、みんな幸せそうだ。だけど、その中にはお兄さんただ一人がいなかった。


 もう一度振り向いても後ろには何もなくて、暗闇もない。だから……


「私はお兄さんと一緒にいれるなら暗闇がいい!! こんな光いらない!!」


 私は声が枯れるまで叫んだ。

 

 すると辺りがさらにまばゆく光ったかと思えば足元がグラグラと揺れ、地面が崩れ落ちる。そして身体は重力に任せて急降下していく……



 そこで私は夢から覚めた。

 


 ここどこだっけ?



 目をこすり、前を見るとなんだか眩しい光がぼやけて見えて……


 まだ夢から覚めてないのかと私は頬をつねると、だんだんと意識がはっきりしてくる。もうお兄さんとの制限時間は過ぎていて、泣き崩れた私は外へと運び出されている途中だった。


 私は必死に目を瞑り現実から目を逸らそうとしたが、目をくすぐる眩しい光につい目を開いてしまう。



 すると……




 目の前には暗闇の中に幾多の光が点々と並んでいて、その一つ一つの光線は私の目を刺すようにまぶしく飛び込んできた。辺りには楽しそうな人の声と、拡声器を通したスタッフの声が響き、カチカチと登ったと想ったらゴーっと勢いよくくだる音がしたりして、楽しそうに騒がしかった。


 私は慌てて目をこすると目の前には確かにイーストランドの入り口が映り、暗い中入り口や観覧車だったりが幻想的にまぶしく輝いている。


「へぇっ?」


 私は素っ頓狂な声が口を突き、お兄さんはそれに首だけ振り返る。


「やっと起きた」


 お兄さんはそう言うと、腰を下ろして私を背中から下ろす。私は地面に足をつけ立ち上がると、状況が理解できずにキョロキョロしてお兄さんの方を向く。


「こ、これはどういうことですか!?」


「どうもこうも、こういうことだよ。 行きたかったんでしょ?」

 

「そのためにわざわざこっちの方に来てたんですか?」


「うん、そうだよ」


「でも、もし晴れなかったらどうするつもりだったんですか?」



 すると彼は、優しくも悪戯っぽい笑みを浮かべながらゆっくり口をひらいた。


「そんなの、何も考えてないよ」


 あんなに大雨だったのに、あんなに私は塞ぎ込んでいたのに、あんなに失望していたのに、お兄さんはそんなもの簡単に覆して、私を笑顔にしてしまう。




 ああ……やっぱりお兄さんは私の王子様だ!

 

 

 彼は周りから見れば決して男らしいかっこよさなんてないかもしれない。でも私にとって、私が困っているのを見逃さずに、絶対に助けてくれる勇者であって、ヒーローであって、王子様だ!


 私は知っている。彼が別れを切り出すのは私のためだと。彼は何処までも私を助けてくれるし、私を光さす方向へ導いてくれる。


 でも今回ばかりはお兄さんに従順じゅうじゅんに導かれるわけにはいかない。


 もし彼の導く先に眩しい光があったとして、もし私の信じる道が暗闇であったとしても、ふたりでいられるなら絶対に暗闇がいい。

 

 お兄さんとの制限時間を終え、場面はいつ終わるか分からないアディショナルタイムへと突入した。


 でも、まだ試合は終わってない!


 私は今からまだできることはないか必死に考えた。


 「別れる」なんて言えないように、ずっと口を塞いふだらいいのかもしれない。それがその場しのぎであれば、ずっと塞ぎ続ければいい。少なくともその時間だけはまだ一緒にいられるから。


 私は覚悟を決めてこれから別れを口にするかもしれない彼をじっと見た。あの言葉だけはなんとしても絶対に言わせない!


 そして、私は息を呑んで待った。


 だけど彼が開いた口からは、別れの言葉ではなく、心の内をどこか苦しそうに紡ぎ始めた。

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